にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

「娚(おとこ)の一生」レビュー

 

 

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原作未読です。あ、一巻だけは読んだかな。逃げ恥の前、のだめの後、ヤマシタトモコと同時期で、大人向けの少女漫画ブームの先駆けだったような。

映画自体の完成度は、60点くらいかな。美術とか、雰囲気とかはすごく良かったです。榮倉奈々も演技が上手くてびっくりしました。豊川悦治は、これはこれで、と考えればいいと思う。監督も特に悪いと思わなかった。脚本というか、映画化に当たってストーリーを編集する人が、ちょっと下手だったのかなあと。
とりあえず事前に文句が出るなと予測できたんじゃないかなって思うのは、展開が急すぎるところですね。海江田の言動に引いてた時点から、夏祭りに一緒に行っただけで、告白OKしてるのが追いついていけない。
それと、やっぱり二時間と言う枠に収めるには物語をなぞるだけに終始してしまうのか、海江田とつぐみのバックボーンがわりと見えづらいですね。海江田にとってつぐみへの恋が、つぐみにとって海江田への恋が、一体どう言う意味をもっているのか、当人の口から語られてはいるんだけど、観客には実感が薄い。

こちらの記事ではその点作者の西さんがはっきりと語っています。漫画では表現されているということでしょう。

 

www.cinemacafe.net

>なぜ、難字「娚」にしたのか? 西炯子氏はこれについて「“おとこのいっしょう”という音が先に決まりました。ところが“男”という漢字では、海江田醇だけが主人公に見える。確かに、海江田が、初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をして、やっとひとりの女性に行きつく話ですが、それと同時に、都会で忙しく働き、男のように生きてきた女つぐみの話でもある。ですから、男として生きていかざるを得ない女性の話であり、男と女の話、という意味で“娚の一生”としました」とタイトルに込めた想いを語った。

ここで言われてる、「初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をする」海江田と、「都会で〜男のように生きて来た女つぐみ」というニュアンスが、映画みてるとあんまり伝わってこないんですよね。お互いとの恋愛の意味がうまく際立てられていないために、物語全体がイマイチぴりっとしないものになってきている。個人的にはもうちょっと時間を長くしてもいいんじゃないかと思いました。そもそも一般受けはあまり狙ってないなと思ったし。原作少女マンガだし当然なんですけど、はっきり女性向けな映画ですよね。そもそもそういうのが好きな人なら、30分くらい引き伸ばされても見るんじゃないかな。

一番、あ、これ、本当に女性向けなんだな、って思ったのは、海江田がつぐみの足を舐めるシーンです。
なんていうか、撮り方が海江田中心で、「若い女性の足の指を舐めるおじさんを見る」っていうのが主眼なんだなーって思いました。
そもそも海江田の方が設定が重いし、性格も複雑で、結構人を選ぶタイプですね。つぐみの方は、祖母が染物屋で、自分はIT 会社で働いてたけど、不倫で疲れて仕事を辞めて隠遁生活、っていう設定はあるけど、結構人格的には薄味、に見えます。家庭に問題もないし、料理もうまいし、結構モテるし、何でもそつなくできちゃう。言ってしまえば乙女ゲーの主人公みたいな感じで、ちょっと没個性的な人物でもあります。ゲームでは、プレイヤーが主人公に自己投影しやすいようにそうなっているんですが、こっちも同じような意図があるのかな。
海江田がつぐみに惚れた理由っていうのがよくわからないんですよね。可愛くて、自分を大事にしていないところがあって、料理がうまいから、なのかなあ。反対につぐみが海江田に惚れた理由もよくわからない。序盤はつぐみに共感して、海江田に「何この図々しいオッサン」って思って見てるので、急につぐみが海江田とくっついちゃうために置いてきぼり感が拭えない。
でも、好きになった過程とか、気持ちの揺れ動きを表現できてない? しない?映画ってすごい多いですよね。やっぱりすごく難しい描写なんでしょうか。…それとも単に私が感じ取れていないだけなのかな。
結果的に、つぐみが仕事を辞めておばあちゃんの染物業を継ぐ、って宣言する際に「貯金あるし。なくなったらスーパーでパートでもする」って言ってるのも、ちょっと海江田をアテにした言葉のような気がしちゃって。渡りに舟感が出ちゃってるのがイヤですね。そんな簡単で大丈夫なのかな。個人的にはフリーでWeb系の在宅ワーカーでもやってるのかなと思ってたのでちょっとびっくりしました。
だからタイトルもちょっと活きてこないんですよね。作者が「娚(おとこ)」なんて当て字まで使ってまで表現しようとしたものがわからなくなってる。「一生」なんて思い切った言葉を題名に使っているからには、そこには照準を当てたほうがよかったような。つぐみの一生って、結局、年上のお金もってるオジサンに惚れられてプロポーズされて結婚しちゃうこと? ってなっちゃうんですよね。この映画だと、残念ながら。

あと気になるのが海江田の眼鏡っすね。特にラストの台風で一番のキメシーンの時。あの眼鏡は……なくしてもいいやつなんだろうか。何個もあるんだろうか。あとそれをいっちゃ野暮なんですけど、眼鏡外すとますます見えなくならんのか。。
結構舞台設定も、主人公の年齢も現実的なんだから、そこは「漫画のお約束」にして欲しくなかったような気がします。

総括すると、豊川悦治に白スーツ決めて、もしくは下駄で甚平来てもらって、隣を浴衣や着物で歩きたーい(はぁと)みたいなお嬢さんがた得の映画ですね。個人的には榮倉奈々が可愛くて色気があったので、そのへんももうちょっと頑張って見せてもらいたかったなあ。最初だけやないかい。あんなに年上の男の人(少なくとも絶対自分より先に死ぬでしょ、お金はあっても。介護とかもあるしさ…)とくっつく葛藤とか、もっと見たかったなあと思います。

田舎の古民家で夫婦で暮らす、って同監督の「きいろいゾウ」でもありましたけど、すごくいいですよね。好きですこの設定。リアルでやるとどうしても掃除とか炊事とか大変なんだろうなって思うけど。年季入った木のテーブルが朝日に反射して蜜っぽく光る感じとか、品のいいうつわに和食が盛られてたり、茶色い縁側を裸足で乱暴に歩いたりとか。そういう光景って好きです。若くて旦那さんがいれば、不便も気にしないでいられるだろうなあって思う。
きいろいゾウ」も見直して、またレビューを書きたいと思います。
今日はこのへんで。ありがとうございました!

 

 

殺人を犯す青年たち〜「太陽がいっぱい」パトリシア・ハイスミス

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さて、今日は「太陽がいっぱい」の主人公・美しき犯罪者にして、大胆かつ繊細な24歳の青年、トム・リプリーについて書きたいと思います。
映画は見てないです。最近「キャロル」が話題になって、女性同士の恋愛って珍しいなあという感想を抱いてたくらいです。作家本人が同性愛者だとは知りませんでした。最近出た文庫のカバーが綺麗で思わず手に取ったという、なんとも軟派な理由です。

単刀直入にいえば、「太陽がいっぱい」すごく面白かったです。なぜ面白いのか。それは、主人公であるトム・リプリーの魅力に尽きるのではないか。原題が〝The Talented Tom Repley”なのも頷ける話だと感じます。
物語は 400ページ近くを延々とトムの行動、考え、感情の揺れ動きを辿るのみです。視点の変遷も、大きな場面の転換もなく、どちらかというと一本調子な書き方をされているといっていいのではないでしょうか。それでも読者の心をつかんで離さず、ぐいぐい読み進てしまう魅力がある。これはやっぱりトム・リプリーの人間としてのリアルさが、大きな推進力になっていると感じます。
このリプリー青年を描ききるパトリシア・ハイスミスもまた、talentedですね。いくつか候補があったようですが、このタイトルにしたのは作家自身の誇示もあったのではないかな。こんなtalentedな主人公を描けるハイスミスもtalentedだぞ、そこんとこよく覚えておいてね! みたいな感じがします、なんとなく。

本書の解説やGoogle先生の検索によれば、有名な映画版とはかなり話の筋が違っているようです。二回映画化され、そのどちらも結末が原作と違うというのは結構珍しいんじゃないでしょうか。
主人公はトム・リプリーはニューヨークで、たちの悪い仲間とつるみながら、税務署からの手紙を捏造して小銭を稼いだりと、詐欺師として生活していました。そんなある日、彼は昔の友人の父親・グリーンリーフから、資金援助はするから、息子をイタリアから連れ戻してくれないかと頼まれる。渡りに舟、これで今までのくだらない生活から脱出できる、と胸躍らせたトムは、一も二もなくその頼みを引き受けます。豪華客船に乗ってはるばるイタリアに渡ったトムと無事再会を遂げたディッキー・グリーンリーフは、父親からの送金で裕福な生活を送っていました。偶然背格好も顔も自分と瓜二つであるディッキーに、トムは次第に心を惹かれるようになるがーー。

トムはしばしば、「太陽がいっぱい」の評論において「同性愛者(的)」と形容されていますが、作中ではそれほどはっきりと書かれていません。ただ、自分の体の色の白さを異様に気にしたり、ディッキーのガールフレンドであるマージと並んで座る際、「(生理的嫌悪を催すために)腿と腿が触れ合わないように気をつけた」という書かれ方をしてあったりして、あ、ちょっと普通と違うかな、って感じはします。
昔のアメリカは特にマッチョ的価値観が強いと読んだことがありますので、こういった心理描写そのものが、「=ゲイ」っていう指標? 表現? になるのかもしれないですね。現代日本の価値観だと、まあそういう男性もいるかな、って思ってしまいますけれど。

トムの性格のなかで顕著なのは、芸術や美術を愛好する気持ちと、今までの自分の生活にはもううんざり、もうこんな野蛮な暮らしは送りたくない、という嫌悪です。彼はもっと素晴らしい場所で、繊細で教養豊かな青年として生きることを望みます。

 

新たな人生が始まっていた。この三年間ニューヨークで付き合っていた連中、付き合ってやっていた二流の連中とは、おさらばだ。移民が祖国に何もかも残し、船でアメリカに向かったときは、こんな気持ちだっただろう。過去の汚点は清算された! ディッキーとの間に何が起こっても、トムは自分の役をうまく演じるつもりだったし、ミスター・グリーンリーフはそれをわかってくれ、彼に感謝するだろう。ミスター・グリーンリーフの金を使い果たしても、アメリカには戻らないかもしれない。たとえば、やりがいのあるホテルの仕事につくかもしれない。ホテルでは、英語ができて、機転のきく、感じの良い人間を欲しがっている。どこかヨーロッパの会社のセールスマンになり、世界を股にかけるのもいい。また、ちょうど彼のような若者を欲しがっている人が現れるかもしれない。トムは車の運転もできるし、計算も速いし、年老いたおばあちゃんも退屈させないし、お嬢さんをダンスにエスコートすることだってできる。彼は万能で、世界は広い! 職に就いたら、こつこつとやるつもりだった。根気と忍耐! 上へ、前へ! (50)

 

「彼は万能で」ーー、確かにトム・リプリーはとても万能です。なんというか、持ち前の頭の良さで、あらゆる可能性を考え、他人の目に自分がどう映るかをどこまでも計算して、仕草ひとつ、目配せひとつまで神経を行き渡らせる。それは少し過剰なほど微に入り細を穿つために、しばしば神経過敏の状態になってソファに倒れ込むほどです。
彼は作中で殺人を二度、未遂を一度犯しますが、その瞬間はひどく激情的であるのに、その直後、摩耗した神経と、事の重大さに打ちのめされた脳みそを無理やりフル回転させ、あらゆる隠蔽工作とその方法を考え出します。そのギャップが読んでいてどこかユーモラスな感じすら覚えます。彼の頭の回転の良さ、用意周到さは読んでいるこちらが思わず舌を巻くほどです。いろんなパターンを想定し、客観的に先を読もうとする読者ですらついていけないことがしばしばある。充足感、隅の隅まで行き届くその想定に、まず無理だろう数式がすいすい解かれていくような、そんな快感すら覚えてしまいます。

トムは、いわゆる「冷血」な殺人犯でもありません。例えば、彼の演技力は、臆病で繊細な観察眼と、自分に対する人々の評価への敏感さに由来します。また、彼は自分で考え出したシチュエーションを何度も練習し、その自己暗示から「あたかも本当にそうだったかのような気がする」とまで感じます。彼は自分の考えに「酔い」、おそらく感性の敏感さゆえに「支配され」たようにもなる。このあたりが、トム・リプリーの殺人計画を、危うげで、それゆえに魅力的に見せています。
トムは(それがはっきりと恋情とも、友情の延長とも明言はされていませんが)、ディッキーとマージが男女の仲になる場面を想像して不愉快になります。それで、自分とサイズも同じディッキーの服を着て、鏡の前でディッキーになりきり、ベッドの上でマージを拒むディッキーの様子を演じてみせる。その後帰って着たディッキーにそれを見られ、ホモではないのかと直接問われることになります。

 

「ぼくの服だ。脱いでもらおう」ディッキーが言った。
トムは脱ぎ始めたが、屈辱とショックで指がうまく動かなかった。これまでディッキーは自分の服を、これを着ろ、あれを着ろといつも言ってくれていたのだ。もう二度とそんなことは言わないだろう。
ディッキーはトムの足元を見つめた。「靴もか? 頭がおかしいんじゃないか?」
「いや」トムはスーツを吊しながら、冷静さを取り戻そうとして、「マージとは仲直りしたのかい?」と訊いた。
「ぼくらはうまく行っているさ」ディッキーはおまえには関係ないというようにぴしゃりと言った。「もうひとつ話しておきたいことがある、はっきりと」彼はトムをじっと見つめて言った。「ぼくはホモじゃない。きみがどう思っているかは知らないが」
「ホモだって?」トムはかすかに微笑した。「きみがホモだなんて考えたこともない」
「でも、マージはきみはそうだと思ってるよ」
「どうして?」顔から血の気が引いていくのがわかった。…「どうして彼女はそんなことを? ぼくがなにをしたって言うんだ?」目まいがした。こんなふうに、はっきりと言われたのははじめてだった。 

…「ディッキー、このことをはっきりとさせておきたい」とトムが切り出した。「ぼくだってホモじゃない。誰にもそんなふうには思われたくないね」
「まあいいよ」とディッキーが不機嫌に言った。
…まあいいよ! いずれにしても、誰がこんなことを問題にしているのだろう? ディッキーだ。口にするのはためらわれたが、心のなかでは、言いたいことが混乱しながら渦まいていた。辛辣な言葉や、相手の気持ちをほぐす言葉、感謝の言葉や敵意をむきだしにした言葉が。彼はニューヨークで付き合っていたあるグループのことを思い出していた。付き合ってはいたが、結局は全員と絶交してしまい、今では付き合っていたことを後悔していた。楽しませていてやったから、彼らも面倒をみてくれていたわけで、誰ともなんの関係もなかった! ふたりに言い寄られたが、きっぱりはねつけたーーただたしかに、あとで仲直りしようと、酒に氷を入れてやったり、タクシーで遠回りして送ってやったりしたこともあったが、それは彼らに嫌われることをおそれたからだ。じつに馬鹿だった! それからまた、ヴィック・シモンズに、「頼むから、トミー、そんな話はやめてくれよ!」と言われた恥ずかしい瞬間も覚えていた。ヴィックが居合わせた席で、たぶん、連中相手に三度か四度、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもわからないんだよ。だから、どっちも諦めようかと思っている」と言ったのだ。みんなが精神分析医に通っていたので、彼も通っているふりをして、パーティーではいつも、医者とのやりとりをおもしろおかしく話して、みんなを楽しませていた。男も女も諦めてしまったという話をすれば、かならずみんな笑ってくれた。…実をいうと、あのなかには真実もけっこうあったのだ。世間の人間とくらべれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない、とトムは思っていた。ディッキーとこういうことになったのは皮肉な結果だった。(111ー113)

 

個人の性嗜好をとやかくいうのは野暮なことだとは思いますが、ここにはトムの人付き合いに対する基本的姿勢が見え隠れしています。トムは自分の本心を隠し、他人の感情を優先し、その襞に分け入ることを率先して行います。やはり人とは少し異なる、敏感な青年であるがゆえなのでしょう。自分の本心をちらっと見え隠れさせることすら意図的であり、しかもそれは道化としての任務を全うした後に、気づかれないようにこっそりと行われます。
ディッキーが自分に徐々に冷たくなっていき、資金も残り乏しくなってきたトムは、ディッキーを殺して彼に成り替わり、外国に移り住みながらグリーンリーフ家からの送金を受け取って暮らしていくという未来を思い描きます。
二人で旅行に出かけた際、ディッキーがトムの発案通りボートに乗り、沖にまで出てしまったことで、その計画は実行されます。トムはオールでディッキーを幾度も殴りつけて殺し、衣服や指輪・時計をすべて剥ぎ取って自分の身につけたのち、重しをつけて死体を海の底に沈めます。
元々は友情以上の感情を抱いていた相手に対してあまりに非道な行為ではある印象を受けますが、この場合、「冷血さ」とか、「ホモの嫉妬」とか、そういう言葉では収められないものがあります。追い詰められ、他に方法がなく、正しく生きてゆきたいけれど他に方法もなく、誰とも心を通い合わせられない青年の孤独さ。結局のところ多くの人間は彼にとっては彼の孤独を癒しえず、本心に迫る付き合いをしてくれていないのだから、先日まで友人であったところで、全くの他人であったところで、彼にとってはほとんど同じことです。ハイスミスの手腕は、こうしたトムの心理を臨場感豊かに描写し、読者にその心情をすっと理解させるところにあります。

トムはディッキーの家に戻り、ディッキーの帰りを待つマージをなんとかかわしながら、荷造りをし、いくつかの偽装工作を済ませてひとりでパリへ旅行に出かけます。彼はしばらくの間ディッキーの服を着、ディッキーの仕草をし、ディッキーの表情を浮かべ、ディッキーの筆跡でサインをし、ディッキーの父親からの送金で贅沢なホテルに泊まります。そのときトムは非常に満ち足りて、幸福です。彼は自分が何よりも夢見ていた、裕福で、育ちが良く、教養豊かで、繊細な青年になりきります。しまいには「トムに戻るのは嫌だ」と考え、ディッキーとして生きていきたいと思うようになります。
すごく…異常者です、みたいな感じはするのですが、トムにとってそれは、自分が正の方向に生きるための、命を賭した一縷の望みです。知らず知らずのうちに読者もそれに肩入れするようになります。都合の悪い起きたり、うっかりトムが自分とディッキーの名前を言い間違えたりするたび、私たちは「気づかないでくれ、気にとめないでくれ」と、他の登場人物たちの無知を、鈍感を心から願ってしまいます。トムがディッキーを殺害する理由は、確かに同性愛者だと思われたことで、彼が冷たくなってしまったことが原因ではありますが、それと、トムがディッキーとして生きる理由はまったく別物だと考えられます。ディッキーのような立場の青年として生き、本当に自分が望んでいた生活を手に入れたいという願いが、彼をディッキー殺人の完璧な隠蔽工作へと駆り立てます。トムにとってディッキーとは変奏としての自分であり、ある種パラレルワールドの自分の姿だったのでしょう。

シチリアの次はギリシャだ。ギリシャはどうしても見たかった。ディッキーの金を懐にいれ、ディッキーの服を着て、ディッキーのように見知らぬ人間にふるまい、ディッキー・グリーンリーフとしてギリシャを見物したかった。…殺人を犯したくはなかった。やむをえなかったのだ。アメリカ人観光客トム・リプリーとしてギリシャへ行き、アクロポリスを歩きまわるのには、何の魅力もなかった。むしろ行きたくなかった。大聖堂の鐘楼を歩いていると、目に涙が込み上げてきた。彼はその場を離れ、別の通りを歩いた。(248)

…トーマス・リプリーには戻りたくなかったし、取り柄のない人間でいるのも嫌だった。また昔の習慣に逆戻りしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰もでもちょっとずつ愛想を振りまく以外、自分は何もできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。 (262)

…これから、自分は内気でおとなしい取るに足らぬ男トム・リプリーとして、あの古代の英雄たちの島々、ギリシャへ出かけるのだ。二千余ドルの銀行預金は徐々に減っていた。そのため、ギリシャ美術の本を買うときにも、実際二度ためらった。それは我慢ならぬことだった。(281)

実際トムは、画家を目指しているディッキーの絵を見て、「せめて彼にもう少し才能があればよかったのに」と判じる程度に芸術への造詣があります。マギーのあまりに無神経で無教養な様子、女性らしい無遠慮さや厚かましさには生理的嫌悪を示します。育ちのいい善良な人々に気に入られ、彼らを騙し抜くには、彼らと同じレベルのものを感じ、言動をし、それ以上に操らなくてはならない。これは単なる小悪党には不可能なことです。ヨーロッパを周遊し、不労所得を得ながら、様々な芸術に触れ、絵を描き本を読む。これがトムの夢であり、それが成就するのか、それともそのたぐいまれな〝talent”が、単なる殺人犯として刑務所の中に潰えるのかは、物語に大きな緊迫感を与えます。トムの一挙手一投足を、他の登場人物の一挙手一投足を、読者はそれぞれ息を呑みながら見守る他ありません。
 
個人的に、ラストシーンは大変な白眉です。全てが「終わった」ことを察したトムが見上げるギリシャの美しい白日。太陽の眩しい光が周囲に満ち、砂浜は白く輝き、大気は乾いている。それが手に取るように伝わってくる描写。「太陽がいっぱい」という邦訳は間違いなくセンスに満ちており、そのタイトルがラストシーンの情景と結びつき、物語の結実とともに、その出入り口がしっくりと結ばれます。

余談ですが、頭の良い神経質な青年が殺人を犯し、その隠蔽工作に物語中を駆け回るーーといえば、何が思い浮かぶでしょうか。私は性癖的(?)に、そういう主人公がすごくぐっときてしまうんですけど、紛れもなくこれは「罪と罰」が挙げられるでしょう。ラスコーリニコフの神経質さ、確かに他人よりも頭も良く、感性豊かで、純真であるがゆえに、やむにやまれず人を殺す。ハイスミスは「罪と罰」を愛読していたと書いており、どこか彼の残り香が感じられるトムに対して納得がいきました。ちなみに私は昔懐かしいデスノート夜神月も大好きです…。彼もまた、ラスコーリニコフを下敷きにして描かれた人物であるといえると思います。

 

<関連リンク>

sanmarie.me

yuu73.xsrv.jp

 

太陽がいっぱい」には続刊があり、4巻目である「リプリーをまねた少年」(The Boy Who Followed Ripley)には、文字どおりリプリーをまねる少年が出てくるということで、すごい読んでみたいなって感じです。ちらっと店頭で見たんですけど、帯がなんかやばかったような…。と思ってググりました。

 

《トム・リプリー・シリーズ》第四作。犯罪者にして自由人であるトムを慕うフランク少年とトムの危険な関係は、「父親殺し」を軸に急展開をする。犯罪が結んだ、男と少年の危険な関係を描く!
リプリーをまねた少年 :パトリシア・ハイスミス,柿沼 瑛子|河出書房新社

 

やばくないですか…?「父親殺し」ってかなり好きなテーマなので、ちょっとこれは個人的に要チェック案件です。はあ、またひとつどツボな本を見つけてしまった。嬉しいようなしんどいような変な気持ち…。

さて、今日はこのへんで失礼したいと思います。
また明日お会いしましょう!

 

 

(抄)「ハイティーン」の断片〜寺山修司「少年少女詩集」

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今日は寺山修司著「書を捨てよ、町へ出よう」の中の、「ハイティーン詩集」の詩二つについて書こうかなと思います。以前読んで、すごくいいなと思ってノートに書いてたんですが、今日ふと思い出したので。
私はハイティーンどころかもう24歳になってしまいましたけど、ここに書かれている薄ぼんやりとした欲望たちのことはよくわかる気がします。

 

純喫茶『基地」でレモンティ飲みたい
郷愁を描いて見たい

〝失われた喪失”の意味が知りたい
着飾った新宿女のマスク汚したい
埃より小さな星を食べたい
返事をもらいたい
切られたい
シッカロヲルをなめたい
東京へ行きたい
もうそろそろ生まれたい
紀伊国屋のカレンダアを飾りたい
水平線で凍死したい
刃渡り20センチの果物ナイフを信じたい
ちょっぴり泣きたい
足裏を掻きたい
小指を見ていたい
初夢には止まった時計を見たい
もうやめたい
ボサノバをかじりながらレモンを聞きたい
これは盗作だと非難されたい
シュウクリイムで絵を描きたい
〝まだ白紙です”とキザりたい
ドヲナッツ型アドバルウンに色を塗りたい
日記には日記らしいことを残したい
ベクトルは忘れたい
顔を洗いたい
恋する男に歴史は暦より狭いことを耳打ちしたい
隠したい
活字を裏返したい
感電死したい
新聞読みたい
石田学者に会いたい
徴兵カアドを焼き捨てたい
エレベエタアで天まで行きたい
そのときはユキを連れていきたい
意味のない暗号など書いてみたい
どうも足の先が冷たい
ーー透明扉を閉めたい.

 

漠然として、形にならぬ、とりとめのない願望たち。
純喫茶『基地』なんていう決まった名前の喫茶店でレモンティを舐めてみたり、原稿の進捗は?と編集者から問われて、多忙な天才作家らしく、「まだ白紙です」と言ってみたり、紀伊国屋のカレンダアを飾って、ちょっと都会の文学青年ふうに気取ってみたりという、即物的というか、若者らしい欲望。
シュウクリイムで絵を描いたり、埃より小さな星を食べたり、エレベエタアで天まで行きたいという、空想というか妄想めいた、白昼夢のような願望。
「もうそろそろ生まれたい」と書いたかと思うと、「水平線で凍死したい」「刃渡り20センチの果物ナイフを信じたい」「感電死したい」というぼんやりとした希死念慮が覗く。
なればこれは切実な詩なのかと思えば、「日記には日記らしいことを書きたい」「足裏を掻きたい」「新聞読みたい」「もうやめたい」「顔を洗いたい」「シッカロヲルを舐めたい」というごく日常的に抱く思いが横切ります。
「気取った新宿女のマスク汚したい」「これは盗作だと非難されたい」からはささやかな反社会的行為への欲望が、「郷愁を描いてみたい」「〝失われた喪失”の意味が知りたい」「恋する男に歴史は暦よりも狭いことを耳打ちしたい」「初夢には止まった時計を見ていたい」には、青年詩人として表現したい欲望が見え隠れする。
「ちょっぴり泣きたい」「小指を見ていたい」「そのときはユキを連れて行きたい」などには、感受性豊かな年頃らしく、繊細に揺れ動く感情が見える。
巨きなものから小さなもの、夢見がちなものから即物的なもの、とるにたらぬものから切実なもの。さまざまな分化されえぬ欲望たちがいっしょくたに渦巻いている。
あらゆる可能性と、無限にあるように見える時間のなかで、多種多様の欲望たちに幻惑されながら、ぼんやりと立ちすくんでいる。それがハイティーンという年齢なのかもしれません。


もう一編紹介します。

 

15がもうすぐいってしまって、年取って終日ねたまんまで
しびんかかえたまんまで、ちゃぽちゃぽお汁をのんだりする
たぬきのようなばあさんになるのは、わかるけれど、
こわれそうな、こぼれそうな、そのくせ強くていやらしい頭かかえて
はしる、はしる、はしる、今の15のわたしだもの。

 

実は本が見つからなくて、ノートの抜き書きの箇所を載せているので、何かもっと長い詩の一部だったらすみません。
ちょっと太宰治の「女生徒」に似てる感じがします。
少女のわがままさ、傲慢さを、それでもなおオブラートに包んで、その万能感を豊かに描けるのは、なんとなく男性作家特有なような気がします。
女性本人なら、こんなふうに書けないような気がする。醜さを抜き出して、それでもなお、逞しく蠱惑的というか。少女は少女自身をそういう風には見れないような気がしますね。私のことでもあるんですけど。やっぱりその醜さだけを見てしまうような気がするから。

のびやかな肢体とか、ぴんと張った膚とか、まっしろな乳房とか。そういうものはいつか消えることは分かっている。言い寄ってくる男の子たちだって、自分があと何十年かして年をとれば、「ババア」としか言われず、顧みられなくなることも分かっている。わたしたちの価値はひどく儚くて、失われるもので、でも今は「15のわたし」だから、「はしる、はしる、はしる」しかない。「こわれそうで、こぼれそうな、そのくせ強くていやらしい」だけの頭であることを自覚しながらも、生々しいまでの「今のわたし」を生きていくしかない。老いたあとのことなんか、遠くて近くて距離なんか測れない。

 

書いててGLIM SPANKYの「美しい棘」を思い出しました。

 


GLIM SPANKY - 「美しい棘」Music Video(Short ver.)

 

若さがいつか消えることわかってる
言われなくとも私たち馬鹿じゃない
 だけど血を流しても噛み締められないのはああ 憎いもんだわ
本当知りたいだけなのに

(美しい棘 GLIM SPANKY 歌詞情報 - 歌ネットモバイル)

 
こういう曲は他にも探せば意外とありそうですよね。ただ、やっぱり言葉にうつしとるのは、だいぶ大変な作業というか、ことばのセンスを試されるテーマなのかもしれない。すごく尖って、微細にきらめいた感情ですよね。
 
短いですけど、今日の記事はこのへんで。「美しい棘」、最近かなり有名だと思うんですけど、未チェックの方は是非一度フルでご視聴ください。
また明日お会いしましょう。 

 

 

スタジオポノックとメアリ〜「メアリと魔女の花」感想

 

 

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82日に見てきました。前情報できるだけ入れず、予告も見ず、先入観なしに物語と向かい合える状態で行きました。

私はジブリだと、ハウル千と千尋耳をすませばもののけ姫ラピュタが好きです。ポニョと風立ちぬは微妙だったという感じの典型的な視聴者です。米林監督の作品では、アリエッティもマーニーも、何となく主人公の女の子に入り込めず、途中でやめてしまいました。

 

今回のメアリと魔女の花。ダメ映画だな、っていうのが感想です。綺麗な背景や壮麗な音楽、膨大な宣伝費、協賛の数々、一流(であろう)スタッフが費やした時間、すっごいもったいないなあ、と思ってしまうレベルでした。Twitterで検索すると、感動したとか楽しめた、って言ってる方もいるみたいなんですけど、一体どこにどう感動のフックがあったのかわからなかった。物語として全く魅力的なものではない。

 

大きな要因に根本的な「オリジナリティのなさ」があると思います。何から何まで宮崎駿の丸パクで、しかも本人が表現したいものとか、作りたい動きとか、視聴者に湧き上がらせたい感情とかが全く見られない。何かオリジナリティを表現しようと葛藤した形跡すら見られない。全体的に継ぎ接ぎでしかないよな、というのが真っ先な印象としてあります。「ジブリの手法」に縛られて、「ジブリ的」な映画を作っているうちは、宮崎駿を超える才能がないんだから、ジブリの冠に甘えた、どうでもいいような寄せ集めの作品を作り続けるだけだよな、と思ってしまいます。

監督のことはよく知りませんが、彼はジブリとは違う自分だけの表現を臥薪嘗胆苦心惨憺の覚悟で産み出すか、趣味で宮崎駿フォロワーとして動画作るかしたほうがいいと思います。現状ジブリの名を汚して、予算やスタッフを無駄遣いしているだけです。しかもそれを本人が自覚して、ニヤニヤしながらやってそうなのがタチが悪いですね。クレジットの「感謝」っていうのに宮崎駿鈴木敏夫高畑勲が並んでいましたけど名前出されたくないレベルなんじゃないかな。しかもなんなんだろう、「感謝」って。言葉のチョイスも、出してくるタイミングも、よくわからない。ちょっと内輪感の甘えというか、癒着というか、だらしなさっていうか、そういうものが見えた気がして、嫌だなあと思いました。そういうのは舞台裏でやればいいんじゃないかな。

大きな原因が「オリジナリティのなさ」と述べましたが、それがどんな影響を映画にもたらしているのか。思いつくかぎり書き出して見ます。

 

言動の説得力のなさ

 

まずメアリ。メアリって結局、何なんですか。ちょっとおっちょこちょいで、おだてにのりやすくて、無鉄砲で、明るくて、自分の赤毛にコンプレックスがあって、元気な女の子なの? そんなテンプレで本当にいいの?それは一体魅力的なの? 自分の赤毛をからかった男の子に対して怒って冷たくするって、赤毛のアンなの?

宮崎作品のヒロインたちは、性格が違っても、魅力的で、自分なりに葛藤し、決断し、成長する過程が描かれていました。彼女たちはただのアニメキャラというよりは、有機的な女性であり、ちょっとわがままだったり複雑だったり面倒くさかったりするけど、そういうところもまた一個の少女として、実在する人間と同じような人格を備えていました。それが宮崎駿のアニメを、単なる絵コンテが音楽に合わせてペラペラ動いて、タイミングに合わせて音楽がなる、というものとかけ離れたものにさせていたと思います。また、サブキャラの登場人物の奥行きも視聴者に大きな印象を残すものでした。魔女の宅急便のあの嫌味な女の子、おハナさん、カラスの絵を描くお姉さん。みんなに過去があり、性格があり、個性があり、夢があり、人格があって、きっと未来すらあった。「メアリと魔女の花」の登場人物は、確かに上辺だけはジブリ的映画をなぞっているように見えるけれど、全く言動に説得力がなかったです。

「この庭師は偏屈だけど実は孫思いで優しいキャラ」、「このキャラは天才でマッドサイエンティストでなんかの実験で失敗した過去がある、実は密かに想い続けている人がいる」、そういう裏設定がすっごく透けて見える。これは視聴者の方も「ジブリ的な人物表現」に馴れ、目が肥えてしまったためかもしれない。だけど、だからこそ、今までのジブリに出てきたキャラクターを繰り返すだけではダメなんだと思います。

とりあえず一つ、これがやりたいんだろうな、っていうのは見えます。でもびっくりするほどそれが細い。力がない。血肉がないむき出しの貧相な骨です。つまり、メアリが「私だって変わらなきゃいけないと思ってるんだから!」みたいなこと言って、ピーターが、「俺を大人に変えるならよかったのに。変わりたいと思ってるのはお前だけじゃないんだぜ!」みたいなことを言う。出会いはただの嫌なヤツだったけどそういうふうに心をつうじ合わせたピーターを助けなくちゃ! 一緒に帰るって約束したから! って言って、ピーターを助けに向かう。中盤の自分のコートを脱いで、箒も折れて、ぼろぼろになって、それでも愛する男の子のために向かって行く、っていうのは、多分、裸に近づいて、傷つけば傷つくほど、神々しく強くなってゆく少女、みたいな宮崎駿がやったものをやりたかったんだと思うんですけど、びっくりするほど寒々しいです。あんな雑な「心の通わせあい描写」しか出来ないなら、むしろ「私のせいで、庭師さんがあんなに大切に想っていたピーターが…!」って自分を責めて、それゆえに成長していく、ってした方がよかったと思います。ピーターへの友情とか愛情が付け焼き刃にしか見えなさすぎ。なぜそっちにしなかったのか。

 

 

声の問題もあると思います。これは個人の感想になってしまうのですが、今回声合ってるなって人ほとんどいなかったです。メアリは高すぎるし(あれでまたウザさが増してた気がする)、ピーターはあーはいまたカミキリュウノスケくんね、って感じ、庭師さんも博士も違和感がありました。何ていうか、宮崎駿が声優じゃなくてあえて芸能人を使うのって、アニメのための声じゃなくて、人間としての声が欲しくて、キャラクターに確固たる人格としての厚みを持たせたかったからだと思うんですよね。だけど、今回の起用は、ただ有名だから、話題になりそうだから、究極的にいえばジブリだから、ってだけで、適当に合いそうなキャラもってきて、合いそうな人みつくろって、っていうなげやりさというか、責任感のなさしか見えなかったです。そもそも年齢(声あてた人の年齢じゃなくて、声自体の年齢と、キャラクターのガワから察せる年齢)合ってなくない…?

満島ひかりはね、まあいいのかな、と思うんだけど、若いときだけあの決然とした声に変えるっていうあざとさの方が鼻につきました。声先行って感じですね。無駄遣いだと思います。物語の方で大叔母様の人格を表現してほしかったですね。

 

動き

 

箒に乗ってるシーンとか顕著だと思います。キキが飛ぶシーン、トトロが飛ぶシーン、ポルコが飛行艇で飛ぶシーン、千尋とハクが涙を流しながら落ちてゆくシーン。どれも見ていて息が止まるほどの躍動感、浮遊感、上昇感に満ちていました。でも、今回の箒ひどかったですね。あれはちょっとないなあ。髪と服だけ動いて、綺麗な背景があって、はい、飛んでるよ!ジブリっぽいでしょ!こういうのジブリだよね!わかってるでしょ!っていう自己主張だけがある感じ。「さあ、今は背景見せますよ~~!見とれてね!SNSで背景綺麗って拡散してね!」って感じ。こういうのはすごい萎えるなあと思います。全く飛んでる感がなくて…音楽だけが雄壮で、華々しくて、美術だけが取り繕ったようにキレイで、あーーー嫌だなって感じました。テンプレートをむき出しにされると萎えます。

キャラの動きもいちいち「これジブリっぽいでしょ!」って感じがすごいですね。それに宮崎駿ならもっとプライドもって作って魅せてくれるんだろうな、って思っちゃう。「ジプリっぽいキャラの動き」が先行していて、「そのキャラっぽさ」が全く伝わってこないんです。

 

セリフ

 

なんか、そもそも、そもそもなんですけど、メアリ「はっ!?」とか「はっ!」とか多すぎませんか? なんか、学校の先生とかでいちいち文頭にえーとかうーとか入れる人いましたけど、それをずっと聞いてるみたいな、先が読める感じのうっすらしたうんざり感がありました。これまでのジブリで、少なくともそれは思ったことがなかったです。考えてみると、リアクションのパターンというか、バリエーションが今回の脚本家にはほとんどないんだろうな。事態が起きる→理解が追いつかない・戸惑う→(時々疑問を呈して見たり聞き直してみたりする)→とりあえずついてく、みたいなのが圧倒的に多い。何ていうか、そこで、あえて自己流の解釈で納得してみる(→間違ってて慌てる)、周囲の様子を見て察してみる(→物語がスリムになる)、自分で考えて行動を起こす(自主的に状況をコントロールしようとする)とか、何だろう、そういう変化をつけてみたりすればもっとメアリの色んな面が見れて、彼女は少女として分厚い人間性を持てたんじゃないか。物語の展開を自分の中で噛み砕くことをキャラクターがしようとしないですね、ほとんど。すべてが目の前で起こった偶発的な事故として見なされ、それをその場でどうにかすることしかしない。まあキャラクターを傀儡とか記号とか、ベルトコンベアーにのせられて流れ行くパーツみたいに捉えればそれは当然のことなんだろうけど、だったらキャラクターがキャラクターとして表現される意味は何?って思いますよね。

最後の「魔法なんて、いらない!」も、そこに至るまでの道筋が弱すぎる・もしくは伝わらなさすぎます。

さらっと一回見ただけだと、メアリにとって魔法ってそもそも「いらない」って宣言するまでもないようなことなんですよ。たまたまちょろっとできるようになっちゃって、承認欲求満たされてちやほやされて嬉しくて、嘘がバレてピーターがさらわれちゃって、途中で魔法使えなくなっちゃって…。そもそも魔法なんて「いらない」っていうか、そもそも「メアリのものじゃない」んだから、いらないって何?って思う。違和感ありますね。

あと、「私、今夜だけは魔女なんだ!」っていうのも、それ言いたいだけだろって感じがすごいです。そもそも「今夜だけ」って設定が見ててわからなかった。あれは使った時間で決まるのか、使った魔力の総量で決まるのか、それともまた別の要因なのか明示されていません。私はあれ言われるまで、何となく総量なのかな…あんな強げな術使ったから切れちゃったのかな…って思ってた。メアリが何で時間制なのかをわかったのかは不明です。それがわかる前に、キメ台詞として「今夜だけ」とか言われちゃうと、おお!ってなる前に、あ、時間って設定なんだ…ってなりますね。

それとテンポが決定的に遅いですね…。大叔母様の昔住んでた家で、鏡から「メアリ…」て呼ばれてびっくりして「はいっ!!」て返して、振り返って、「なーんだ鏡かあ」って言って安心して、また「メアリ!」って呼ばれて「ええっ!鏡が喋ってる!?」みたいに言うシーンがあったんですけど(セリフうろ覚え)、あそこも、ええ?今確実に声したでしょ何でなかったことにしたの、とか。初めて入った魔法使いっぽい人の家で、あんな反応って、あんまりだと思うんですよね。せめて鏡調べるとかしてもよさそうなものでは…。こう、「どこかで習い覚えた行動」「セオリー」をやってるだけで、場面に即した言動ではないような気がしてしまう。

 

あと、そこでその言葉が出る!?みたいな違和感がいろいろありました。攫われたピーターに遭遇して、飛びついて泣きわめくシーンがあるんですけど、そのときの開口一番が「ごめんねええええ」ってどうなんだろう、とか。普通心配してたら「生きてたああああ!」とか「無事でよかったああああ」とかそういう言葉になるんじゃないかと思うんだけど…。メアリはなんかそもそも別にピーターが本気で殺されたり傷つけられたりする可能性をあまり考えていないように見える…。ピーターが魔力注入で変身しそうになった時も傍観してたし…。それで、ピーター、魔法の力で攫われてしまったってかなり一大事だと思うんですけど・一悶着ありそうなものですけど、メアリが泣いたことであっさりと許してしまうんですね。女の子の涙は無敵! っていうテンプレだとは思うんですけど、いやいや、それはちょっとあまりにも…となりましたね。行動に重さ、正当性とか説得性がないんですよね。何だか。

 

 

脚本

 

設定の疑問点とか矛盾もありましたね。これは脚本の問題なんだと思うけど。

校長先生に「あなたには魔女の血なんて一滴も入ってない」とか言われてたけど、メアリの大叔母様魔女だし…。それと大叔母様赤毛で、その大叔母様に実盗まれたのに何でまだ校長は赤毛の子をちやほやしてるんだろう…。警戒してもよさそうなものでは…とか。犯人わかってないのかな、と思ったけどでも一人だけ消えてたら別にわかるよなとか。

あと、脚本という点でいえば、普通魔術書なんか手にしたら、いろんな呪文や魔法をいろんな場面で、創意工夫しながらピンチを切り抜けていく、ってやつを想像しませんか。私はしました。ハウルが使ったいろんな呪文や魔法、それによって巻き起こる様々な場面を連想して、わくわくしました。でも、その「メアリ」の魔術書の中で使われるのは、「すべての魔法を消す魔法」たった一つ。それを時間をおいて盛り上がるシーンで繰り返すだけ。これじゃあ何だか肩透かしです。「魔法なんかいらない」っていうテーマ設定ゆえに「すべての魔法を消す魔法」を使うのか。だったらそもそも魔法なんか使わせないで、魔法対人間の力っていう構図にして、「魔女、ふたたび。」なんていうコピーを使わなくてもよかった気がしますが。何だかうまく噛み合ってないんですよね、やりたかった(だろう)こととやってることが。

もともと魔女だった大叔母様が「魔法なんていらない!」って言って終わるならまだわかるんだけど、メアリは2日間たまたま見つけた実の力で魔法つかえるようになっただけなのに、何でそれが言えるんだろう。魔法学校である程度魔法のことを学んで、魔法使いを目指して切磋琢磨する仲間たちの生き方にふれて、とかならまだわかります。でも、そんなのもないので、印象としては「なぜそれがメアリに言えるの?」ってなるような、うっすいセリフになってます。それなら大叔母様が若いときの話にするか、実の力で若返って校長を改心させる話にするかとかすればよかったのに。大叔母様がやりたかったこと=メアリがやったことなら、わざわざメアリを介する意味って一体なんだったんだろう。メアリにしかできなかったことを、彼女はやっただろうか。私はやってないと思います。メアリにしかない資質というものが見えなかった。それゆえに、メアリをヒロインにした意味もわからなかった。彼女を二時間近くスクリーンで見続ける意味もわからなかった。

 

設定

そもそもあの実は何で夜間飛行って名前なのか謎じゃないですか。語感が素敵だったからとか。もしくは夜間飛行っていう植物の何か元ネタがあるのか。あったとして、何でそれを説明しないのか。物語を動かす一番大事なキーアイテムなのに。

それと、最初は乗りこなせなかった箒を、最後で乗れてたのは何でなのか。あれは終盤の見栄えとか、ご都合主義以外に何かあるのか。暗喩とか隠喩とかなのかもしれないけど、それで物語に破綻が来ているようではだめなんじゃないか?

あと、これは原作の問題?かもしれないんだけど、「赤毛の魔女は才能がある」とか「純粋な子供は魔法の力を受けやすい」とか、その設定どこから来たんだろう…っていうのがちらほらありました。何ていうか、全てが「そういうことになっている」で進んでいくというか。純粋な子供なら、別にメアリでもピーターでも変わらなかったんじゃない? 何でピーターにしたんだろう、って思うと、結局のところ美少年が魔法の力で異形の美青年になるシーンがやりたかったのかな、ってなりますね。あのへんあんなぐちゃぐちゃなのに、なぜかピーターが成長して美青年になった姿だけはきっちり映している。そういう感じもちょっとあざといな、と思ってしまいました。

あと、舞台をイギリスにした意味ほとんどなくないですか? 魔法だから・ハウルでイギリスだったから・背景が素敵だからイギリス、ってだけで。英語も出てこなかったし…EDくらいでしたよね。ハウルだともっと、登場人物たちがソフィーがイギリスっていうその時代とその国に息づいている感じがありました。

あとEDもちょっと言いたいことがあって。あれ、どうしても本編の終わりをあの空で「END」って出したかったから、尺が詰まっちゃったからEDに後日談っぽいの流しちゃえ!って感じのノリでしたよね。耳すまとか、EDは余韻を楽しむためにひねったのを入れて来てる印象がジブリにはあったので、個人的には違和感がありました。映画本編は映画本編できちっとやりきってほしかったですね。EDに侵食してくるのは、何だかだらしがない感じがしました。

 

総括:メアリとスタジオポノックが被って見える

 

見ていて、途中、ぽっと拾った実で周りからちやほやされて得意になってるメアリと、ポノックがかぶりました。といってもポノックのことなんて何一つ知らないんですけど。「ジブリ」という冠とすでに確立され安パイになっている表現で、「素晴らしい才能」があると言われている感じ。本編でメアリは何も為していなく、大叔母様の必死に盗み出した「実」を拾っただけなのに、それで称揚されて有頂天になっている。

宮崎駿のフォロワーで、そして宮崎駿並みの才能がないのであれば、宮崎駿の創り出した表現をなぞり、かき集めるだけに終始してしまいます。そのことを果たしてこの人たちが気づいていないのか疑問です。多分気づいてはいるよね。だってさらっと見ただけでこんなにそれが伝わってくるんだもん。当事者が気づいていないわけがないと思う。この人たちは、「ジブリ」っていうブランドは好きだけど、本質的なアニメーションとか、物語とか、表現とか、そういうのにはあまり熱意がないのかな、って考えてしまいます。ジブリの焼き直しをすること、それで食べていくことが大事なのかなあと。でもそれならそれで、子供達に奇跡のようなアニメーションの可能性を魅せ続けたジブリって看板はあまりに重すぎますね。だから降りたのかな。「ポノック」ではジブリフォロワーとして、劣化版宮崎アニメを作っていきますよって、こういうことなんでしょうか。独立して違う路線の物語を作っていきたいなら、「感謝」にまるで錦の御旗みたいに、言い訳みたいに、一応の建前みたいに、三人の名前を出すこともなかった気がします。

すごく言葉が厳しい批評になってしまった気もしますが、これが今回私が抱いた率直な感想でした。なんか、やっぱり「ジブリ」ってことに対する期待感ってすごいんだな、と書いてて思いました。無意識にこんなに期待してると自分でも気づかなかったし、「ジブリ」というハードルを穴を掘ってくぐっていこうとするスタジオポノックもすごいと思います。彼らがこのままだらだらと同じような映画を作り続けないことを望みます。

 

 

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映画とイデオロギー〜『瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ』

  

 

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映画論めいたものを読みたいなと思ってたのと、表紙がクレーの絵で惹かれました。クレーが好きなので。

ちょっと自分でもどう書けばいいのかよくわからないですが、試行錯誤しながらやりたいと思います。

 

  

【章立て】

序章 喜劇の女王―“無声映画”の未完のプロジェクト

第1章 飛び散った瓦礫のなかを―「複製技術時代の芸術作品」と映画

第2章 パノプティコンの原光景―ミシェル·フーコーと視覚的無意識

第3章 重力の天使たち―ロイドとチャップリンにおける身体·視線·都市

第4章 逃げ去る都市―遊歩の凋落と初期映画

第5章 資本主義の道化―キング·ヴィダーの『群衆』(1928)

第6章 路上の“馬鹿息子”―バスター·キートンと「アマチュア映画」

終章 花摘む人に倣って

 

 

大まかな内容をまず。

巨視的な視野で「映画を見る」ことを論じているのが第一章の《飛び散った瓦礫の中で》、第二章では「視る」という概念の延長として視線について論じる《パノプティコンの原風景》です。残りの章では「映画と都市」というテーマにそって、チャップリンや古典無声映画に具体的な分析をしています。私は無声や白黒映画を見たことがないので、第3章以降のテーマには本質的な興味を持てなかったところがありました。第1章のみ、理解できた範囲で書かれていることをメモというか、噛み砕いて置いておきたいと思います。興味をそそられる方が一人でもいたら幸いです。

 

「見る」こと〜ゴダール「映画と歴史について」

ゴダール無声映画へのこだわりと、トーキーへの批判が引用されます。映画を「見る」ことの本質的な意味について考えられています。

 

 

映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。映画の誕生以来、映画の見せる力は精力的に追及されて来たが、トーキーへの意向によって決定的に見失われてしまった。そして、トーキーからテレビ以後のマスメディアは見せることをせずに話すだけのものになってしまった…。このような認識を執拗に語って来た映画作家がいる。無声映画の終焉からほぼ一世代も経過した後で映画を撮り始めたジャン=リュック·ゴダールである。(16)

 

ゴダールの考えを敷衍すれば、トーキー以後の映画は見せるよりも話す。映像の量的増大や技術革新はそれだけでは見せることへの促進には繋がらない。それらが言語野通念に隷属している限り、むしろ「観客の自由」は奪われる。人々はますます見ることなく。ただ聞くだけの存在になるからである。…聞くことから発して話すとは、要するに、聞いたことをおうむ返しに言うことに他ならない。つまり、みずから見ることがなくなるという事態は、みずからの考えを話すことがなくなるという事態に他ならない。(18)

 

ここで「見る」という行為は、なんだろう、既存の言語や通念に依らない、自分の感覚や認識のみで、ひとつの大きな何かーー問いかけであったり、テーマであったり、事象であったりを受け止める、という意味に翻訳されます。私は読む人間なので、この考え方は興味深かったです。通念やイデオロギーに裏打ちされた映像といえば、戦時中に国体が作ったようなやつですね。そういう映画の裏の意図を「話す」ことは伝えたと。

また、トーキーはあまりにも自由度が高く危険であるため、政府は急いで有声を導入した、というのもゴダールの考えらしいです。

声がついたほうが解釈はより広がると思われがちですが、実際は逆であると彼は考えます。声というのは解釈であり、一つの正解です。声がつくことで、物語や観客の思想を支配し、意図した方向に誘導することができる。無声はあらゆる動きや展開が観客の理解に委ねられ、映像への意味づけの資格が万人に与えられる。それは非常にまずいことである、と体制側は思ったという。著者もまあ、「陰謀論めいた」とは書いていますが、真理をついた考え方だと思います。ひとつの謎、現象として映像が提出されていた時代、それが無声映画だったということですね。大衆がそこまで理解して愉しんでいたかどうかはよくわからないですけど…。

(ただ著者は、この本をそのような無声映画と、都市生活を送る大衆との結びつきを分析するものとして書いたと述べています(15)。大衆の実感にまでは迫っていない印象ではありますが、サンドイッチマンやアメリカン·ドリームなど、具体的な当時の都市生活の片鱗を切り出しています。そのあたりに興味がある方は読んで見てもいいんじゃないかと思います。)

 

アウラについて〜ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

 

また、題名でもある「瓦礫」の言葉を用いたベンヤミンの、「アウラ」という概念も用いられます。

簡単に言えば、アウラとは芸術作品の「素晴らしさ」ということなのかな。著者は「オリジナルの芸術の「真正さ」」と書いています。くどく書けば、「空間と時間から織り成された不可思議な織物」、「どれほど近くにあれ、ある遠さが一回的に現れて要るもの」、「夏の午後、静かに思いながら、地平に連なる山内を、あるいは憩っている者の上に影を投げかけて要る木の枝を、目で追うことーーこれが山々のアウラを、この枝のアウラを呼吸することである」ということだ、と。これ理解させる気ないでしょwって感じですが、噛み砕けば、「対象の物質的な存続力によって引き出される、歴史的証言力、権威、伝統的な重み」、云々、であるらしい。

そしてこのアウラは増加する大衆が芸術作品を複製し、自分たちに近づけようとするために、没落していっていると彼は言う。

このへんはわかりますよね。コピー、複製、云々のやつです。

だから大衆はけしからんのだプンプン、とか、そのへんのおっさんなら言い出しそうですけど、流石にベンヤミンの目的は懐古にはありません。彼はむしろその喪失がアウラの価値を担保しているといい、その最たる芸術表現を、写真ないし映画であるとしています。彼がこのように、アウラの存在を強調した理由は二つ。

 

1.「アウラの捏造」という事態 …これはここでは「歴史や真実の捏造」といったファシズム的傾向への警鐘という意味があります。

2. 映画による「芸術の機能転換」

 

そして著者はベンヤミンの「有名な一節」について分析します。以下がその引用です。

 

私たちの知っている酒場や大都市の街路、オフィスや家具付きの部屋、駅や工場は、私たちを絶望的に閉じ込めていると思われた。そこに映画がやって来て、この牢獄の世界を十分の一秒のダイナマイトで爆破してしまった。その結果私たちは今や、その遠くまで飛び散ってしまった瓦礫のあいだで、悠々と冒険旅行を行うのである。(33)

 

私の理解できた範囲でまとめれば、話は写真と映画についてです。

まず、写真は、いかにもそのイメージをそっくり写し取って提出するように思われるが、実は「アウラ」、実際にうつされた被写体と、写真との間の距離を大きくさせている。それは時間においても、距離においても、価値においてもそうである。

 

写真そのものが物としての持続性(それ自体が痕跡であること)を失い、むしろ痕跡のイメージになった。したがって画像の指示対象との関係は究極的には決定不能な者として見る主体の経験に裂け目を導入するようになった。写真に固有の言表というものがあるとすれば、「それはーかつてーあった」という断言=肯定よりも、むしろ「これはーいつーあったか?」という絶えざる疑問なのである。(30)

 

「裂け目」という言い回しはとてもいいと思います。わかりやすい。「確実にそこにあるもの」に「複製」のイメージがかぶり、判断や解釈、鑑定、疑心が必要になってくる。ここはファシズムへの疑いとも重なりますね。

 

そして、映画は、写真をさらに動かし、あらゆる時間と場所を「切り刻み」、編集し、あらゆるイメージを刷新し上書きしていくものです。しかしこれはアウラの単なる複製ではない。写真のように、「これはいつ撮られ、つくられたものか?」という不安よりも、その切り貼りによって新たな価値を創造し、積極的に一つのものを作り上げようとする。このような意味で、「私たちが今や、その遠くまで飛び散ってしまった瓦礫のあいだで、悠々と冒険旅行を行うのである」という一文は読むことができます。

 

しかし、先にゴダールが述べたとおり、声に始まるこのような切りはり、エディットは、恣意的な情報操作にもたやすく用いることができる。筆者は蓮實重彥という方の、ベンヤミンのこの時期に、世界のあらゆる国で「映画のイデオロギー的再編」が進行したという仮説を援用し、ベンヤミンのこの考えへの補強を行います。映画にストーリーが入り込み、画面ではなく理屈や物語で大衆の心をとらえることになったこと。これを蓮實は「映画の第二の誕生」と捉えることを提案している。

本来ベンヤミンが、ゴダールが、そしておそらく蓮實もこの本の筆者も、目指すのはそのようなイデオロギーを真に受けるという意味での映画観賞ではない。

54-55ページには、そのような「見る」練習として、ジャン=リュック·ゴダール、ジャン=マリー·ストローブ、ダニエル·ユレイの映画が紹介されます。写真から映画に至る転換を思い出しながら、「継ぎ接ぎ細工のアレゴリー形成物」として彼らの映画を見ること、「寓意家(アレゴリカー)としての観客、むしろ反=観客こそが、ベンヤミンの称揚するものではないかと筆者は導きます。これは、この叙述がわかりやすいのではないかと思います。

 

プロレタリアートが解放闘争を開始する瞬間、一見ひとまとまりであった大衆は、実はもうほぐれている。大衆は、単なる反作用(リアクション)に支配される状態を脱する。彼らは行動(アクション)する。(53)

 

映画を見て笑った、泣いた、怒った、面白かった、つまらなかった、感動した、そういうのは反作用ですね。ベンヤミンが志向するのは、「「メディア」としての映画が物語の納得へと観客を誘うとき、一篇の作品と一つの物語との自然な調和」をなぞるのではなく、映像の物質性と断片性を露呈させ、全体の「自然な調和」を乱すような言葉でフィルムをさかなでする」(53)見方である。結構ひねくれた見方ではありますけれど、それが「作られたもの」であり、「どのような意図をもってして」「何から成り立って」作られたかに思い及ぶというのは、一国民としても、一芸術家としても、一批評家としても、持っていていなければならないポジションではあると思います。

 

そしてそれは、ベンヤミンの著作中で「新しい天使」という美しい名前を持つものとして現れる。非常に詩的な文章です。

 

彼は顔を過去のほうへ向けており、私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局だけを見るのだ。その破却はひっきりなしに瓦礫の上に瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり死者たちを目覚めさせ、破棄されたものを寄せ集めてつなぎ合わせたいのだろう。(55)

 

これがこの本のタイトル「瓦礫の天使たち」の由来ですね。筆者はこの本のカバーに、決然と扉から立ち去る人というクレーによる絵を採用しています。それは、イデオロギーや進歩という名の恣意的な流れから、自発的に「立ち去っていく」天使のイメージを本全体に印象づけます。

 

書評として

この第一章と、第二章のパノプティコンについての説明は、どちらも「見る」ことについて、切迫した言説を引いて語ってくれて、大変興味深く読めました。それぞれの章が単独の場で発表した論文をまとめたものということなので、完成度というか、目的にばらつきが出ているのは当然のことなのかなと思います。もちろん一つの大きな流れが貫いているとは思うけど。白黒映画·無声映画と当時の人々と都市生活、って感じかな。小学生の自由研究の題名みたいになっちゃったけど。

まとめていて思いましたが、映画とファシズムあるいはイデオロギーって、結構内包されやすいテーマだったりするのかな。大学で日本映画の歴史をやったときも、戦争における国家体制に援用されたって言ってたし…。これが文学作品だとまたちょっと勝手が違ったりしますよね。映画史の疵というか、揺れ動きというか、抵抗、余波、みたいなものがありますね。

白黒映画だと、「ニーチェの馬」をみたことがあるけど、案の定途中でやめてしまったのですが…。実際ゴダールの映画を見れば、そういう瓦礫の天使的な立ち位置で、映画を見たりすることができるようになるのか気になるところですね。

 

原始の映画は、そもそもは「フィルムが動く」というものを見せるため、純粋にその感動を見せるためのものであった、というのも、興味深いところです。第一章では、その「動き」は「暴走する狂った機械」に委ねられることが多いと書かれています。ホースの荒ぶりや、制御できない機械装置などが描かれることが多い。個人的にはウォルト·ディズニーのアニメーションを連想しました。制御できなかったり、思い通りにならない、ユニークな動きが多いなあと。そして、本論では、この「狂った機械」のイメージは、映画それ自体のもつ「時間や空間を切り刻み、全く異なるものにつなぎ合わせていく」という表現形式と重ねあわせられています。

映画の本質的な意味として、このような「切り刻み」「構成される」という要素があること。それを逆手にとりつつ、寓意的な視点から、ストーリーと分裂した映像から「読み取る」ことをしていくこと。これは映像作品だけが成しうる表現であり、伝達形式なのだと思います。

 

ちょっとググってみたら、第一章の全文がjstageで読めましたので、全文読みたい方はこちらからどうぞ。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/62/2/62_255/_article/-char/ja/

 

瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ

瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ

 

 

「苦役列車」感想

 

記事一発目です。にしのといいます。よろしくお願いします。

映画や本の感想考察を細々書き綴っていこうかと思います。できるだけわかりやすくがんばります。

よろしくおねがいします。

今回はこれです。

 

 

苦役列車

苦役列車

 

 

 


「苦役列車」予告編

 

 

 貧しい肉体労働青年の青春を描いて第144芥川賞を受賞した西村賢太の小説を、『マイ・バック・ページ』などの山下敦弘監督が映画化。1980年代後半を背景に、19歳の日雇い労働者で、酒におぼれる主人公を中心に、その友人、主人公があこがれる女性の青春模様を描く。主演を『モテキ』の森山未來が務め、ほかに『軽蔑』の高良健吾AKB48前田敦子が共演。独特の世界観を持つ原作に挑戦するさまざまなジャンルの作品を手掛ける山下監督と、旬の俳優たちによるコラボレーションから目が離せない。     (苦役列車 - 作品 - Yahoo!映画)より。

 

 

原作未読です。山本敦弘監督に関しましては、「もらとりあむタマ子」(絶賛するほどではなかった)と「味園ユニバース」(結構好き)、それと「山田孝之の北区赤羽」をちょろっと見た程度です。でも、今回の「苦役列車」は、特に監督オリジナルの部分の演出が凄く良かったと思います。ぶすっとした女子が出てこなかったせいかな。

ライムスター宇多丸では、前田あっちゃんが絶賛されていましたね。私はあっちゃんにはそこまでグッとこなかったけど、森山未來の演技がとにかく際立っていたと思います。ただ、手を舐められても、押し倒されても、怒りも殴りもしないあっちゃん 康子ちゃんにはなんていい子なんだ!と思いました。

《あらすじ》

父親が性犯罪で逮捕され一家離散、中卒で日雇い人足として小金を稼いでは、家賃も払わず風俗に通う青年・北町貫太(森山未來)。偶然現場が同じになった専門学生・日下部正二(高良健吾)と徐々に親しくなり、仕事上がりに一緒に飲みにいく間柄になっていく。貫太は古本屋で働く女子大生・桜井康子(前田敦子)に密かに想いを寄せており、正二に彼女との仲を取り持ってほしいと頼む。正二から「こいつと友達になってやって」と頼まれた康子はそれを了承し、貫太の前には薔薇色の未来がひらけたと思われたが

全体的に古ーーくて貧しーーい、荒んだ昭和のムードが漂っています。

 

.とにかく森山未來がすごい

 まずなんといっても森山未來の演技の生々しさ。ふとした目つき、仕草、喋り方、歩き方。全てがクズ男以外の何者でもなかった。まだ高良健吾とか前田敦子は、これは演じてるんだ、と思って見れてたんですけど(演技が下手というわけではないです)、森山未來は次元が違いました。次の瞬間にスクリーンからぬるっと出てきて、そのまま周りに難癖つけながら、映画館の出口まで座席を蹴りながら歩いて行ってもおかしくないレベル。とにかく全てを憎んでて、あやうくて、怖くて、気持ち悪くて、汚らわしい雰囲気がすごかったです。

なんせ、家賃を何ヶ月も払ってなくて、催促される度に「すみませぇん」とか、床に頭こすりつけながら土下座して、大家が見えなくなったら「そんなにうまくいくかよ、バーカ」とか言っちゃう。最終的に大家の息子から怒鳴りつけられ、強制立ち退きと相成るわけですけど、出て行く直前におもむろに下半身裸になって、畳の上にウコしていこうとするんです。「大家の野郎への腹いせだ」と。とんだクズだし、それをやって全く違和感がない森山未來がすごい。

個人的に、この死にそうな大家さんがキャラ立っててかなり結構好きです。あれは名演ですよ。

2. 脇役がよし

 マキタスポーツ演じる(私この人よく知らないんですけど俳優さん?お笑い芸人さん?歌手?)現場のおじさんもいい役柄です。

最初この人、若者忠告系の自分の状態によってコロコロ言うこと変わるちょいウザおっさんとして登場します。現場の川で貝とって食べようとして、「あんな汚ねえとこで取れた貝なんか食えるわけねえだろ、バカかおめえ!」って上官(?)に言われたりします。

貫太はそんな彼を「底辺日雇い労働者のくせしやがって」と(自分もそうなくせに)見下していますが、ある日、このおじさんが機械に巻き込まれて片足を失ってしまい、(なぜか)貫太が医療金を渡しに行きます。そのときにこのおっさんがね、呪いのような言葉を吐くんですよ。「お前いつか変われるとか思ってんじゃねえだろうな。無理だよ、俺たちはこのまま毎日飯食って小銭稼いでうんこして死んでくんだよ!」みたいなことを、言うんですよ。そこで貫太が初めて「本を書きたい」と、夢を言う。「はあ?お前みたいな中卒に本なんか書けるわけねえだろ!」とか最初はいうんですけど、実はこのおっさんにも夢があった。歌手として成功したい。さすが原作が小説なだけあってこのへんの構造はしっかりしています。わざとらしくもない。いかにも美談みたいな、夢への応援歌、みたいな感じではない。ゴミために捨てられたような夢が、未だ脳裏にこびりついて、消えないシミのようにとれない。そんな「夢への形」が「苦役列車」には描かれます。

このおじさん、足はずっと悪いまま、現場仕事もできなくなってしまいましたが、ラストシーンで、素人さんの歌大会みたいなものでテレビに出て歌います。それが、貫太が小説を書き始めるラストシーンへの引き金になっています。後述しますが、私はこのラスト、すごくすごく好きです。

 

他の脇役も、程よく「引っかかる」人たちばかりです。サブカルクソ女もそうだし、大家もそう。

貫太は風俗店で働いている元カノに会い、「やらせてくれよ」と頼み彼女についていきます。そこで出会うのがいかにもヤバそうな今彼らいしき男。彼は最初生意気な貫太を殴りまくりますが、落ち着くと、「お前、こいつとヤれ」と貫太に言います。貫太が断ると「じゃあ、3Pしようぜ」。元カノ泣きわめいてて全くそういう雰囲気じゃないのに。それも断られると、「じゃあ、動物ごっこだ。俺がゴリラ、お前(元カノ)がライオン、お前(貫太)がサルだ」とか言い出して、自分の胸板殴りながら「ウホウホウホウホ」とか言い出します。文章だと異様さが伝わりづらいですが、ここめっちゃ異様です。異常です。殴られたくない元カノが参加して、「ガオーーーーガオーーーー」、それで貫太も「ウキャキャッウキャキャッ」とかやりだします。出前の寿司を素手で掴んで他人の口にねじこみ、一心不乱で動物の真似を続ける人間三匹。めっちゃ怖いです。

 

. ラストがよし!!

 

そしてなんといってもこれです。ラスト十分あたりで「三年後」(だっけ)の字幕が唐突に挟まり、三年後の貫太の姿が描かれます。

三年前と同じように、孤独で、底辺で、風俗通いを続けている貫太。(でも長髪で結構イケメンになってて好きです)料理屋に入ってテレビを見ると、あの足を無くしたおじさんが出ていて、懸命に歌っている。それを見ていると、柄が悪い人にリモコンが奪われてチャンネルが変えられる。それを無言で奪い返してチャンネルを戻す貫太。それをまた奪い返す男。それが何回か繰り返されて、しまいに貫太はリモコンを力ずくで折ります。一気に喧嘩になり、路地裏で殴られ続ける貫太。

なんでこいつこんなことするんでしょうねええ本当。「すんません、ちょっと、この人終わったらすぐ、変えますんで。待ってもらえますか」とか言えば多分見れたのになんでわざわざ。見ていてあまりに世渡り下手なことに今更呆れてしまうんですが。ちょっとこの続きのシーンから、書き出して見ます。

 

夜明け頃、気絶から目を覚まして、素っ裸で道路を走る貫太。

挿入される、正二と康子と三人で行った美しい海のシーン。

「なんだお前ら、元気じゃねえか!」と嬉しそうに言い、波打ち際にいる二人に向かって砂浜を駆け出す貫太。

砂浜に穴が空いており、そこに落ちる貫太。

一転して色彩の薄い、早朝の静かな長屋の前。

大家らしき人が道を掃いている。

大量の水とともに轟音を立てて、屋根の上からごみ捨て場に落下する貫太。

無反応の大家。

立ち上がって大股で長屋に入って行く貫太。

大家、「あ、北町さーん、家賃の支払いお願いしますよー」

貫太、机の上にあるものを一気に音を立てて薙ぎ払い、座る。

ペンを掴み、何かを書き出す音。

一度何かを考えているようにやみ、しばらくしてふたたび再開されるペンの音。

差し込む朝日。

しなやかで美しい貫太の背中。

幕。

 

ーーーーというものなんですけど。

ここに説明が一切挟まれないんですよね。それで、朝の情景、海、貫太の背中と朝日が、素晴らしく美しい。私はここに、すごく感動しました。映像だけでこんなに感動したのは初めてかもしれないです。

貫太は本当に、擁護のしようがない、救いようもないクズです。少し本が好きだからって、他の部分が帳消しになるわけなんかない。父親が性犯罪者であり、中卒というコンプレックスを抱え、人に敵意や悪意を撒き散らす貫太の生は、ほぼ呪われたものといってもいい。彼に感情移入とか、共感は、私はほとんどできませんでした。

ものを書くことが、彼を輝かしい未来につなげて行くかどうかも、わからない。

でも、それでも、書く彼の背中は死ぬほど綺麗で、美しくて、私はほとんど戦きました。

 

原作派の方からは賛否両論あるようです。ただ、映画にするにあたっての臨界点は多分このあたりだったと思います。あまりに生理的嫌悪を掻き立てられるものになってしまっても、今度は貫太の演技が生々しいぶん、余計に不快比重が増していたかもしれない。中卒コンプレックス、性欲まみれ、クズ、暴力。このぐらいで、ちょっと私としてはギリギリでしたね。

この映画は個人的に時間配分もとってもいいと思います。

 

総評として、9.4/10です。見るべし見るべし!