最近借りた本と、聴いている音楽について
こんにちは。にしのです。前回の更新から間が空いてしまって…。のぞいてくれてる方にはすみません。ありがとうございます。近況報告として、最近読んだもの・見たものなどを。まず「太陽がいっぱい」の続編「贋作」を読み終わって、あと、昨日は友達と「静かなる情熱〜エミリー・ディキンソン」を見てきました。
パトリシア・ハイスミス 河出書房新社 2016-05-27
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どちらもできれば後で感想を書きたいなと思います。『贋作』は『太陽がいっぱい』に引き続き、あーーートムだ!トム・リプリーだ!って感じで、続きがとても気になります。知性と衝動が同居している感じが、やはり危うげで惹かれました。
『静かなる情熱』はかなり大胆な、新しいエミリー・ディキンソン像という感じがしました。生々しくて、現代的で、女性的な苦悩。賛否両論あるのは頷けますが、好きか嫌いかと聞かれたら「好き」です。本とか好きで、ちょっと自分の世界に引きこもって生きがちな女性にはかなり刺さると思います。ディキンソンには、貞淑で、浮世離れして、つかみどころのないイメージがあったんですけど、かなり印象が変わりました。
あと、先日は図書館に行ってきて、興味のある本を色々借りてきました。
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野田高梧 フィルムアート社 2016-07-22
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佐藤 亜紀 筑摩書房 2012-11-01
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津村 記久子 KADOKAWA 2017-01-25
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橋本 治 集英社 2008-02-20
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河合 隼雄 岩波書店 2009-11-13
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度会 好一 中央公論新社 1999-09
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「小説」「心理」「神話」って感じですね。心に残るものがあったら、この中からもレレビューを書きたいです。
橋本治は、以前「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」を読んで、凄く印象深かったので小説も読みたいなと思って借りました。初っ端からDQN親に生まれた放置子が亡くなる話で結構ダメージをくらいました…。鳥瞰的な書き方で生々しいです。日本の現代小説を最近ほとんど読めてないので、いろんな人の作品を一冊は読みたいですね。中村文則と、あと最近は全く伊坂幸太郎の本を読んで居ないので、文庫で出てたアイネクライネナハトムジークでも読んでみようかな。
あと、今回はちょっと音楽の話もしてみようかと思います。私はギャガギャガした音楽を聴くと疲れてしまうので、アコースティックとか、ピアノインストとか、静かめなものをよく聴きます。J-POPとかロックの情報ってかなり回ってくるけど、そういう静的な音楽ってあまり情報がないんですよね。Youtubeでひたすら掘ったりとか、くらいで。最近はSpotifyに課金して、だいぶそのへんが解消されてきました。Spotifyは本当にオススメなので、いつかそのことについても記事を書きたいですが。
Spotifyで見つけていいなーと思った、静かめなグループの音楽をいくつか貼って見ます。就寝前とかに聴くと捗るのかなと思います。あと、どうせなのでちょこちょこ(自分用もかねて)基本的な情報やレビューをまとめてみることにしました。
The band apart(naked)
the band apartは結構有名ですよね。nakedは基本はその曲のアコースティックカバーって感じなのかな(にわか知識なので違ってたらすみません)。この曲入ったアルバムはSpotifyでフルで聴けるんですが、どれもいいのでおすすめです。良い意味で刺激物がなくて、穏やかに、落ち着いて聞けます。私はジャズとかボサノバとかは跳ねすぎて、音色も鋭い感じがするのでちょっと苦手なんですけど、これは大丈夫でした。肉声もざわついてなくていい感じです。
レビューを書かれているブログがありました。「とても綺麗なクリーンサウンド」「いくら聴き続けても耳が疲れない」はその通りだと思います。
the band apart naked asian gothic label 2016-10-12
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(プライム会員(prime music)なら無料で全部聞けるぽいです)
beta radio
Beta Radioも落ち着いて聴ける弾き語りっぽさがあります。
公式サイト死ぬほど綺麗ですね。
Rooted in vocal harmonies, acoustic and electric guitar, piano, banjo and an eclectic range of additional instrumentation and soulful arrangements, Beta Radio’s Americana-folk sound is the result of a decade-long collaboration between Ben Mabry and Brent Holloman.
「ボーカルのハーモ二ー、アコースティック・エレクトリックギター、ピアノ、バンジョー、さらなる楽器具とソウルフルなアレンジの振り幅を源とするアメリカンフォークサウンド」…おお…よくわからない…。でも温故知新的なものを感じる…。
日本語で何かかいてくれてるサイトは見つからなかったです。
Beta Radio Beta Radio 2014-11-18
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Triosence
TrioSenceはシンプルな美メロで凄くいいなと思って聞いてます。これはインストバンド?かな。歌なしでここまで物語性というか、華やかかつ硬派?な曲を作れるのって凄いんじゃないかなとなんとなく思います。作曲とか洋楽に関しては門外漢なのでほとんど書けないんだけど、「良い」音楽を作る人たちだな〜と。調べて見たらドイツのグループらしいです。
70年代初頭のキース・ジャレットなどECMピアニスト達が表現していたサウンドを、現代ポスト・モダンのユーロ・ピアニズムの世界に再構築、透明感溢れるピアノと親しみやすく美しいメロディは日本でも多くのファンを魅了している。
ECMってなんだろう…。ポスト・モダンのユーロ・ピアニズムっていうジャンルがあるんですね。やっぱ音楽の世界は細分化していて根が深い。
Triosence MONS 2013-09-28
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Duke Garwood
Duke Garwoodもいいです。逃げ場がないというか。渋みがあって重いけど苦しくはない、重力がない海の底にいるみたいな感じ。漣みたいな程よいストレスがあって、抑制がきいてる考え抜かれた感じの重さがいいなあと思います。Sweet Wineはメロディアスでおしゃれですね。でも音の差し引きがよく計算されている感じがします。この音がなっているときはこの音は弾かない、みたいな主義が透ける感じ。指どりが凄く鋭い気がします。
DUKE GARWOOD / デューク・ガーウッド / HEAVY LOVE | diskunion.net ROCK / POPS / INDIE ONLINE SHOP
ブルース、フォーク、ロックをベースにした美しいギター・サウンドを展開しながら、ソウルフルで渋みのあるヴォーカルが響き渡る本作にはゲストとして盟友マーク・ラネガン、アラン・ヨハネス(クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ)が参加し作品に華を添えている。2005年に『ホーリー・ウィーク』でアルバム・デビューから現在までに4枚のソロアルバム発表し、カート・ヴァイル&ザ・ヴァイオレーターズとのツアー、サヴェージズ『サイレンス・ユアセルフ』(13年)への参加、マーク・ラネガンとのコラボレーション作品『ブラック・プディング』(13年)の発表など活動の場を広げてきた。
「このレコードを聴くすべての国民はデューク・ガーウッドの音楽を知っているべきだ。知らないヤツはインチキ野郎だろう。彼は神秘的で、音楽的天才で、『へヴィ・ラヴ』は圧倒的な傑作だ。皆、乗り遅れるなよ!」 - マーク・ラネガン
「デューク・ガーウッドはホンモノだ。青空のように絶え間なく良いヴァイブをuni-vibeを通して放出する(例え暗いことを歌っていたとしても)。聡明で聖人だよ。」 - カート・ヴァイル
「俺のブラザーであるデュークは、知る限りで最も魂のこもった男だ。彼は常に自分で道を切り開いてきたし、何度も共に演奏させてもらったことが光栄だよ。」 - シーシック・スティーヴ
「何年もデュークを聴いてきたけど、『へヴィ・ラヴ』ほどパワフルで主導権を握った作品はない。彼のギターと歌声を聴くとまるでJ・J・ケイルの元気あふれる親族かと思う。めちゃくちゃ最高だよ。」 - グレッグ・デュリ(アフガン・ウィッグス)
「デュークとはザ・ルミネアで出会ったの。そこで彼はジャズっぽさを含んだスウィートなバラードを演奏していた。彼の歌声はか細くそれでいて豊かで、まるで狼に変身したチェット・ベイカーみたいだった。その瞬間“彼は誰なの?”って思ったわ。」 - ジェニー・ベス(サヴェージズ)
ちょっとカタカナ多くて目が滑るけど。ブルース・フォーク・ロックがベースなんですね。
Duke Garwood Pias America 2015-02-10
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Montt Mardie
中盤の、恋人からの電話にめっちゃ甘い声で話すところがイイです。はぁ〜〜Hi, baby,が可愛い…こんな甘い声で話されてみたい。明るいけどはしゃぎすぎない感じが落ち着いて聞けていいのかな。
The Daydream Club
The Daydream Clubも、白昼夢倶楽部ってくらいなので、どことなく幻想的で棘がないというか、でもしっかりリズムを刻んでくれる感じがついていきやすい。PVも綺麗ですね。夫婦でやってるデュオグループ。ちょっとここまでかいて疲れてきたのでレビューサイトでいいの引用して訳するのはまた後でします…。ジャンルとしてはオルタナティブ/インディーらしいです。
Milk Carton Kids
Milk Carton Kidsはわりとずっと好きです。淡々としてて綺麗で、でも何かしら出会いというか実りが曲調にあるので、安心しながらも興味を持って聞けます。飽きないですね。
Milk Carton Kids Junketboy 2011-11-22
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自分の好きな曲が「このジャンル!」って言えればいいんですけど、フォークとも、オルタナともポストロックともちょっと違う気がしていて。強いて言えばアコースティックがいいのかなと思うけど、明るいアコースティックは苦手だったりするし一口では言えないのが少しもどかしくて。今回ちょっとこうやってまとめることで、色々わかるかなあと思いつつやってみたんですけど。オルタナとかインディーって幅広すぎてあれですね。好きな音楽何?って聞かれてポストフォーク(?)とか言われてわかる人とかいないだろうし。静かな感じの音楽かな、としか言えないのがもどかしいな。
ちょいちょいこういう嗜好のものも書いてみたいと思います。聴覚はちょっと過敏なきらいがあるので(多分アスぺ系の発達障害からきてるとは思う。他過集中など)、同じ様な方のお役に立てたらなとも願いつつ。しっくりくる音楽探すのって本当に難しいですよね。あ、これならいいかも、と思って聴き始めても、途中で盛り上がったり、苦手な声に入ってこられると違うの探すことになって、凄く勿体無い。この人の紹介する音楽なら大丈夫、とかいう指標をある程度立てられたら、日常がちょっと楽しくて、楽になるような気がしています。
それでは、今夜はこのへんで。ここまで読んでくれてありがとうございます!音楽の好みは人それぞれですが、いいなと思ってもらえると嬉しいです。次の更新はなるたけ早めにしたいです。
「怪盗グルーの月泥棒」感想〜ミニオンとまっくろくろすけ・他
おはようございます。にしのです! 昨日ミニオンズを初めて見ました。感想を書いてきたいと思います。
えっと、まず、めちゃめちゃ面白くてびっくりしました。ちょっと非の打ち所が、ないレベルですね。
ディズニーのズートピアとかシュガーラッシュとか、ベイマックスより私はいいと思いました。
なんて言うか…バランスがいい。
キャラクターがいい。
動きがいい。
たとえば孤児院のおばさんとか、グルーのお母さんとか。遊園地のやる気ねー従業員とか、そういう人たちがすごくいい造形をしている。一目見ただけでこの人ってこういう人なんだろうなってわかっちゃう。しかも彼らが「動く(animate)ことで、喋り方、表情で、その第一印象をいい具合に裏打ちしたり、広げたりする。リアリティとデフォルメのバランスが良い。
ミニオンも、あれ、私、まともに喋らんと思ってなかったです。メインキャラの3匹が喧嘩したりシニカルなこと言ったりして、ちょっと人間関係の錯綜とかあって、恋物語とかあって、わちゃわちゃしてるもんだとばっかり思ってたら、違うんですね。いい意味で没個性的で、でもしっかりちゃんとそれぞれ人格とか人間関係とかあるぽいんだけど、話の進展を煩わすほどのものではない。いい意味でいたいけというか、無邪気というか。ミニキャラっていう範疇を崩すことなく、でもキャラクターとしての仕事はきちんとしてます。いや、凄いですね、この作品。あの子たちの言葉が無意味なものでも、彼らの考えてることとか、やりたいこととか、感じてることがわかるって、スタッフ達のアニメーションの可能性への挑戦ですよね。あの表現力のクオリティなら、声ついてなくてもわちゃわちゃやってるのをずっと見てられる。「動き」だけで、あらゆる可能性と物語を魅せられる。
思ったことをつらつらと。
まず「怪盗」がいいですね。しかも、ちょっとファンタジックな世界観なのに、銀行の融資とか転職活動とか履歴書とかそういう妙に現実的な言葉が出て来る。最高にイカしてるのは、ベクターがポップコーン食ってwiiやってるところ。えっなんかこいつYoutuberみたいな暮らししてる…って思って面白かった。あれが現代の成功者のあり方なんやなーと思って。非常に現代的な子供の感覚に立って作られている気がしました。「怪盗」もいろいろあるけど、グルーはちょっと「かいけつゾロリ」ですよね。
印象的なシーンは結構あります。なんていうか、仕草への執念を感じました。ひとつひとつの、本筋には関係ないし、特に意味もないような小さな仕草。「メアリと魔女の花」でも感じたんですけど、アニメーションってそういう小さな動きひとつが大事なんだなって。
プロデューサーのインタビュー記事を見ていたら、宮崎駿について人生で最初にみたアニメーション映画といっていて、ちょっと納得はしました。
でも、日本人向けのメディアのインタビューで日本のアニメのことについて聞かれて、宮崎駿の名前を出さないのも野暮って感じはするから、どれだけそうなのかとかはわからないけど。でも、なんて言うかちょっと思い出すところはあって。
私がすごく好きだなって思ったのは、グルーがテレビ(テレビ電話かな)をつける際に、リモコンが反応しなくて「アッ! アッ!」て言いながら何回か押し直してるところがあるんですよ。あれって本当に無意味というか。なくて済ませても別に誰も何も思わないシーンなんですけど。あれが出ることで、グルーがお父さんとか、親戚のおじさんとか、そういう男性と被って来て、グルーに対してもすごい親しみが持てるんですよね。いい意味でのデジャブ、追体験がある。
無意味だけど人間味が薫ってくる仕草ってジブリにも結構あって。最近「ハウルの動く城」を見直したので例に出させてもらうと。
ソフィーが飛行機の止め方がわからなくて、思いっきり城に突っ込んで来るシーン。マルクルがソフィーを見つけて思いっきり抱きついて、ソフィーがそれを抱きしめる。その仕草の過程に、マルクルを一旦抱きしめてから、持ったままの飛行機のハンドルに気づいて、一瞬それを見て、後ろに放り投げる。あの一瞬、なくてもよいもの、なくても別にどうということもない動作を入れる。そのことで、ソフィーがどんなに必死になってハンドルを握っていたか、駆け寄って来るマルクルを一も二もなく抱き止めようとしたかっていうのが言葉にするよりもわかる。他にもちょっと間が抜けた仕草への親しみも募りますし、後ろに放り投げるっていう豪胆さもそう。すごくいろんなものが無意識のうちに情報として伝わってくるんですよね。私たちがアニメキャラクターに対して抱く「親しみ」って、分解すると結局そういう無意味にも思えるような仕草から来てるんじゃないか。
あと、子供としてのリアルさも凄いなと思いました。序盤の方で、末っ子ちゃんがグルーに冷たくされて「あ、泣くかな?」ってとこがあるんですよね。多分普通だったら泣かせるんですよ、あそこ。それでグルーが困って、ああ泣きやめってなだめようとする。でもそこで彼女息を止める。お姉ちゃんが「息を止めて抗議してるの」って補足する。あそこがすごく印象的でした。私もああいうことやってた! と思ったし、今改めて見るとなんでそんなことしてんのwwwって思う。でも、自分を傷つけることが親とか大人への脅迫になる年齢だからするんですよ。あそこは凄いリアリティがあって、監督とか、身近な人の娘さんがよくやってたことなんじゃないかなって感じました。きっとそうだと思うんだけどな。ディズニーカートゥーンの女児って、たとえば「シュガーラッシュ」の女の子にも感じていたことなんですけど、なんかすごい婀娜めいてるところがあって、ちょっと落ち着かないんですよね。あの子は女児ってくくりでいい…んだよね。
ちょっと思ったんですけど、ミニオンズってまっくろくろすけ的ですね。没個性的で見分けはつかないし、言葉もわからないんだけど(でも彼らだけで通じる言葉はある)、でもよく見てればそれぞれの人格とか人間関係はありそう。目が大きいのもそうですね。
そう考えると、グルーがミニオンズを一人一人識別してるときのワクテカ感て、「千と千尋」でかまじいがまっくろくろすけを見分けてたときのワクテカ感と似てたかもしれない。「この子達見分けられるものなんだ…!」的な。「もののけ姫」の「こだま」ともちょっと似てるかもしれません。
「モンスターズインク」にもそういう有象無象のモブキャラはいたような気がするけど、やっぱちょっと感覚はアメリカンなところがある。それぞれ個性が強くて自己主張も激しくて、見た目とかで差別とかそういうの盛り込みがちっていうか。それは「ドラマ」ではあるかもしれないけど、「なんかわちゃわちゃしてて癒される」って感覚とはまたちょっと違うところがあると思う。「悪役」とか「友達」「摩擦」「軋轢」「和解」みたいな、シナリオに食傷してるところを癒してくれますね。
この記事ではミニオン誕生の経緯について色々書かれてて興味深いです。「サイレント映画の遺産」っていうのは理解できる。私が冒頭で書いてた部分もそれかなあと思います。あと「デリケートなキュートさ」、って言葉がちょっと面白いですね。単なるキュートさではないということ。ここではミニオンの前身として「トイ・ストーリー2」の「緑色のエイリアン人形」があげられていますね。
感想に戻ります。
この映画のあえて説明されてない感も好きです。ミニオンズがシリーズものってことはなんとなく知ってたから、私これ続編のほうなのかな…第1作目ではグルーとミニオンが出会った過程とか、よくわかんないこの犬?を飼うようになった理由とか、グルーの一族末裔としての苦悩とか、そういうのが描かれてるのかな…って思いながら見てたんですよね。いや、それにしても2作目から見た人にもわかるようにうまく表現してるなー、すごいなー、みたいな。見終わったあと調べてこれが一作目って知ってびっくりしました。
「既成設定の海」に投げ込まれる楽しさって、人間あると思ってて。例えば壮大なファンタジーものとかそうですよね。こういう伝説があって、こういう地域間の対立があって、こういう人間関係とか組合があって、みたいな。でも最近の作品って結構一から説明しがちじゃないですか。「おめでとう、君が勇者だ!」とかやって、キュウべえ的な水先案内人がきて、いろいろ説明してくれて、一人この世界をよく知ってる仲間が現れて…みたいな感じの。ああいうの、いいんだけど、ちょっとだるさもあります。でも「規制設定の海」に視聴者をついていかせるためには、やっぱ絶妙な差し引きのセンスが必要です。ナレーション挟んでいちいちやってもいいけど、やっぱそれだと冗長になりがちだし、やりすぎたって意味わからんって言われちゃうし。それを児童向けのアニメーション作品でやるとなると尚更そうなんじゃないかと思う。だからやっぱりバランス感覚がすごくいい人が作ってるんだなって思った。
他気になったところとしては。クッキーマシーンが映画泥棒感すごかった。あれは…確信犯じゃないよね。たまたまだよねきっと。後続のやつは違う制服だったし。劇場で映画泥棒のくだり見てからの人絶対笑ったんじゃないかな。
あとジェットコースターのVR感やばいね! 子供あれ絶対喜ぶよね。ジェットコースター乗りたいときにミニオンみたーいとか言いそう。普通にノートパソコンで見てたけど、浮遊感にちょっとおえってなったし。いいですね、ああいう遊び心は。
あとは、感じの悪い孤児院のおばさん、って鉄板テーマなのかもしれないんだけど、すごくいいなあと思った。彼女もほとんど説明はされてないのに、きっとこうでこうでこういう人なんやろな…って思う。絶対なんか…ああいう系ですよね。こういう「ふまえてる感」は心地いいところがありました。個人的には(全然系統は違うけど)、ティム・バートンの「Stain Boy 」を思い出したりしました。
映画見てるときは可愛い可愛い言って見てたんですけど、それだけじゃあんまり読みがいがない記事になっちゃいそうなので、少し掘り下げて考えてみました。ミニオン≒まっくろくろすけはわりといい線いってそうな気がします。
あ、それと、前にあげた「人生に、文学を。」の記事をツイッターで公式アカウントさんにRTしていただけました!
記念のスクショ。
昨日とかも更新してないのにアクセス数があったので、きっとこのおかげなのかなと思います。公式アカウントの中の方ありがとうございます…!
ぼちぼち風邪も治ったので、また近いうち更新したいと思います。よろしくお願いいたしますー。
TOKYO FMサンデースペシャル 『人生に、文学を。』 第一回 桐野夏生・谷崎潤一郎感想
夏風邪でダウンしておりました(若干今も)、にしのです。
だんだん風邪が良くなってきたときに、自力で本を読むのも、映画や動画を見るのも、ちょっとキツいなっていうタイミングがありました。暇なんだけど視覚情報に集中するのが辛いっていうか。
なので、ネットラジオでも聞いてみようと思い立ち。お笑い芸人さんの大きな声とかはちょっとつらいから、落ち着いたトーンで、何か面白そうなのはないかなあと探して見たら、ちょうどタイムリーな番組を見つけました。
(リンク先で全編聞けます)
日本文学研究者・ロバート・キャンベルをパーソナリティに迎え、直木賞作家・桐野夏生と、彼女が最新作『デンジャラス』で扱った、文豪・谷崎潤一郎について語らうという企画。
しっとりした雰囲気もちょうど気分に合ってたし、街頭で女子大生に谷崎の小説の一文を読ませ、感想を聞くようなところも工夫があって面白かったです。全体的に興味深かったのは、
1 「デンジャラス」で桐野夏江が見出した、谷崎の愛人たちの抱く悩みの普遍性
2 ロバート・キャンベルの的確で鋭利ながらも穏やかな語り口
の二つかなと思います。
1つめ。
番組の中盤でロバート・キャンベルがうまく纏めているのですが(ここは書きとめたくて、途中で一度再生を止めてました)
「谷崎が愛した女たちというのは、文豪が愛した女性という勲章を抱きつつも、それぞれがどこか確たる自信や居場所が、ない」ということ。
谷崎潤一郎という人は(私も短編を2つか3つ読んだくらいしかないかな?って感じなんですが)、耽美で官能的な小説世界を描く作家です。番組中でも、彼の小説で、老人が女性の足の裏を舐め、その指を吸って「悦に入る」シーンが読まれます。年かさの男が若い女性の「足の指を舐め」るシーンというのは、この間レビューを書いた「娚の一生」でも出てきたので、奇妙な符号を感じました(ポスターにもなっているシーン)。
足指を舐める。少しアブノーマルで、背徳的な行為、後ろ暗い情事を暗示する行為である。服従という要素も含まれてて、SMっぽいところもありますね。
谷崎は自分の愛する女性を幾人も家に集め、彼女たちを養いながら、共同生活を送らせていた。簡易大奥というか。谷崎という人は、しかし優しい男ということでしたから、例えばあえて争わせたり、表立ってランクづけして贔屓したり、そういうことはきっとしなかったと思います。それぞれの女性に敬意と愛情を尽くしながらも、自分の美学、ゆがんだ愛のかたちを追い求める。やさしいやさしい暴力、というか。番組中で谷崎邸は「谷崎の王国」であったと語られます。
そういう環境に置かれていたからか。それとも、もともと谷崎がそういう要素を孕む女に惹かれるからなのか。〝谷崎が愛した女たちは、彼に愛されること自体をアイデンティティとしようとしながら、「確たる居場所」や「自信」を持つことができないでいる。〟
なんとなく私は後者の要素も強い気がしますが。ただ、男(それも裕福で、名声がある)に愛されることをアイデンティティに置こうとする女というのは、今でも全然いるし、全く色褪せていないと思う。むしろ、社会的に別に強制されるものでなくなっただけ、擬似的に自分をそうやって囲い込もうとする女性が目立つ、ような。
桐野夏生は「昔は今みたいに仕事をしている女性も少なかったし、尚更」(ニュアンス)と言うのですが。想像すると少し息づまるものがある。無論谷崎邸の環境はとりわけ特異だったとは思いますが、「愛されることで、自分の価値や生活を担保される」生き方。社会的にそれが女の生き方として当然とされる。これはモーム「月と6ペンス」でも女性の生き方として言及されていたところですね。
私は別に専業主婦がどうのとか、面倒くさいことに切り込むつもりはないし、経済的その他の事情で、女性自身やそのパートナーが自分たちに向いてるほうを選べばいいと思っていますが。
選択できるということが何よりも大事という気がします。
谷崎邸の女性たちの状況を思うと、あたたかい部屋で徐々に傷んでいく、柔らかい果物のイメージが浮かびます。谷崎潤一郎は確かに優しくて、好い男だったんだろう。不義理もしないし、他の女に愛情が移ったからといって、前に熱中していた女を追い出すこともない。でも、だからこそ女は傷む。誰にも言えない傷や秘密が増えて、あたたかな愛情のなかで腐ってゆく。
豪華な豪邸があって。生垣や、障子とか、襖とか。そういうもので何重にも覆われている和室、みたいな感じがします。でも、それはそれで淫靡であるし、一種の世界、ロマンティシズムだと思う。谷崎潤一郎が憧れていた世界というのは女の私でも理解できるし、きっとだからこそ彼の文学は普遍たりえたんですよね。
少し話を戻して。
番組中で、桐野夏生は『デンジャラス』では女性たちの「居場所探し」というテーマを強く打ち出していると話していました。私にも覚えがあるんですけど、男の愛情って、女が自分の「居場所」とするにはあんまり不確定で結構きついんですよね。どうしても性欲の部分が大きいし、若さや奔放さは年を取っていけば失われるものだし。愛されなきゃと努力すればする分、気持ちが離れていかれたりする。そのへんは男女関係の永遠のテーマなんだろうと思う。あやうい均衡といいますか。欲しすぎてもいけない、全く求めなくてもいけない。だからこそ、特にこの時代の女は試行錯誤する。愛されるために、この文豪が満足のいく女になるために、どうすればいいのか。けれど彼は身勝手で、長らく付き合ってきた年増より、ふと現れた若くて気ままな女に関心を抱くようになったりする。
デンジャラス。ブック・ナビ評論家によるデンジャラス【桐野夏生】の書評とコメント
この書評が一番小説世界に踏み入った分析をされてました。え、谷崎潤一郎妻を佐藤春夫にあげたりしてたの…鬼畜…。
女性への思慕と妄想を創作の糧にする谷崎にとって、日常生活を共にする「妻」は常に現実の瑣事に足をすくわれ幻滅する恐れがあるのに対して、「妻の妹」はいつまでも妄想の対象として留めおくことができる文学的存在だったのかもしれない。
ここは私が書いてきたのとちょっと呼応する部分なんじゃないかと思います。男のエゴ丸出しって感じだけど、でも、人間の中には確かに存在する欲望なんじゃないだろうか。「夢を見る」。現実に堕した女は、きっと男の「幻(ゆめ)」たる資格を失ってしまう。
ここから少し使わせていただいて、説明すると。『デンジャラス』中で、70代の谷崎は妻・松子やその妹・重子をさし置き(この時点でえ?って感じですが)、義理の息子の妻、20代の千萬子を愛するようになる。物語のラストに、語り手である重子は谷崎を咎め、「千萬子をとるか、あたしをとるか」と詰め寄る。谷崎は重子に深く土下座し、「あなたさまが私の創作の源泉です。あなた様ほど複雑で素晴らしい女人はおられません」と、重子への愛を白状する。しかしこのやりとりを松子が見ていた。重子は気配に気づき松子を見るが、松子は何も言わずに立ち去る。
ここは、ロバート・キャンベルも触れていました。松子のこの行為を蛇足だったかもしれないと語る桐野に対して、ロバート・キャンベルは、そんなことはない、谷崎の愛の不実さをも受け入れた松子に救われた、と言います。それすら呑み込むように松子は生きた。彼女の中にはあまり谷崎を責める気持ちもなかったような気はします。彼の必定であり、自分の宿命であり、創作世界であったと考えていたのではないか、と勝手に想像しました。
ロバート・キャンベルが出てきたところで、先にあげた要素の2つめに行きましょう。
彼は全体的にとても聡明で、すごく細やかな言葉のセンスを発揮しているんですが。なかでも私が印象深かったのは、彼が「冷酷」を「冷徹」と言い換えるシーンです。作家で日本人の桐野が使った「冷酷」に対して、「冷酷?」と聞き直し、彼女が「冷徹」と言い直すと、「ああ、冷徹」と納得する。こんな微細な日本語感覚を持ってる人って日本人でもほとんどいないですよね。いや、あまりに当然のことを言ってるかもしれないんですが。改めてちょっとこの人ってすごいんだなと思いました。
他にも、外国語まじりのイントネーションで発される「差し(向かい)」、「寸止め」、「ねたばれ」、「蛇足」、がいちいちなんかすごく新鮮な響きに聞こえる。彼の声で解体されることで、日本語の情緒が再現されるんですよね。ここはかなりびっくりしました。本当に日本文学の情緒に分け入って、その一粒一粒を膚で感じ取れる人なんだなって伝わってきて。今更こんなことを言うのもちょっと、あまりに当然で恥ずかしいことなのかもしれないけど。注目していきたい方だなあって思いました。この人がパーソナリティを務めているなら、この「人生に、文学を」シリーズ、あと三回あるらしいんですけど、全部聴きたいなって思います。聞いたら、また感想をあげたいな。
病み上がりということで、今日は短めです。『人生に、文学を。』お勧めです!
メンヘラ女とダメ男〜「地下街の人々」ジャック・ケルアック
お久しぶりです。こないだ人生で初めて財布を盗られました。にしのです。しんどいです。
今日は「地下街の人びと」のレビューを書いていきます。古本屋で100円で書いました。
一言で言うと、メンヘラ黒人美女・マージと、ヒッピー三十路男・レオが共感し合ったり気まずくなったりしつつ、案の定二ヶ月で別れました、っていう話ですね。マージの浮気が原因っぽくなってるけど、より正確に言えばレオの嫉妬や猜疑心からじゃないかな。
んー、意外な展開とかはあんまり、ないですね。「意識の流れ」と文体のリズムを重視した作品なので、ストーリー自体は朴訥というか、ひねりはないです。レオの一人称、意識の流れがずっと続く。ヤンキーカップルが付き合い始めてから別れるまでを見ている感じです。
レオがあまりにどうしようもなくて、終盤「バッファロー66」を思い出しました。徹頭徹尾自分のことしか考えてなくて、後悔はするけど反省はしない感じっていうのかなー。私は女なので、結構マージに寄り添って読んでしまいましたね。マージは信頼できるキャラクターでした。最後にきっぱり「私は私でいたいの」って言って、自分からレオを振るのもいいですね。ちゃんとしてる。それで「そして彼女の愛を失った僕は家に帰る。/そして小説を書く。」で終わるっていうのも、ほんと変わんねえなこいつ、って感じが出ててアリだなと思いました。途中のグダグダに比べるとよかったですね。
これ読む人によって感想は全然変わるんじゃないかなあ。「バッファロー66」が、主人公に共感した男性に支持されているように。
こちらのブログで、カポーティはケルアックを徹底的に批判したと書かれていました。私カポーティはすごい好きなんですよね。合わなかった理由がわかった気がして、ちょっと納得しました。好き嫌いが別れる作風なのかもしれません。この記事の執筆者さんは「地下街の人びと」が好きみたいです。
「いずれにせよ三十代半ばのケルアックが、幻想を抱き過ぎたがゆえ失恋を味わい、簡素な台所で独りタイプライターを打ちまくっている姿がありありと目に浮かぶ。このような男によって書かれた文学が、どうしようもなく孤独な夜、仮にも僕たちの枕元にあったならば、少しの慰めにはなるのではないか?」
女に救いを求めて、結果夢破れた、孤独な男たちの夜の彷徨。その傍らにあるべきバイブルとしての「地下街の人びと」。
レオは幻想を抱き過ぎたのかな、どうなんだろう。それはこの後ちょっと考えていきたいところです。
この作品。もっとストーリー重視であれば、ある程度平均水準っていうのが出てくると思うんです。あんまり好きじゃないかもって人でも、まあここは最低限評価できる、例えば終盤のどんでん返しや、意外な展開、みたいな。基礎点数っていうのかな。それをまるっと放棄しちゃってる感じがケルアックらしいというか、ビート文学っぽいなと思ったりします。訳者の真崎義博さんによれば、彼は書いたものをエディットすることを「最大の屈辱」とまで捉えていたみたいだし。
ケルアックは意識によることばの検閲を排除し、無意識の領域を掘り起こそうとする。ものすごい速度でタイプを叩きながら精神から湧き上がることばの泉を汲み取る。そしていったん記録されたものを決して推敲しようとしない。このような創作姿勢はビート作家に共通して見られるが、そのスピードにおいてケルアックは抜きん出ていた。作品を刊行する際に出版社から削除と書き直しを命じられたことは、彼にとって最大の屈辱だったに違いない。(194)
ビート派は、小説を書いている間に閃く一瞬の感情とか、表現とか、真理とか。そういうものを大事にしていた人たちだったと。それで、私生活もヒッピーしてドラッグやって呑んだくれて~って感じ。書き方も生き方も全体的に捨て身な感じですね。捨て身だからこそ一途さみたいなのも伺えます。主人公のレオもそうだけど、根本的に不器用で純粋ではあります。「トレインスポッティング」とかも少し似てますね。最近2やってましたね。
マードゥにはきっとモデルがいるんじゃないかな。彼女の少女性というのか…ある意味での純粋さっていうのが清冽で、べったり「(自分の)男の肉体」に依拠して生きてるレオ(≒ケルアック)に創れる感じがちょっとしないかなあ。表現がいいんですよね。マードゥ。本性的(?)に女性というか、少女だな、って感じがする。
「みんなと会ったころの私って、何も知らない女の子だったの。他人に頼ったりしなかったけど、とくに幸せとかなんとかいうこともなく、何かすべきことがあるわという感じだった。夜学に通いたかったし、いくつか仕事もしたわ。オルスタッドの店やハリソン通りのあたりの小さな店でも働いたのよ。学校の歳をとった先生はいつも、私なら偉大な彫刻家になれると言ってくれていたの。いろいろなルームメイトといっしょに暮らして、着るものを買ったりしてうまくやっていたのよ」(42)
この「着るものを買ったりしてうまくやっていたのよ」ってすごくいいと思いません? ああ、女の子なんだな、って感じがします。「うまくやっていた」中で特筆するものがお洋服なんだなあって。でも確かに女の子が洋服買えてたらそこそこうまくいってる感じはあるよね。「他人に頼りなんかしなかったけど、とくに幸せとかなんとかいうこともなく、何かすべきことがある感じ」っていうのもすごいいい。この絶妙な回りくどさ、とりあえず色々拾い集めている感じってすごく女子っぽい気がする。
マージはレオ曰く「生まれながらに健康的で風通しのいいところから愛を求めてやってきた」女性。彼女は都市部にやって来ますが、ある男性と寝た後、ふと「自分が何なのかわからなくなった」といいます。彼女は「自分が自分でなくなる」恐怖に、裸のまま男の家を飛び出して、雨降る夜に辺りをさ迷う。彼女はそこである種の「天啓」を得て、自分が充足してゆくのを感じたのだと語る。
「私、決心したの、何かは建てたわ。それは……でも、私にはできないーー」新しい出発、雨の中の肉体からの出発、「私の小さな心臓、足、小さな手、神様が温めようと私を包んでくれている皮膚、つま先、こうしたものをなぜみんなは傷つけようとするの?ーー神様はどうしてこういうものを衰えたり、死んだり、傷つけたりするように造って、私に気づかせて悲鳴をあげさせるの?ーー野生の大地や肉体はどうして壊れるものなの? ーー神様が恍惚としたとき、父が金切り声を上げたとき、母が夢を見たとき、私は身震いしたわーーはじめは小さかった私もいまでは大きくなり、また裸の子どもになって泣いたり恐れたりするばかりなのよ。ーーねえーー自分の身を守って。あなたは害のない天使、害を与えたことなどなく、そんなことは絶対にできず、清らかな殻を破ったり薄い膜のかかった苦痛を与えたりすることもできないあなたーーローブを纏って、優しい仔羊ーーまたパパがやって来て、ママがその月の谷間にあなたを抱いて温めてくれるまで、雨から身を守って待つの、忍耐の時という織機ではたを織るのよ。毎朝を幸せに暮らしなさい」
ここは名文だと、個人的には思います。なんていうか、ある少女時代…恵まれてなく、周りには何もなくて、むやみに周囲から傷つけられていたような少女時代を送った人なら「読める」んだと思います。逆に、あんまり苦痛を感じず生きてこれた人には、「この女やばっ」ってなるような感じがする。
マードゥは精神科のセラピーに通っているいわゆるメンヘラで、生きづらさを抱えています。インターネットにはそう言う女性っていっぱいいるんじゃないかな。
…彼女は借りた二ドルを手に通りを走り、閉店よりずっとまえに店に着いた。カフェテリアでひとりテーブルについてコーヒーを飲み、ついに世界や、陰鬱な帽子や、濡れて光る歩道や、焼いたカレイがあることを示す張り紙や、窓ガラスや柱にかかる鏡に映る雨や、冷たいご馳走やドーナッツやコーヒー・ポットの湯気が見えるカウンターの美しさを理解したのだった。ーー「世の中はほんとうにあたたかいわ、小さなシンボリックなコインを手に入れさえすればいいんですものーーそれさえあれば温かい店に入れてくれるし、食べたいものを出してくれるのよーー裏通りで皮を剥ぐ必要も、骨をしゃぶる必要もないのーーそういうの店は袋をかついだ慰めを求める人々が心地好くなれるようにあるんだもの」
コインで何もかも手に入るなんて、なんて優しいんだろうと彼女は感動する。自分の心身を引き裂いても得られぬ「何か」があって、それは絶対的なものだと思っていたのに、世の中にはお店とかがあって、雑貨とか、コーヒーとか、そういうささやかな慰めをもらうことができる。それが社会的に許されて、あまつさえ「普通」とされているなんて、優しくてかけがえがないことだと打ち震える。
この後マージは、「マリアナやベンゼンドリンでハイになる注射をされたような気分になり、ハイな気分のまま通りを歩いてい他人と電気接触をしているのを感じる」「そういうときは誰かがひそかに彼女に注射し、通りを歩く彼女を尾行するから…感電するような感覚はそいつのせいで、そいつは宇宙の自然法則からは独立している」(52)みたいなことを言い出して(レオ視点なのでちょっと人称がおかしいですが)ちょっとヤバい感じなのがわかるんですけど。「雨の中、素直で美しく、正気を失っている」(62)は純粋な子供そのものだとレオは感じ取る。
「日差しが柔らかくて花が咲いていたわ。私、通りを歩きながら考えていたの、『これまでどうして退屈に身を任せていたのかしら?』ってね。その埋め合わせにハイになったり、お酒を飲んだり、怒ったり、誰もがやるようなごまかしをしていたのよ。なぜそうなるかっていうと、みんな、今あることを静かに理解する以外のことならなんでもしたがるからかもしれないわ。これって、たいへんなことだから。それで腹の立つ社会的な取引のことやーー腹の立つーー刺激的なことを考えたりーー社会問題や人種問題について口論していたのかもしれない。ほとんど意味がないことなのに。最後には大きな自信や朝の黄金いるの光も消えてしまうような気がしていたの。私はもうはじめていたのよーー私は、純粋な理解やずっと生きていこうとする意志のちからで、自分の人生をそういう朝みたいにすることもできたのに。そうなっていたら、どんなことより素敵だったでしょうねーーでも、何もかもが嫌なことばかりだった」(58)
言ってることも結構まともっぽかったりするんですよね。自分が生まれ変わったように思える朝、瞬間。全てのものがフレッシュで、自分の存在も、他人の存在も祝福されて、自分が見るものすべて、人間すべてが神様が定めた宿命であり、神聖なもののように思える。そういう朝を彼女は体験して、レオはそれを「あばたの地面にあいた穴から不安げで純粋無垢な精神が立ち昇り、砕けた自分の両手で安全な救いの場へと這い出してきたことがはっきりとわかった」と描写する。
狂人の純粋無垢性って私はすごく惹かれるテーマだったりするので、興味深いと感じます。マージ自身結構頭が良い子で、性格も真面目な感じがするんですよね。レオはマージのこの話を聞いて彼女を唯一無二の女の子だと感じます。
ーー灰色の日、赤い電球、僕は若い頃に知っていた偉大な人々、仲の良かったアメリカの偉大なヒーローたち、いっしょに無理をして刑務所に行き、みすぼらしい朝を迎えた人々、あふれそうな排水溝のなかにシンボルを見ながら歩道を歩いた少年たち、タイムズ・スクウェアにいるアメリカのランボーやヴェルレーヌたち、こういう人々以外の口からこんな話を聞いたことは一度もなかったーー精神の苦悩を語ってぼくを感動させる女の子など一人もいなかったし、地獄を彷徨う天使のような輝きを見せる魂を見たこともなかった。かつてぼくは、その地獄とまったく同じ通りをぶらつきながら彼女のような人間を探し求めていたが、暗黒も、謎も、永遠の中でのこうした出会いも、夢想だにしていなかった。…ーーもはやそれは愛にも似ていて、ぼくは困惑したーーぼくらはリビングルームで、椅子のうえで、ベッドルームで愛を交わし、からだを絡ませあって充足感にひたって眠ったーー今度はぼくのもっと強い性衝動を見せてやろうーー(63)
最後は結局性欲かよ!!って思うんですけど。それはまあ置いといて。最初はヤリ目だったけど、話聞いてると結構色々悩んで苦しんでるんだなってことがわかって、それって実は俺もすごい悩んでたことだったんだよね。なんかこの子いいな、ちょっとヤバいけど。みたいな感じですかね。「もはやそれは愛にも似ていて、困惑した」っていうのが無責任さを際立たせているな〜〜〜〜。
レオはマージのこうした話の中に、彼女のルーツである黒人の歴史を読み取り、原始の力を持つはずの人々であった彼らが、奴隷制によって何もかも奪い去られ、すっかり力を失いながら生きるさまを重ね合わせています。このへんが結構難解で読むのに苦労しました。そして、多分これは後々また強調されて使われていくモチーフなんだろうなと思ってたら、最初だけぶつけてきて後にはほとんど出ないのもびっくりしました。書きなぐっている感じがしますね。
レオはマージ自身顔を合わせたこともない彼女の父親を夢想し、「ハンサムな彼はアメリカの片隅の寒々とした薄暗い明かりの中で誇り高く直立している。誰も彼の名前など知らず、気にも止めていないーー」と考える。レオにとってこの「薄暗い中で〜誰にも名前を知られず、気にも止められず〜誇り高く生きる」っていうのがポイントっぽいんですよね。題名にもなっている「地下街の人びと」に惹かれる理由も根本的にはそれのような気がする。貧しく暗い中で、生に対して絶望を抱えながら、ひっそり生きる。うわべはどうでも、中身には傷つきやすい心とか、繊細な魂を抱えている。無数にいる人間の中に没して飲み込まれそうになりながら、自分なりの正しさや生き方を追い求めていく。そういう姿を彼は「地下街の人びと」見出して、惹かれているような気がします。
で、だからさぞかしスケールの大きいロマンスになるんだろうなーって思って読んでたんですよね。マージという女性を介して黒人全体の歴史を視る、そんなことができるのかなーって。あとはあまりにどうしようもないカップルだから、どうしていくんだろうか、みたいな。「僕らは深い愛と、敬意と恥辱の身のうえにたってロマンスをはじめた。ーーというのも、勇気への最大の鍵は恥辱だからだ。」ってなんかかっこいいこと書いてるし。
でも、結局後半が、レオはマージが止めるのに毎日呑んだくれて、小説書くからって言ってウザくなってマージの家に行かなくなったり、たまにムラッとしてヤりにいったり、(さんざんゲイこきおろしてたのに、酔ったはずみでなのか)美青年と寝てマージを嫉妬させてみたりする。話のターニングポイントは、レオがマージが浮気している夢を見たこと。その夢にだんだん縛られてって、マージがユーゴスラビア人のイケメン・ユーリと話してると色目を使ってるだの、楽しそうだの、やっぱり彼女は若者がいいんだ、とか考えたりする。「おまえは年寄りだ、歳をとったろくでなしなんだ、こんなに若くて可愛い女を手に入れるなんて幸福なんだぞ」って自分に言い聞かせながら、同時に「彼女に気づかれずに彼女と別れる方法はないか」とか考えたり。途中月を見て唐突にお母さんのことを想って号泣したりします。時々マージからいい表現が書かれた手紙を受け取って、「彼女を誠心誠意愛さなければ」って思い直すんだけど、結局酔いつぶれてベロベロで会いにいったりする。マージが実家出て一人暮らししたらって言っても、お母さんが大事だからとか、お母さんに嫉妬してるんだろみたいなこと言ってとりあわなかったり。で結局マージが「ユーリと寝ました」って言って、「私は私でいたいの」って言って、愛想つかされて家に帰る。みたいな感じ。でも実際「ユーリと寝た」っていうのも実際嘘か本当かわからないみたいな書かれ方をしている。その上レオは結構関係末期になっても「女は殴れば言うこと聞く」みたいなこと言うし。
こんだけダメの役満だと、逆にダメを売りにしてる感じもする。一番ダメな男像を提示して、共感を集めているのかな。それにしても約10歳年上の男がこんな器狭かったら私嫌だなあ…。
ブログをここまで書くにあたって軽く読み直しまして。
最初のほうに書いた「レオは幻想を抱いていたか」っていうのは、ああ、抱いてたんだな、ってわかりました。でもそれは身勝手な幻想だとも思った。マージはいい子ですよ。レオが見出したような純粋さとか、狂気とか、そういうのはあるし、同情を買おうとしたわけでもなんでもない。自分が自分でい続けるために、ダメ男を切るくらいの決断力も、賢さもある。普通メンヘラって男に依存するのに、そこは偉いと思います。単純にレオがそこまで幻想を見て惚れ込んだ女の子と結局一緒にいれないくらいダメだっただけです。裏切られた!所詮女ってこんなもん!みたいな感じの書き方ですね。でも終わり方的に、その自分のどうしようもなさもなんとなーく分かってそうなところがまだ救いかな。
でも「こんな彼氏ヤダ」みたいなところでレオを責めたところできっとナンセンスなんですよね。きっと話のキモはそこではなくて、この話の魅力は男にしかわからない男のダメさみたいなところにあるんじゃないかなと思う。
でも、ダメじゃない男だっているのに、こういう本をもってきて男ってダメな生き物だから、とか言ってるダメ男は違うと思うよ!
男と女と「楽園」としての南の島〜モーム『月と6ペンス』
5日ぶり(?)です。お久しぶりです。
この5日でバイト始めて辞めました。。時間ができたので、また今日から更新していきたいと思います。
今日は七月に読み終わっていたモームの「月と6ペンス」のレビューめいたものを書いてみます。
宜しくお願いします。
「月と6ペンス」は、ざっくり言うと、芸術家肌のクズ男をめぐる人々の物語です。
どのような粗筋かというと、解説者の松本朗がまとめているのを引用するのが早いでしょう。
…ストリックランドの生涯は、なるほど凄まじい。二十世紀初頭のロンドンで株式仲買人をしながら、平凡な家庭の良い父親、良い夫として十七年と言う歳月を過ごした後、ある日突然、そのすべてを捨てて、ただ絵を描く、それだけのために、単身パリへと移住する。このように、英国社会では当然視される父親や夫としての義務を捨て去ったストリックランドは、パリでも、衣食住という人間の最低限必要なものにほとんど構うことなく、絵を描くことだけに没頭し、周りの人間に対しては、徹底して冷酷、残酷、かつ無関心で、非人間的ともいえる態度を貫く。そうした彼の性格がもっとも顕著にあらわれるのが、彼が、自分の才能を見抜く唯一の人物であり、善良な芸術家であるストループから愛妻ブランチを気まぐれに奪った末に、ブランチを自殺へ追いやると言う事件である。その後の彼は、放浪の果てに、南太平洋の島タヒチへと流れつき、癩病に罹患して、自身の肉体が崩壊していくのを自覚しながら、壁一面の大作を完成させて命果てることとなる。(410)
英国版地獄変といえばいいのかなあ。自らの芸術への果てなき欲求に身を窶して死んでいく男の話というか。ちょっと本編を読むと、またこの要約とは違った印象が出て来るのですが。
それと、物語るのはストリック自身ではなく、若き小説家の青年です。彼の、ストリックランドの内面を見つめようとしつつも、肩入れしすぎることはない、距離を置いた視点から語られることで、ストリックランドは、外連味のある、獣性をもつ奔放さをもつ男として、十二分な実在感を持って描かれていきます。
ある幻以外は目に入らず、それを追い求めるためなら、自分自身を犠牲にすることはもちろん(これは多くの人ができる)、他人を犠牲にして省みなかった。それほどの幻を見ていた。(288)
語り手の「僕」はこうストリックランドを分析する。これは多くの人に理解されることではないでしょうか。ある夢のために自分自身を犠牲にし、食うや食わずで情熱に生きる。これは多くの人ができることです。しかしストリックランドはそればかりか「他人をも犠牲」にすることができる。自分の情熱のためなら、時には誰よりも善良で無辜な男を巻き込み、絶望の淵に叩き込むことも意に介さない。今風に言うとダークヒーローみたいな感じでしょう。一応モデルは画家のゴーギャンとされていますが、松本は、しかしストリックランドはゴーギャンとは全く違うところも多くあり、モームの創作も多いとしています。これを伝記小説として読むのは間違っているということですね。
松本正剛は自身のサイトで、この物語がゴーギャンの研究者たちに必ず参照してきた理由を、「ゴーギャンが「負の描写」によって浮き彫りにされているからだ。」と述べています。
332夜『月と六ペンス』サマセット・モーム|松岡正剛の千夜千冊
しかし、なぜモームがゴーギャンをモデルにこの物語を書いたかは、「人間の土地」を読まないとわからない、と言う。
松本正剛のいう「負の側面」とはどういうことか。それはストリックランドの生き様そのものに他なりません。
物語の中盤で、ストリックランドは「僕」に、時折やむにやまれぬ肉欲に堪え兼ね女を求めるときはあるが、それ以外での女性というものは全く自分には不要だと語ります。
…「愛なんてくだらん。そんなものに割く暇はない。それは弱さだ。おれは男で、ときどき女が欲しくなる。なんとか満たしてやらんと、次に進めんだろ? この欲はなかなか克服が難しい。なければどれほどいいかと思うぞ。精神を虜にするからな。いずれそんな欲から完全に解放されて、邪魔されずに仕事に打ち込みたいもんだ。女ってのは、愛すること以外に何もできんのだな。滑稽なほど愛を大きなものだと思い込んでる。愛こそ人生のすべてだなんてぬかして、男を説得しようとする。実際はどうでもいいものよ。肉欲ならわかる。それは正常で、健康的だ。対して、愛は病気だ。女はおれの快楽の道具であって、配偶者でも、連れ合いでも、伴侶でもない。そんな言葉には反吐が出る」(265)
時代柄もありますが、女性蔑視がすごい。でも結構真理をついているところもあって、今の本を読んでいるとまず目にできないこき下ろしが逆に小気味よかったりします。私自身ボロクソに言われている女性なのに、なんだか「あるある」って思っちゃうんですよね。まあそういう捉え方をする男性がいても不思議ではないだろうなと。今は自分で働いてる女性が多いですけど、この時代はまだまだ専業主婦が一番でしたから、女性の絡みつきようも今以上のものがあったのかもしれません。でも、女性が恋や愛に夢を見てるのっていつの時代も同じですよね。女は自分の全部をかけて愛そうとするけれど、男は一部でしか愛せない、みたいなことも聞きます。
でも、「女は俺の快楽の道具」「愛は病気だ」って言い切れる男って何かちょっとダークでワイルドじゃないですか。
今で言うとダメンズウオーカーっていうのか、ストリックランドは結構女性にモテてしまいます。ストリックランドに惚れて、善人の中の善人みたいな夫を捨て、結局彼の愛が自分には絶対に向かないことがわかったブランチは、結局薬を飲んで自殺してしまう。そのブランチに対する「僕」の分析もまたちょっと、こっちの身に迫るところがあって面白い。
…たぶん、夫を本当に愛しておらず、私の目に夫への愛情と見えたものは、夫の愛撫と慰めへの女性的反応にすぎなかったのだろう。…いや、ブランチに限らず、ほとんどの女性がそうだ。だが、実際には、どのような対象にもなびく受け身の感情にすぎない。いわば、どのような形状の木にも巻きつく蔓(かずら)だ。身の安泰からもたらされる安心感、財産を持つことの誇り、望まれることへの喜び、家庭を営むことの充足感が合わさった感情ーーそこにいかにも精神的価値があるように思い込むのは、女の女らしい虚栄心のなせる業に違いない。世間的な知恵は、このことをよく認めていて、だから、ある男がある女を見初めると、愛情など後からついて来るものだといって、結婚を勧める。(204)
ブランチの夫のストループの人物描写もまた凄いんですよね。本当に優しくて、愛想が良くて、芸術を愛していて、太った背の低い男の人。あまり裕福ではないけれど、友達も多く、同情深くて金の無心をされれば誰にでもお金を貸してしまう。あまりにピュアで騙されやすいために、周囲の人間は影で彼を馬鹿にして憐れんでいる。ストループは奥さんのブランチにベタ惚れで、女神だ、誰よりも君を愛している、世界で一番の美人だ、と口をひらけば褒めてばかりいる。ブランチがストループの後について家を出て行ってしまっても、道で待ち伏せして、ブランチに許しを請い、自分の悪いところはなんでも直すから戻ってきてくれ、と平身低頭します。ブランチに無視され、道を変えられてしまっても、もしブランチがストリックランドとうまくいかなくなって路頭に迷い、自分を必要としたときのために、ずっと元の家に住んで待っていると言い張る。ここまで来るともう親切というより、道化というか、ただの間抜けです。そんなストループを、ストリックランドはせせら笑う。
「女はな、男にいくら痛めつけられたって許せるんだ」…「だが、わが身を犠牲にして自分を救ってくれようなんて男は、絶対に許さんぞ」(263)
ストリックランドは、自分が苛立ったときは女を怒鳴りつけも、殴りとばしもします。でも、女はそれを許すと彼は考える。男に支配されることを望むのが女、と言われるとちょっと時代錯誤的だし、SMっぽいですけど。でもまあ女って大抵Mですよね。ストリックランドの獣性(?)に惹かれる女の人っていうのも一定数いるんだろうと、そこは何か自然に納得できます。ストリックランドは女性の裏の裏を分かってるんですよね、何だか。やることなすこと間違ってるのに、そこはある意味正解で。ストループはやってること自体は別に間違ってないし、人間としても憐れみ深くて優しいのに、なぜか徹底的に間違っている。その対比が非常にやるせないです。女心、とまとめてしまえばそれまでですが。そしてストループが喉から手が出るほど欲しがり、一生をかけて養いたいと思ったブランチを、ストリックランドは「邪魔なもの」としてしか見ない。皮肉ですが、今でも十分あるあるですね。
冷血で自己中心的な男・ストリックランドはそれから彷徨の旅に出、南の島タヒチへとたどり着きます。イギリスでは異常であったストリックランドの行動も、ここでは許される。一人山奥に引きこもり、延々と絵を描き、たまに村に降りてきては働いてご飯を食べさせてもらう。「誰にも構わないでほしい」というストリックランドの願いがここで初めて達成されるわけです。「僕」はストリックランドの死後、彼の足跡を追いつつ、このように述懐します。
生まれる場所を間違える人がいるーー私にはそんな気がする。何かの間違いである土地に生まれ落ち、本来生まれるはずだった未知の土地への郷愁を抱き続ける。生まれ故郷では異邦人だ。子供の頃から見知った青葉の茂る小道も、よく遊んだ大通りも、彼には仮の居場所にすぎない。現実にその土地しか知らぬのに、自分とは無縁の土地だと思いつづけ、肉親に囲まれて一生を送ってきたのに、自分は余所者だと感じつづける。その違和感こそ、永遠の何か、わが身を同化させられる何かを求めて、人を広く遠く彷徨わせるのではなかろうか。(330)
解説の松本朗は、モームがタヒチを舞台として使った理由は、「プリミティズム」という、文明に汚されていない南太平洋に住む、本来の人間性を宿した人々の住む地への憧憬が入り混じった思想の一環といえると言います。それはまた「オリエンタリズム」への憧れとも言えると。(411)
ストリックランドはタヒチでも、現地人のアタという女性に惚れ込まれ、一緒に生活を始めます。しかし、アタは他の西洋の女のように、ストリックランドを支配しようともせず、ただ一緒にいて、家事をし、絵を描くのを邪魔しない。ストリックランドはこれに満足し、二人は南の島で自給自足の生活を営み、自由に暮らし始めます。
人はなりたいものではなく、ならざるをえないものになるーーここ〔タヒチ〕の人はたぶんそう思っている。(358)
「僕」はストリックランドと関わった人々と話をするにつれ、そのような感想を抱くようになる。結構ここはずしっときました。「ならざるをえないもの」として、今の自分を受け入れてくれるなら、随分生きるのが楽なんだろうなぁと思う。
個人的にCoccoの「強く儚い者たち」っぽいなあと思ったのが次の言葉ですね。宿屋のおかみさんが言うのですが。
…「イギリスに妻がいるって聞いたのは、そのときだったわね。〝ああ、ストリックランド、男はみんなどこかに奥さんがいるものよ”って言ってやった。だからこそ、みんなこの島に来るんじゃないの”(341)
(ライブverですが、歌詞もついてるのでよかったら)
この曲も、月と6ペンスも、どちらも一様に「南の島」を、あらゆる束縛を解き放つ「楽園」として描き出します。これが解説の方の言う一種のオリエンタリズム、あるいはプリミティズムっていうものに分類されるんでしょうか。南の島へのこういう夢ってあんまり最近モチーフとして使われることもなくなったような印象がありますけど。ある種異境のような、この世のものではないような土地。
宿屋のおかみさんの紹介で知り合った現地の女性・アタとストリックランドが共に住むと決めるときの会話がこのようなものです。
ストリックランドはアタをじっと見ていた。「おれは、きっとおまえを叩くぞ」
「叩いてくれなきゃ、好かれているってどうしてわかるの?」アタが答えた。(341)
ここで男性から女性への暴力はDVとか、SMとか、そういったものではない。なんて呼ぶのかわからないけど、それは愛の交歓といったような、淫らで悦ばしいものとして表出されています。ストリックランドとアタはそのように暮らしていき、じきに家族が増えていきますが、何年か後にストリックランドは癩病に罹り、アタがそれを村の医者に知らせに行く。ここで、それを例えば今までのバチがあたったとか、そういうふうに読み込むのはナンセンスだと思います。彼の業は誰かを裏切ったとか、傷つけたとか、死なせたとか、そういうところではなくて、彼自身である、彼が彼と言う存在だというところにある。そして、彼は彼の存在の本質である絵を描きながら、「生まれるはずだった場所」で世にも醜い姿となって死んでゆく。
そのようにして絵への情熱を燃やして生き抜いたストリックランドですが、しかし「僕」には、ストリックランドの絵の価値は理解できない。それは、ストリックランドがらい病によって目が見えなくなっても、家中の壁を使って描いた大きな絵を目撃しても変わらない。ここは松本朗も、松本正剛も、不可解だとしているところです。
…医師は絵のことを何も知らない。だが、ここの絵は、そんな医師にも強烈に作用してきた。すべての壁に丹念に描かれた描かれている。壁一面、床から天井まで奇妙な構図で埋まっている。言葉では言い表せない脅威と神秘の構図で埋まっている。言葉では言い表せない脅威と神秘の構図に、医師は息を呑んだ。理解できず、分析もできない感情が身体中に満ちてきた。畏れと喜びーー官能的で、情熱的で、途方もない……だが、同時に、身の毛もよだつ何か、人を恐怖のどん底に叩き込む何かがある。これを描いたのは誰だ。自然がひた隠しに隠してきた深みにまで潜り込み、そこに守られていた美しくも残忍な秘密を創り出してきた男が描いた。人に知られること自体が不浄である秘密ーーそれを知った男が描いた。ここには原始の気配、畏れ入るべき何かがある。人間業ではない。医師の心は漠然と黒魔術を思った。壁の絵は美しく、淫らだった。(380)
ストリックランドが命を賭して描き上げた絵はこのように描写されます。
「僕」はストリックランドの絵を初めて見たとき、それを次のように評します。
まず、技法のあまりの拙さーーと私には見えたーーにショックを受けた。過去の巨匠たちのデッサンを見慣れていて、アングルにこそ近年におけるデッサンの達人と思っていた私の目に、ストリックランドのそれはひどく稚拙に映った(もちろん、彼が目指していた単純化のことなど、私は何も知らなかった)。静物画の一枚に、皿に盛ったオレンジの絵があった。皿が丸くなく、オレンジが左右不釣り合いであることが私の神経に障った。肖像画は実物大よりやや大きく、そのせいか不恰好に見えた。まるでカリカチュアのようだと思ったのは、私にとって全く未知の描き方だったからだろうか。風景画にはさらに頭を抱えた。…私の第一印象は、辻馬車の御者が酔っ払って描きなぐったような絵、だ。とにかく、どう考えていいのか途方にくれた。色の使い方も異常なほど荒っぽい。これはとんでもなく大掛かりで理解不能なジョークか、という思いが頭をかすめた。(275)
私も美術のことに関してはあまり詳しくないんですけど。一応モデルらしいゴーギャンの絵を貼っておきます。最近展覧会やってたナビ派の元祖?みたいですね、ゴーギャン。
(「丸くない皿」ってどれだろうと思って探してたら、一応出てきたので)
公式サイトはもう違う展覧会になっちゃってて貼れなかったのでこちらを。何個かブログ見てみたんですが、こちらのサイトさんが写真をあげてくれててわかりやすかったです。美術史上のこともかいつまんでまとめていただけてたので、参考になりました。
最初にぱっと読んだ時、ピカソのキュビズムみたいな感じなのかなあと想像しました。
「単純化」という点では似ているのかもしれないけど、やっぱピカソのほうが垢抜けた感じがしますね、なんとなく。
さて、「僕」がなぜストリックランドの絵の価値を解しない人物として位置づけられているのか。少し考えて見たんですが、モームは、あるいは自分とゴーギャンとのポジションをある程度反映して「月と6ペンス」を書いているのかもしれないですね。松本朗はモームの同性愛嗜好を、作中の「僕」とストリックランドの関係に読めるとしています(416)。もしくは、もっと文学的意図として、彼はストリックランドの絵ではなく、生涯の方を書きたかったのかもしれない。伝記等読めばもっと詳しいことがわかるのかもしれないけど、こういうふうに推察するのも楽しいので。「人間の土地」も読んでみたらもっと何かわかるのかもしれないですね。
「南の島」でアタとストリックランドは恋愛はしていません。アタはストリックランドを多分本当に愛しているんですけど、ストリックランドは彼女と恋に落ちたりはしない。ストリックランドが癩病で、それが伝染病だと医師に診断されると、ストリックランドはアタや他の家族に、自分一人を置いて去れと言いますが、アタはそれを拒みます。個人的にここが結構な山場だと思います。
「ほかの人は出て行きたければ出て行けばいい。でも、あたしは行かない。あんたはあたしの夫で、あたしはあんたの妻だもの。あんたが出て行くなら、裏手の木で首を吊る。神に誓ってそうする」
…(中略)… 「おれといる?なぜだ。パペーテへ戻れ。おまえならすぐに別の白人が見つかる。子供は婆さんが見てくれるだろうし、ティアレも喜んで働かせてくれるだろう」
「あたしの夫、あたしの妻だもの。あんたのいるところに、私も行く」
一瞬、ストリックランドの鉄壁の守りが揺らいだ。両の目に涙が湧き上がり、ゆっくりと頬を伝い落ちた。だが、すぐにいつもの皮肉っぽい笑いが戻った。
「女は馬鹿だ。訳のわからんけだものだ」とクートラ医師に言った。「犬並みに扱って、こっちの腕が痛くなるほど殴りつけても、まだ愛してきやがる」
そして、肩をすくめた。
「ふん、女にも魂があるなどと、キリスト教の愚かしい幻想に過ぎないのに」「あんた、医者に何言ってるの」アタが疑わしそうに尋ねた。「行かないよね」
「お前がいてほしいなら、ここにいてやるぞ、哀れな馬鹿女め」
アタはすとんとストリックランドの前にひざまずき、その足を両腕に抱きしめてキスをした。ストリックランドはかすかに笑って、医師を見た。
「最後にはいいようにやられる。女にかかったらかなわん。茶色いのも白いのも同じだ」
今こんなの出版しようとしたら絶対発禁物だと思うんですけど。これ、通して読むと結構いいシーンなんですよね。初めてストリックランドが人間らしい感情を見せる。アタを未開の島の女として、いいように装置として使っているみたいな批判もわかるんですけど。こういう形の愛みたいなものって今の作品では絶対書けないし、それだけでも「月と6ペンス」は読む価値があると思います。男女の間の推察の他にも、「僕」が思い巡らす当時の社会への批判や警句もなかなか興味深いし、現代とほとんど変わらない感覚で書かれていてすごく読みやすいです。これは訳者さんの力も大きいと思います。会話や比喩に全く違和感がないんですよね。
あと693users もついていて、結構有名かもしれないんですが、ゴーギャンつながりで小野ほりでいさんの漫画も貼っておきます。いい漫画です。
さて、今日はちょっと長くなりました。編集ページが画像のせいかめっちゃ重くて怖いので凍る前に投稿しときます。また明日更新したいと思ってます。ここまで読んでいただきありがとうございました!
「娚(おとこ)の一生」レビュー
原作未読です。あ、一巻だけは読んだかな。逃げ恥の前、のだめの後、ヤマシタトモコと同時期で、大人向けの少女漫画ブームの先駆けだったような。
映画自体の完成度は、60点くらいかな。美術とか、雰囲気とかはすごく良かったです。榮倉奈々も演技が上手くてびっくりしました。豊川悦治は、これはこれで、と考えればいいと思う。監督も特に悪いと思わなかった。脚本というか、映画化に当たってストーリーを編集する人が、ちょっと下手だったのかなあと。
とりあえず事前に文句が出るなと予測できたんじゃないかなって思うのは、展開が急すぎるところですね。海江田の言動に引いてた時点から、夏祭りに一緒に行っただけで、告白OKしてるのが追いついていけない。
それと、やっぱり二時間と言う枠に収めるには物語をなぞるだけに終始してしまうのか、海江田とつぐみのバックボーンがわりと見えづらいですね。海江田にとってつぐみへの恋が、つぐみにとって海江田への恋が、一体どう言う意味をもっているのか、当人の口から語られてはいるんだけど、観客には実感が薄い。
こちらの記事ではその点作者の西さんがはっきりと語っています。漫画では表現されているということでしょう。
>なぜ、難字「娚」にしたのか? 西炯子氏はこれについて「“おとこのいっしょう”という音が先に決まりました。ところが“男”という漢字では、海江田醇だけが主人公に見える。確かに、海江田が、初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をして、やっとひとりの女性に行きつく話ですが、それと同時に、都会で忙しく働き、男のように生きてきた女つぐみの話でもある。ですから、男として生きていかざるを得ない女性の話であり、男と女の話、という意味で“娚の一生”としました」とタイトルに込めた想いを語った。
ここで言われてる、「初恋を忘れられないまま長く生き、一生を終えようとしていたところに再び恋をする」海江田と、「都会で〜男のように生きて来た女つぐみ」というニュアンスが、映画みてるとあんまり伝わってこないんですよね。お互いとの恋愛の意味がうまく際立てられていないために、物語全体がイマイチぴりっとしないものになってきている。個人的にはもうちょっと時間を長くしてもいいんじゃないかと思いました。そもそも一般受けはあまり狙ってないなと思ったし。原作少女マンガだし当然なんですけど、はっきり女性向けな映画ですよね。そもそもそういうのが好きな人なら、30分くらい引き伸ばされても見るんじゃないかな。
一番、あ、これ、本当に女性向けなんだな、って思ったのは、海江田がつぐみの足を舐めるシーンです。
なんていうか、撮り方が海江田中心で、「若い女性の足の指を舐めるおじさんを見る」っていうのが主眼なんだなーって思いました。
そもそも海江田の方が設定が重いし、性格も複雑で、結構人を選ぶタイプですね。つぐみの方は、祖母が染物屋で、自分はIT 会社で働いてたけど、不倫で疲れて仕事を辞めて隠遁生活、っていう設定はあるけど、結構人格的には薄味、に見えます。家庭に問題もないし、料理もうまいし、結構モテるし、何でもそつなくできちゃう。言ってしまえば乙女ゲーの主人公みたいな感じで、ちょっと没個性的な人物でもあります。ゲームでは、プレイヤーが主人公に自己投影しやすいようにそうなっているんですが、こっちも同じような意図があるのかな。
海江田がつぐみに惚れた理由っていうのがよくわからないんですよね。可愛くて、自分を大事にしていないところがあって、料理がうまいから、なのかなあ。反対につぐみが海江田に惚れた理由もよくわからない。序盤はつぐみに共感して、海江田に「何この図々しいオッサン」って思って見てるので、急につぐみが海江田とくっついちゃうために置いてきぼり感が拭えない。
でも、好きになった過程とか、気持ちの揺れ動きを表現できてない? しない?映画ってすごい多いですよね。やっぱりすごく難しい描写なんでしょうか。…それとも単に私が感じ取れていないだけなのかな。
結果的に、つぐみが仕事を辞めておばあちゃんの染物業を継ぐ、って宣言する際に「貯金あるし。なくなったらスーパーでパートでもする」って言ってるのも、ちょっと海江田をアテにした言葉のような気がしちゃって。渡りに舟感が出ちゃってるのがイヤですね。そんな簡単で大丈夫なのかな。個人的にはフリーでWeb系の在宅ワーカーでもやってるのかなと思ってたのでちょっとびっくりしました。
だからタイトルもちょっと活きてこないんですよね。作者が「娚(おとこ)」なんて当て字まで使ってまで表現しようとしたものがわからなくなってる。「一生」なんて思い切った言葉を題名に使っているからには、そこには照準を当てたほうがよかったような。つぐみの一生って、結局、年上のお金もってるオジサンに惚れられてプロポーズされて結婚しちゃうこと? ってなっちゃうんですよね。この映画だと、残念ながら。
あと気になるのが海江田の眼鏡っすね。特にラストの台風で一番のキメシーンの時。あの眼鏡は……なくしてもいいやつなんだろうか。何個もあるんだろうか。あとそれをいっちゃ野暮なんですけど、眼鏡外すとますます見えなくならんのか。。
結構舞台設定も、主人公の年齢も現実的なんだから、そこは「漫画のお約束」にして欲しくなかったような気がします。
総括すると、豊川悦治に白スーツ決めて、もしくは下駄で甚平来てもらって、隣を浴衣や着物で歩きたーい(はぁと)みたいなお嬢さんがた得の映画ですね。個人的には榮倉奈々が可愛くて色気があったので、そのへんももうちょっと頑張って見せてもらいたかったなあ。最初だけやないかい。あんなに年上の男の人(少なくとも絶対自分より先に死ぬでしょ、お金はあっても。介護とかもあるしさ…)とくっつく葛藤とか、もっと見たかったなあと思います。
田舎の古民家で夫婦で暮らす、って同監督の「きいろいゾウ」でもありましたけど、すごくいいですよね。好きですこの設定。リアルでやるとどうしても掃除とか炊事とか大変なんだろうなって思うけど。年季入った木のテーブルが朝日に反射して蜜っぽく光る感じとか、品のいいうつわに和食が盛られてたり、茶色い縁側を裸足で乱暴に歩いたりとか。そういう光景って好きです。若くて旦那さんがいれば、不便も気にしないでいられるだろうなあって思う。
「きいろいゾウ」も見直して、またレビューを書きたいと思います。
今日はこのへんで。ありがとうございました!
殺人を犯す青年たち〜「太陽がいっぱい」パトリシア・ハイスミス
さて、今日は「太陽がいっぱい」の主人公・美しき犯罪者にして、大胆かつ繊細な24歳の青年、トム・リプリーについて書きたいと思います。
映画は見てないです。最近「キャロル」が話題になって、女性同士の恋愛って珍しいなあという感想を抱いてたくらいです。作家本人が同性愛者だとは知りませんでした。最近出た文庫のカバーが綺麗で思わず手に取ったという、なんとも軟派な理由です。
単刀直入にいえば、「太陽がいっぱい」すごく面白かったです。なぜ面白いのか。それは、主人公であるトム・リプリーの魅力に尽きるのではないか。原題が〝The Talented Tom Repley”なのも頷ける話だと感じます。
物語は 400ページ近くを延々とトムの行動、考え、感情の揺れ動きを辿るのみです。視点の変遷も、大きな場面の転換もなく、どちらかというと一本調子な書き方をされているといっていいのではないでしょうか。それでも読者の心をつかんで離さず、ぐいぐい読み進てしまう魅力がある。これはやっぱりトム・リプリーの人間としてのリアルさが、大きな推進力になっていると感じます。
このリプリー青年を描ききるパトリシア・ハイスミスもまた、talentedですね。いくつか候補があったようですが、このタイトルにしたのは作家自身の誇示もあったのではないかな。こんなtalentedな主人公を描けるハイスミスもtalentedだぞ、そこんとこよく覚えておいてね! みたいな感じがします、なんとなく。
本書の解説やGoogle先生の検索によれば、有名な映画版とはかなり話の筋が違っているようです。二回映画化され、そのどちらも結末が原作と違うというのは結構珍しいんじゃないでしょうか。
主人公はトム・リプリーはニューヨークで、たちの悪い仲間とつるみながら、税務署からの手紙を捏造して小銭を稼いだりと、詐欺師として生活していました。そんなある日、彼は昔の友人の父親・グリーンリーフから、資金援助はするから、息子をイタリアから連れ戻してくれないかと頼まれる。渡りに舟、これで今までのくだらない生活から脱出できる、と胸躍らせたトムは、一も二もなくその頼みを引き受けます。豪華客船に乗ってはるばるイタリアに渡ったトムと無事再会を遂げたディッキー・グリーンリーフは、父親からの送金で裕福な生活を送っていました。偶然背格好も顔も自分と瓜二つであるディッキーに、トムは次第に心を惹かれるようになるがーー。
トムはしばしば、「太陽がいっぱい」の評論において「同性愛者(的)」と形容されていますが、作中ではそれほどはっきりと書かれていません。ただ、自分の体の色の白さを異様に気にしたり、ディッキーのガールフレンドであるマージと並んで座る際、「(生理的嫌悪を催すために)腿と腿が触れ合わないように気をつけた」という書かれ方をしてあったりして、あ、ちょっと普通と違うかな、って感じはします。
昔のアメリカは特にマッチョ的価値観が強いと読んだことがありますので、こういった心理描写そのものが、「=ゲイ」っていう指標? 表現? になるのかもしれないですね。現代日本の価値観だと、まあそういう男性もいるかな、って思ってしまいますけれど。
トムの性格のなかで顕著なのは、芸術や美術を愛好する気持ちと、今までの自分の生活にはもううんざり、もうこんな野蛮な暮らしは送りたくない、という嫌悪です。彼はもっと素晴らしい場所で、繊細で教養豊かな青年として生きることを望みます。
新たな人生が始まっていた。この三年間ニューヨークで付き合っていた連中、付き合ってやっていた二流の連中とは、おさらばだ。移民が祖国に何もかも残し、船でアメリカに向かったときは、こんな気持ちだっただろう。過去の汚点は清算された! ディッキーとの間に何が起こっても、トムは自分の役をうまく演じるつもりだったし、ミスター・グリーンリーフはそれをわかってくれ、彼に感謝するだろう。ミスター・グリーンリーフの金を使い果たしても、アメリカには戻らないかもしれない。たとえば、やりがいのあるホテルの仕事につくかもしれない。ホテルでは、英語ができて、機転のきく、感じの良い人間を欲しがっている。どこかヨーロッパの会社のセールスマンになり、世界を股にかけるのもいい。また、ちょうど彼のような若者を欲しがっている人が現れるかもしれない。トムは車の運転もできるし、計算も速いし、年老いたおばあちゃんも退屈させないし、お嬢さんをダンスにエスコートすることだってできる。彼は万能で、世界は広い! 職に就いたら、こつこつとやるつもりだった。根気と忍耐! 上へ、前へ! (50)
「彼は万能で」ーー、確かにトム・リプリーはとても万能です。なんというか、持ち前の頭の良さで、あらゆる可能性を考え、他人の目に自分がどう映るかをどこまでも計算して、仕草ひとつ、目配せひとつまで神経を行き渡らせる。それは少し過剰なほど微に入り細を穿つために、しばしば神経過敏の状態になってソファに倒れ込むほどです。
彼は作中で殺人を二度、未遂を一度犯しますが、その瞬間はひどく激情的であるのに、その直後、摩耗した神経と、事の重大さに打ちのめされた脳みそを無理やりフル回転させ、あらゆる隠蔽工作とその方法を考え出します。そのギャップが読んでいてどこかユーモラスな感じすら覚えます。彼の頭の回転の良さ、用意周到さは読んでいるこちらが思わず舌を巻くほどです。いろんなパターンを想定し、客観的に先を読もうとする読者ですらついていけないことがしばしばある。充足感、隅の隅まで行き届くその想定に、まず無理だろう数式がすいすい解かれていくような、そんな快感すら覚えてしまいます。
トムは、いわゆる「冷血」な殺人犯でもありません。例えば、彼の演技力は、臆病で繊細な観察眼と、自分に対する人々の評価への敏感さに由来します。また、彼は自分で考え出したシチュエーションを何度も練習し、その自己暗示から「あたかも本当にそうだったかのような気がする」とまで感じます。彼は自分の考えに「酔い」、おそらく感性の敏感さゆえに「支配され」たようにもなる。このあたりが、トム・リプリーの殺人計画を、危うげで、それゆえに魅力的に見せています。
トムは(それがはっきりと恋情とも、友情の延長とも明言はされていませんが)、ディッキーとマージが男女の仲になる場面を想像して不愉快になります。それで、自分とサイズも同じディッキーの服を着て、鏡の前でディッキーになりきり、ベッドの上でマージを拒むディッキーの様子を演じてみせる。その後帰って着たディッキーにそれを見られ、ホモではないのかと直接問われることになります。
「ぼくの服だ。脱いでもらおう」ディッキーが言った。
トムは脱ぎ始めたが、屈辱とショックで指がうまく動かなかった。これまでディッキーは自分の服を、これを着ろ、あれを着ろといつも言ってくれていたのだ。もう二度とそんなことは言わないだろう。
ディッキーはトムの足元を見つめた。「靴もか? 頭がおかしいんじゃないか?」
「いや」トムはスーツを吊しながら、冷静さを取り戻そうとして、「マージとは仲直りしたのかい?」と訊いた。
「ぼくらはうまく行っているさ」ディッキーはおまえには関係ないというようにぴしゃりと言った。「もうひとつ話しておきたいことがある、はっきりと」彼はトムをじっと見つめて言った。「ぼくはホモじゃない。きみがどう思っているかは知らないが」
「ホモだって?」トムはかすかに微笑した。「きみがホモだなんて考えたこともない」
「でも、マージはきみはそうだと思ってるよ」
「どうして?」顔から血の気が引いていくのがわかった。…「どうして彼女はそんなことを? ぼくがなにをしたって言うんだ?」目まいがした。こんなふうに、はっきりと言われたのははじめてだった。
…「ディッキー、このことをはっきりとさせておきたい」とトムが切り出した。「ぼくだってホモじゃない。誰にもそんなふうには思われたくないね」
「まあいいよ」とディッキーが不機嫌に言った。
…まあいいよ! いずれにしても、誰がこんなことを問題にしているのだろう? ディッキーだ。口にするのはためらわれたが、心のなかでは、言いたいことが混乱しながら渦まいていた。辛辣な言葉や、相手の気持ちをほぐす言葉、感謝の言葉や敵意をむきだしにした言葉が。彼はニューヨークで付き合っていたあるグループのことを思い出していた。付き合ってはいたが、結局は全員と絶交してしまい、今では付き合っていたことを後悔していた。楽しませていてやったから、彼らも面倒をみてくれていたわけで、誰ともなんの関係もなかった! ふたりに言い寄られたが、きっぱりはねつけたーーただたしかに、あとで仲直りしようと、酒に氷を入れてやったり、タクシーで遠回りして送ってやったりしたこともあったが、それは彼らに嫌われることをおそれたからだ。じつに馬鹿だった! それからまた、ヴィック・シモンズに、「頼むから、トミー、そんな話はやめてくれよ!」と言われた恥ずかしい瞬間も覚えていた。ヴィックが居合わせた席で、たぶん、連中相手に三度か四度、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもわからないんだよ。だから、どっちも諦めようかと思っている」と言ったのだ。みんなが精神分析医に通っていたので、彼も通っているふりをして、パーティーではいつも、医者とのやりとりをおもしろおかしく話して、みんなを楽しませていた。男も女も諦めてしまったという話をすれば、かならずみんな笑ってくれた。…実をいうと、あのなかには真実もけっこうあったのだ。世間の人間とくらべれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない、とトムは思っていた。ディッキーとこういうことになったのは皮肉な結果だった。(111ー113)
個人の性嗜好をとやかくいうのは野暮なことだとは思いますが、ここにはトムの人付き合いに対する基本的姿勢が見え隠れしています。トムは自分の本心を隠し、他人の感情を優先し、その襞に分け入ることを率先して行います。やはり人とは少し異なる、敏感な青年であるがゆえなのでしょう。自分の本心をちらっと見え隠れさせることすら意図的であり、しかもそれは道化としての任務を全うした後に、気づかれないようにこっそりと行われます。
ディッキーが自分に徐々に冷たくなっていき、資金も残り乏しくなってきたトムは、ディッキーを殺して彼に成り替わり、外国に移り住みながらグリーンリーフ家からの送金を受け取って暮らしていくという未来を思い描きます。
二人で旅行に出かけた際、ディッキーがトムの発案通りボートに乗り、沖にまで出てしまったことで、その計画は実行されます。トムはオールでディッキーを幾度も殴りつけて殺し、衣服や指輪・時計をすべて剥ぎ取って自分の身につけたのち、重しをつけて死体を海の底に沈めます。
元々は友情以上の感情を抱いていた相手に対してあまりに非道な行為ではある印象を受けますが、この場合、「冷血さ」とか、「ホモの嫉妬」とか、そういう言葉では収められないものがあります。追い詰められ、他に方法がなく、正しく生きてゆきたいけれど他に方法もなく、誰とも心を通い合わせられない青年の孤独さ。結局のところ多くの人間は彼にとっては彼の孤独を癒しえず、本心に迫る付き合いをしてくれていないのだから、先日まで友人であったところで、全くの他人であったところで、彼にとってはほとんど同じことです。ハイスミスの手腕は、こうしたトムの心理を臨場感豊かに描写し、読者にその心情をすっと理解させるところにあります。
トムはディッキーの家に戻り、ディッキーの帰りを待つマージをなんとかかわしながら、荷造りをし、いくつかの偽装工作を済ませてひとりでパリへ旅行に出かけます。彼はしばらくの間ディッキーの服を着、ディッキーの仕草をし、ディッキーの表情を浮かべ、ディッキーの筆跡でサインをし、ディッキーの父親からの送金で贅沢なホテルに泊まります。そのときトムは非常に満ち足りて、幸福です。彼は自分が何よりも夢見ていた、裕福で、育ちが良く、教養豊かで、繊細な青年になりきります。しまいには「トムに戻るのは嫌だ」と考え、ディッキーとして生きていきたいと思うようになります。
すごく…異常者です、みたいな感じはするのですが、トムにとってそれは、自分が正の方向に生きるための、命を賭した一縷の望みです。知らず知らずのうちに読者もそれに肩入れするようになります。都合の悪い起きたり、うっかりトムが自分とディッキーの名前を言い間違えたりするたび、私たちは「気づかないでくれ、気にとめないでくれ」と、他の登場人物たちの無知を、鈍感を心から願ってしまいます。トムがディッキーを殺害する理由は、確かに同性愛者だと思われたことで、彼が冷たくなってしまったことが原因ではありますが、それと、トムがディッキーとして生きる理由はまったく別物だと考えられます。ディッキーのような立場の青年として生き、本当に自分が望んでいた生活を手に入れたいという願いが、彼をディッキー殺人の完璧な隠蔽工作へと駆り立てます。トムにとってディッキーとは変奏としての自分であり、ある種パラレルワールドの自分の姿だったのでしょう。
…シチリアの次はギリシャだ。ギリシャはどうしても見たかった。ディッキーの金を懐にいれ、ディッキーの服を着て、ディッキーのように見知らぬ人間にふるまい、ディッキー・グリーンリーフとしてギリシャを見物したかった。…殺人を犯したくはなかった。やむをえなかったのだ。アメリカ人観光客トム・リプリーとしてギリシャへ行き、アクロポリスを歩きまわるのには、何の魅力もなかった。むしろ行きたくなかった。大聖堂の鐘楼を歩いていると、目に涙が込み上げてきた。彼はその場を離れ、別の通りを歩いた。(248)
…トーマス・リプリーには戻りたくなかったし、取り柄のない人間でいるのも嫌だった。また昔の習慣に逆戻りしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰もでもちょっとずつ愛想を振りまく以外、自分は何もできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。 (262)
…これから、自分は内気でおとなしい取るに足らぬ男トム・リプリーとして、あの古代の英雄たちの島々、ギリシャへ出かけるのだ。二千余ドルの銀行預金は徐々に減っていた。そのため、ギリシャ美術の本を買うときにも、実際二度ためらった。それは我慢ならぬことだった。(281)
実際トムは、画家を目指しているディッキーの絵を見て、「せめて彼にもう少し才能があればよかったのに」と判じる程度に芸術への造詣があります。マギーのあまりに無神経で無教養な様子、女性らしい無遠慮さや厚かましさには生理的嫌悪を示します。育ちのいい善良な人々に気に入られ、彼らを騙し抜くには、彼らと同じレベルのものを感じ、言動をし、それ以上に操らなくてはならない。これは単なる小悪党には不可能なことです。ヨーロッパを周遊し、不労所得を得ながら、様々な芸術に触れ、絵を描き本を読む。これがトムの夢であり、それが成就するのか、それともそのたぐいまれな〝talent”が、単なる殺人犯として刑務所の中に潰えるのかは、物語に大きな緊迫感を与えます。トムの一挙手一投足を、他の登場人物の一挙手一投足を、読者はそれぞれ息を呑みながら見守る他ありません。
個人的に、ラストシーンは大変な白眉です。全てが「終わった」ことを察したトムが見上げるギリシャの美しい白日。太陽の眩しい光が周囲に満ち、砂浜は白く輝き、大気は乾いている。それが手に取るように伝わってくる描写。「太陽がいっぱい」という邦訳は間違いなくセンスに満ちており、そのタイトルがラストシーンの情景と結びつき、物語の結実とともに、その出入り口がしっくりと結ばれます。
余談ですが、頭の良い神経質な青年が殺人を犯し、その隠蔽工作に物語中を駆け回るーーといえば、何が思い浮かぶでしょうか。私は性癖的(?)に、そういう主人公がすごくぐっときてしまうんですけど、紛れもなくこれは「罪と罰」が挙げられるでしょう。ラスコーリニコフの神経質さ、確かに他人よりも頭も良く、感性豊かで、純真であるがゆえに、やむにやまれず人を殺す。ハイスミスは「罪と罰」を愛読していたと書いており、どこか彼の残り香が感じられるトムに対して納得がいきました。ちなみに私は昔懐かしいデスノートの夜神月も大好きです…。彼もまた、ラスコーリニコフを下敷きにして描かれた人物であるといえると思います。
<関連リンク>
「太陽がいっぱい」には続刊があり、4巻目である「リプリーをまねた少年」(The Boy Who Followed Ripley)には、文字どおりリプリーをまねる少年が出てくるということで、すごい読んでみたいなって感じです。ちらっと店頭で見たんですけど、帯がなんかやばかったような…。と思ってググりました。
《トム・リプリー・シリーズ》第四作。犯罪者にして自由人であるトムを慕うフランク少年とトムの危険な関係は、「父親殺し」を軸に急展開をする。犯罪が結んだ、男と少年の危険な関係を描く!
(リプリーをまねた少年 :パトリシア・ハイスミス,柿沼 瑛子|河出書房新社)
やばくないですか…?「父親殺し」ってかなり好きなテーマなので、ちょっとこれは個人的に要チェック案件です。はあ、またひとつどツボな本を見つけてしまった。嬉しいようなしんどいような変な気持ち…。
さて、今日はこのへんで失礼したいと思います。
また明日お会いしましょう!