井上荒野『切羽へ』感想
(2008年 第139回直木賞受賞作)
読みました。
ずっと「せっぱ」だと思って読み進めてたんだけど、「きりは」って読むんですね。切羽詰まる、の切羽ですよね。意味は同じなのかな。
解説が山田詠美さんで、昔好きだったのでそれもあって読みました。
でも、「切羽」の解釈がちょっと私が思ったのと違ってました。
作中で説明されるんですけど、トンネルを掘っていく一番先の部分、を切羽というらしい。私はトンネルは片思いのことなのかなって思った。思いが届いてしまったら開通して、トンネルは完成してしまう。でも、掘り進めていく、つまり、向こう側に届くまでの過程にあるもの、過程にしかないもの、を切羽って表現しているのかなあと。有り体に言えば切なさだとか孤独だとか、そういうものなのかも。「トンネルを掘ってる途中の、どこにも行き着かない状態の場所」という意味だから、完璧につながらないとか、融合しえない、とか、そういう哀しみ、切なさのようなニュアンスなのかなって。
でも、解説はちょっと違うように思った。ぼわりと書かれてるけど、ちょっと違う角度の解釈のように感じました。
この本のレビューには、「大人の」とか「官能的」とかそういう文字が踊っている。ヒロインも、ヒロイン(セイ)の女友達(月江)も、しずかさんという古馴染みのおばあちゃんも、実際会ったら、みんな色気を纏っているひとだと思う。語り手であるセイは、感受性が強くて、ふいに感じたことや、何かについてもの思うときの表現や言葉がありふれていない。無垢というのとはちょっと違うような気がするんだけど……詩的な感性の、センシティブな女性なのかなというのは伝わってくる。自分のことを、「弱々しいぶんだけ狡賢い小さな動物みたい」と感じてみるところとかね。
ぱっと見た印象として、なんだか靄がかっているかんじがある。こういうヒロインの視点だからなのかもしれない。それとも、解説でも指摘されている、井上荒野さんの「書くことより書かないことを大事にしている(あえて書かないことで匂わす?)」という特徴ゆえかもしれない。そのふたつは入り混じってるのかも。その感性がそういう文体を選んだというのか。
正直に書けば、自分にはちょっと合わないところがあった。素晴らしい小説、といえないような。それを突き詰めていくと、女性の本性は女性なのか、という個人的な疑問につながる。つまり、女性は産まれた時から女性なのか。性的に見られて、女性に成るのか。これは男に置き換えたっていい。男は産まれたときから男か。女性から男とみられて男となるのか。
この小説のムードとして、常に男性の存在を意識して生きてる女性というのがある。これは、ヒロインの立場ーー生まれ故郷の小さい島で、夫と仲睦まじく暮らしながら、保険教諭として勤めている小学校の新任教師(石和)に惹かれるーーからも来ていると思う。小さな離れ小島、狭い世界で、夫に身も心も愛されながら、違う男を好きになる、という…非常に「女」を意識するような環境。
セイの感性はおもしろいと思う。表現もきれいと思う。でも、違和感があった。こんなどっぷり頭から香水を被ったみたいに、ひとって「女」かなあ、みたいな。ジェンダーとかフェミニストとかそういうわけじゃなくて、素朴に、人間って、男と女の部分って誰しも持っている気がするんですよね。「男性らしい」とか「女性らしい」って、性別の「男」「女」からきているんじゃなくて、感性というか、考え方というか、状態のような気がする。そうじゃないと説明できないことって多い。男の人がみんな、勇ましいわけでも、自立しているわけでもないし、女性が全員、優しいとか、おとなしいとかいうわけでもない。四六時中女の人も、男の人も、いないんじゃないかな。
そういう意味で、この小説の世界観の「どっぷり女」感は入り込めなかったふしがあった。
でも、この「女」視点ならではの光っているところもある。
石和への形容が独特で面白かった。優しくて物静かな夫と、ぶっきらぼうで何を考えているのかわからない石和。穏やかで静かな自分の生活に現れた、異物としての存在、「何こいつ」っていう感じの「男」を、沁み沁みとした目で、自分なりに感じ取っている(感じ取ろうとしている)ところが、よかった。その視点で進むから、読者も、読んで識っていくというよりは、匂いを嗅ぐように、石和を推測していくところがある。石和がついた嘘の意味も、理由も明かされない。外観をなぞっていく、外縁をなぞっていくというか。なんとなく、島民たちが、遠巻きに石和や月江さんを見守っていく感じとかぶる。だから、この話を読むスタンスとしては、島民のひとりになる、というのが近いかもしれない。干渉もしなければ、指図もせず、ただ眺めている。船が波に揺られるのをみているような感覚。
あと、やっぱ独特な気がするところについても書いてみる。人妻が夫以外の男に惹かれていく話ってよくあるけど、でも、それって夫への不満とか、飽きとかが引き金になることが多い気がする。凡庸な生活に刺激を求めて、とか。でもこの小説は、そういう節でもなさそうで不思議な感じがした。動機がぼんやりしているのに、進んでしまう。
夫への不満などなにひとつないのに、それどころか非常に愛されて、満ち足りて、幸せで毀れそうな印象すらあるのに、石和のことが放って置けない。最初「贅沢な話だなあ」と思ってみてたけど、途中から、これは報われないのだろうと悟った。だから、贅沢というよりは、単に無益な行為だな、と思うようになった。
石和は明らかに好きになっちゃいけない人感がある。あきらかに破裂するだけの恋だと感じる。というか、恋心、とちゃんといえるのかも少し不明なところがある。解説では「熱烈に愛し合う男女」と言ってるけれど、石和からセイにも、セイから石和へも、そういうニュアンスにはおさまらない不完全な思慕を感じた。恋とも執着とも違う何か。もしかしたら情(じょう)に近いのかもしれない。地面の下を流れる水のような。
また、石和と同じくらい、夫の描写にもページが割かれる。彼も寡黙といっていいくらい自分の気持ちを口に出さない人間で、その性格を読み取るのも難しい。セイを心から愛しているということはわかる。セイと繋がり合ってはいるということも。けれど、夫がいなくなれば自分は孤独だ、とセイが泣く部分もあり、満たしえぬ欠落を感じ取っている。夫はそれに対して表面上は戸惑うだけで、特に何のリアクションもせず、ただひたすら海のようにセイを包み込む。終盤石和とセイが二人きりでいるところに出くわしもするが、そこでも、直接的なセイへのリアクションはない。(ただ、気づいていないはずはないだろうと思う。)夫が静かすぎて、霧がかかった向こうのように、彼の心の動きがなんとも読み取れない部分はある。ただ、なんでも「隠そう」というのが井上荒野さんの書き方ならば、この夫がもっとも小説の核心にあるような感じもする。
なので、セイの本当の相手というのは、石和というより、夫ではないかと思ったりする。
(5/6 書き直しました)
『高い城の男』 P.K.ディック 感想
頑張って一週間くらいで読みました。読みましたけど。
論点というか、主眼はどこなのか混交している印象が強い。ぼやけている。
ヒトラーとかユダヤ人のことなのか、易経のことなのか、政局のことなのか、戦勝国と敗戦国間の人種的軋轢のことなのか、謎めいた小説・パラレルワールドについてなのか、絶対悪のようなものについてなのか。ディックが書きたかったのは、たぶんその全てが犇めく、混沌とした世界観、なんだろうけど。
この作品は、何かこう、作品全体がひとつの大きなまとまりをもって、確変を起こしていくんじゃないと思う。
ひとつひとつの事件は確かに絡み合い、ユダヤ人であるとか、易経であるとか、危うげな要素が、それぞれの人物の視点に顔を出している。でも起こるのは、ばらばらな小事件に近い気がする、予告に始まって予告に終わるというか。
易経と、あとは、『イナゴ身重く横たわる』ていう「小説」が支柱になっている。『イナゴ〜』は、この作品の世界、第二次世界大戦でアメリカ側が負けて、日本・ドイツが勝利している世界で出版された、もしアメリカ側が勝利していたら、という設定に基づいた詳細な小説。『高い城の男』は、この現実世界のパラレルワールドなわけだけど、さらなるパラレルワールド(現実世界)が、語られる。そういう構造になっている。
題名の『高い城の男』というのは、その小説の作者が、政府からの摘発を恐れて住んでいるとされる城。たとえば、そこに棲む、半ば狂った預言者のような、異界者のような男との対面がクライマックスなのかーーというと違う。それを期待して読んでたんだけど。案外普通の人のような作者から、その「イナゴ〜」は、易経を元に書かれたという簡単な説明がなされるだけ。
多分易経が味噌なんだと思う。でも、易経が生きているか死んでいるかといえば、多分死んでいる。易経は予言とか託宣とか、そういうものらしい。登場人物たちは結構盲目的にその易経を信頼していて、その託宣は謎めいてはいるけれど外れることはない。登場人物は生きて動くけど、易経は動かない。人格も感情ももちろんない。そこに何だか少し「あれ?」感があった。
「こちらの世界は間違った世界だ〜」みたいな文章が出てくる。絶対真理を指す易経にしたがって書かれたのが「イナゴ〜」だとしたら、それに反した『高い城の男』の世界はたぶん間違った世界ということなんだろう。
この小説の《テーマ》は一体なんなんだろう。小説全体で訴えかけられていることは、なくて、パーツで訴えかけられていることがあるような感じ。でも、なにか一方向に向かって進んでいく感じ、何かと何かを区別して分離させたいような潮の流れはあった。小説をめくり直して考えてみると、それは、私の言葉でいえば、「嘘と本当」だろうか。古美術商と贋作品。偽りの身分と実際の立場。建前と本音。あるべき世界と間違った世界。本当の歴史と、間違った歴史。
『ヴァリス』のほうが作品としてはわかりよかった気もする。書いてあること自体は、狂人が書いた聖典のウェイトが多いし、視点が分裂するから意味わからないし、プロットも暴走気味だったりするけど、でもテーマ性はストレートではあると思う。
高い城の男はそのほかの設定を練って作り込みすぎた分、主題のピュアさじゃなくて、煩雑さ、読みづらさが出てしまった気もする…かも。
でも、ディックの小説はいっつも出だしがいい。初っ端の一文でどきっとして惹きつけられてしまう。生活描写がいいというか。精神病患者の女性遍歴でも、第二次世界大戦でアメリカが負けた世界で、日本人向けのアメリカの古物品を売っている店主でも、バウンティーハンターでも。始まり方が、精巧で魅惑的な世界が広がっている感じ、匂い立ってる感じがある。広大な世界設定とか、全知全能の存在とかがディック作品のテーマになってるけど、私は、むしろ生々しい心理描写とか、微細な表現とか、人物や生活のえがきだし方に惹かれる。『高い城の男』でも、政治高官の田上や企業代表役のバイネスより、小市民のジュリアナやフリンクが好きだ。それと、田上やバイネスのシーンの訳文の読みづらさは結構すごいと思う。原文がどうなってるか分からないけど、二行の文章で四字熟語が四個くらい出てきたりする。難しい敬語を使う場面が多いせいなんだろうな。
このへんで終わります。お読みいただきありがとうございました。
最近、読書メーターをまめにつけてます。よかったらよろしくお願いします。
「ナイトクローラー」ゆる感
ナイトクローラー:★★☆☆☆:
ダン・ギルロイ監督 ジェイク・ギレンホール主演/米
インディペンデンツ・スピリット賞 脚本賞・新人作品賞受賞
見ました。
最初は高卒の与太者が天職見つけて成功するサクセスストーリーなのかと思ったけどちょっと違いました。じわじわと主人公のパーソナリティがわかって来て怖い。
アシスタントの男の子が徹頭徹尾不憫。悪いことしてないのに…。
ポスター改めて見て、「人の破滅の瞬間に現れる」が基本コンセプトなら、もっとその面を如実に押し出していっても良かったのではなかろうか。破滅の瞬間を撮っていく、というよりは、人に教えられたとおり、集目性のある事件や事故の写真を追い求めていくことに焦点が当てられていたような…。
もっと死神のような不吉なイメージを出したほうが、個人的には好みだった。
基本的に主人公無双な感じのお話。でも、あの人は寝ちゃいけなかったと思う…。
「アンタの人格は最低だけど、腕だけは確かよ」みたいなスタンスでうまく付き合っていけなかったものか。最初のサバサバ女上司感がよかったんだけどな。最後にはすっかり主人公に陶酔しちゃって、「彼がみんなを成長させたの」って言っちゃうのもなんかな〜って思った。
なんというか、普段悪役側がやっていることを主人公の人がやって、因果応報でもなく、成り上がっていくみたいな感じ。王道を裏返したのが受けたんでしょうか。アカデミー賞ノミネート作品らしいし。
ちょっとぐぐったら、前田有一さん?のブログでは、
・エスカレートするテレビ局の視聴率至上主義への批判
・ブラック時代の成功マニュアル
の二要素、特に後者が受けたのではないかと書かれていて。起業して一攫千金を夢見る人には結構響く映画だった模様。
[…中略]
そこにこの映画のもっとも優れた問題提起がある。サイコパスでなければ成功できない、そんな世の中を作り上げてしまった私たちへの、これは痛烈な批判である。
ルイスの行動力や抜け目なさは本当に格好よいので、思わず共感してしまうところがまた恐ろしい。明らかに人間的に間違っているルイスは、現代では目指すべき成功者の資質を誰よりも持っているというわけだ。
はたしてこれをみても、気軽に若者たちに起業しろといえるのかどうか。起業とはここまで覚悟し、大切なものを捨て去る覚悟がないとうまくいかないよと、この映画は言っている。そしてそれは、私が思う限り間違っていない。
私はあまりピンとこなかったかな。でも、退屈しないで最後まで観れたので良かったです。展開にはあまり納得いかなかったし、取り立ててよい映画とも思えなかったけど。
マイク・ギレンホールはいろんなところで褒められてるみたいなので、機会があったらちがう映画も見たいです。
『骨を彩る』彩瀬まる 感想
読みました。
:★★★★★:
今やってるAmazon Kindleの幻冬舎文庫セールで324円で買いました。あ、でも、Kindle版は解説がない(最後まで読んで知った)というがっかりポイントがあります。。解説だけ図書館とかで読むなりでいいって方はぜひぜひ。
凄い良かったです。文章力のある作家だなあって思いました。
台詞回しも自然でわざとらしくない。「主婦」「夫」「子供」みたいなラベルの上からキャラクターを作るんじゃなくて、括弧に収まりきらないような感情とか、計算とか、生き辛さを焦点にして書かれています。
最近「少女」を記号で書いてる作品多いですね。アニメとかならそれでいいけど、小説としては、もっと生々しい生き物として読みたいなと、わたしは思う。
「美少女」じゃない、ただの「少女」が生きてるところがみたいなと。
オムニバスなのかな、以前の話にちらっと出てきた人が主人公になっていきます。ひとりひとり生きづらさを抱えていて、その瑕疵が描かれる。
全体的に読み味がきれいで、読みやすいと思います。共感できるかどうかが鍵なのかな。作者は女性の、片親の方なのかなってちょっと思いました。
何気ない比喩や表現がすごくいいです。 高校生の女の子が、初めて告白された男の子のことを「水の味をたしかめるように」、嫌いではない、と思うとか。男性視点で、ラブホに一緒に行った彼女のことを「温かい体を光らせている女」と書くとか。
特に《古生代のバームロール》と《やわらかい骨》では、女子間の、どうにもやむにやまれない奇妙な感じ、緊張感がそこはかとな〜〜く出てる。女子の残酷さとか、弱さとか、カーストにちょっと馴染めないんだよなって感じとか。表面はまあ普通のやりとりだったり、言葉だったり、間柄だったりするんだけど、背後には一瞬即発で居心地が悪い、そのわりには容易く消えそうな関係があることとか。
「少女」が可愛いとか、清楚とか、そういう記号じゃなくて、「生きる」って生々しさにぶち込まれて、悩んだり、混乱したり、傷ついたりしている。はしたないほど弱かったり、ずるいくらい生きぎたなかったり、どんくさかったり、聡かったりする。
《ばらばら》では、語り手である女性は、少女時代、義父に対して「お父さんのふりしないで」と言うことで、「義父の一番もろくて弱い部分を踏みしだいている気分」になり、「よく研いだ短剣が柔らかい肉にめり込む手応えを感じた」ことを思い出す。彼女は、同性に対して「百合の花の匂いに似たどことない生臭さ」を感じる。先に露天風呂に入っていた女性にその匂いを感じなかったことから、その人は男性なのかもしれない(ニューハーフ?)と思う。
読んでいて、微妙な感情、感覚、視点のこまさみたいなのが生々しくていい。こう、登場人物たちと膚まで一緒になった感じ、膚まで共有してる感じが味わえます。
この作家さんは、何か、誰か、ある特定の感情やそれを抱いた人たちを救うために書いてる気がする。「普通じゃない」っていう感情かな。
どの話も丁寧に作られて、綺麗でした。表紙絵の雰囲気がよく合ってます。
『南極料理人』感想
『南極料理人』(2009)
監督・脚本:沖田修一 原作:西村淳 主演:堺雅人
評価:★★★☆☆
Amazonプライムビデオでみました。
最初のシーンの「中国文化研究会」っていう幕と麻雀やってるところだけ前見たことがあって。大学のやる気ないサークルがなんやかんやで北極目指す話なのかな…って思ってたら全然違ってました。部屋自体が北極にありました。。
おじさんたちのわちゃわちゃを愛でる映画。思春期の女の子なら「きっも」て思って終わりそうな感じのありのままさ。。
くすっとくるところがたくさんあり、ゆるいんだけどすごい計算されて撮られているのかなと思います。ビデオを見ながらの体操が、最初はヨッタヨタだったのがシャキッとしていくところが面白かった。あとは伊勢エビフライを食べるときに、みんなが同時にでっかい伊勢海老の頭を皿からどけるとことか。南極の節を祝って(名前忘れた)、みんなで正装してまでフレンチを食べるところとか。
映画自体はほとんど内容がないんだけどよくわからない緊張感があって、不思議な感じ。ドラマっぽい喧嘩とか友情とか成長とかそういうのがないのがいいのかもしれない。まあ…オッサン同士だしな…みたいな。肩の力が抜けてるのがいい感じ。
個人的には豊原功補さんの白衣+眼鏡が色っぽくて素敵でした。ドクター役似合うね…。生瀬勝久さんも若々しくて格好よかった。この人のツッコミは笑えてしまう。堺雅人もあどけない感じで、にこにこ笑って可愛かった。
以下雑感。
・バターまるかじりは怖いよ。ホラーだよ。
・何故か母親と娘が可愛いと思えなかった…。どっちもなんか苦手な感じ。
・ラーメン食べれてよかったねえぇ。若干自業自得なのもゆるふわおじさんだと許せてしまうのはなぜ…。ずるい。
・人間って生まれたからにはなにはなくとも生きていかなきゃいけないし、だとするとなにはなくとも食べなきゃいけなくて、だとするとなにはなくとも料理って必要。「食べ物をつくる」(料理人)っていう、人間全部をふわっと包み込むようなポジションが、主人公の空気とよく合っていました。
追記
今回からカテゴリに「ゆる感」(ゆるい感想)枠を設けてみました。がっつり考察はいらない、映画とか本とかについてはここに書いて行こうかなと思います。
前は目標高すぎて放置しちゃってたので、3日に一度くらいで何らかの感想や分析を続けていきたいです。
アンナ・カヴァン『氷』感想
読了しました。
薄い本だし、訳も自然でつっかえるところもなかった。
難しいようでいて単純な話なんだろうなと思う。
こういう話を読むときに、何かと何かがイコールだとか分析して、関係図とか、一覧表を作ろうとしたがる人がいる。たとえば芥川龍之介の『トロッコ』が不安の現れ、とか、メタファを=とか記号でつなごうとする。受験勉強や授業みたいに、わかりやすくまとめるときには便利だし、とっかかりやすくはなるのかもしれない。でも、すべてそういう図式で済んでしまうのであれば、何も小説って形にする必要ってないなってわたしは思う。図式で表せないものを書くために小説があるし、単純化によって作者の本当の気持ちみたいなものが、指の隙間からこぼれ落ちてしまう感じがする。そう考えると、読書って丹念に気持ちや心をなぞっていくことなのかもしれない。作者の心の、生のままの迷宮を、読みほどいて再現していくことかもしれない。
『氷』はそういう小説だ。だから、これを単なる図式に還元するのは少し違う気がする。
設定はわりと荒唐無稽である。
語り手である「わたし」と、「わたし」と奇妙な一体性を持つ「長官」、そして彼らから暴力を振るわれる「少女」がいる。「わたし」は「少女」を自分の一部と考え、愛しい彼女を追って氷に侵食されつつある世界を探し回る。その世界は核兵器と氷によって滅亡に瀕し、人々は絶望を抱えている。
「少女」は幼児期の母親からの虐待によって、自分を被害者だと見なし、暴力に対し常に怯えと恐れを抱えている。この世界は奇妙にも「わたし」の心と呼応しては離れる。氷の世界は「少女」を脅かし、「わたし」を責めさいなみ、その住民を暴力と死に閉じ込めていく。
「わたし」と「長官」はどちらも少女を求め、支配し、そして痛めつける。「彼女」を支配し虐めることは、「わたし」に薄暗い快感をもたらす。「わたし」は少女を狂おしく求めており、絶えずその美しさ、儚さを讃えるが、同時に彼女を殺すのは自分だけに許されていると考えている。
「氷の世界」とは、「少女」を苛む「長官」や「わたし」のメタファでもあるようだし、「少女」を自分の一部と思う「わたし」の、絶望しきった心象風景にもみえるし、また、ただの理不尽な超常現象であるようにも読める。確定的なことは最後まで示されない。
読んでいるうちに、なんとなく「長官」はより暴力的な「わたし」なのかもしれない、と思う。ふたりはときに分裂し、対面し対立しながら、支流の川が交わるように混ざっていく。それでは「少女」は、「わたし」の被虐的な部分、痛めつけられ、傷つき、すべてを恐れ、世界には絶望という答えしか存在しないような「わたし」だろうか。あるいはそうかもしれない。そうとも読める。そうでないとも、読める。ただそうした解釈を指向するように作品は流れている。
『氷』は錯綜している。組み入った入れ子構造というか、意味と意味が明確に区分されていない。ひとつの表式がひとつを飲み込んだり、支配されたり、囚われたりする。それを示す文章をいくつか見つけた。
外の世界の非現実性は、わたし自身の乱れた心の状態を延長したように思えてくる。
この世界の冷酷さは、少女の臆病さと脆弱さが誘発しているように思われた。
少女の内にある何かが、彼女を犠牲者にすることを要求する。今ではもう[彼女とわたしの]どちらが犠牲者なのか判然としない。多分互いが互いの犠牲者なのだろう。
『氷』には相矛盾する文章が多々あるのに、意外なほどに読みやすい。文章の平易さもあるのだろうが、視点や時間軸、場面を唐突に転換するのなら、難解と感じられてもおかしくない。けれどすらすらと読める。それはなぜか。登場人物や世界の構造が非常にシンプルだからだ。追いかけるもの、逃げるもの、攻撃するもの、傷つけられるもの。病んだ人間の心のなかの、シンプルな構造がそのまま反映されている。
冒頭で、わたしが「難しいようで単純な話」と書いたのはそういうわけだ。
そのシンプルな構造は、シンプルだからこそ、読者の心の構造と呼応する。
絶望に閉じた冷めた世界と、楽園としてのインドリ。その狭間で、少女と抱き合い世界の終末を見届けることを選ぶ「わたし」。単に無味乾燥な記号でくくるのではなくて、この世界の力ない民の一人になり、心細く彷徨うのが、この本にふさわしい読まれ方だと思う。
この版の序文として、クリストファー・プリーストという人の評が訳されている。この人は「スリップストリーム文学」として『氷』を紹介する。「スリップストリーム文学」とは、“本質的に定義不能な概念”であり、“あらゆるカテゴリーづけの外にある精神の一つの状態、あるいは特殊なアプローチ”というふうに説明される。 “読者の内に「異質性」の感覚を誘発”し、“歪んだ鏡に映ったものを見てしまうような、見慣れた光景や事物をいつもとは違う角度から眺めたような感覚”を誘発する。そして、“スリップストリームは、科学(とその所産)を無意識の領域に、メタファ、エモーション、シンボルの領域にシフトさせる”。
言葉にすると難しいが、こう、現実に関するカウンターというか、現実を小説の中で作者が「私物化」してしまうような、そういう作品をさすんじゃないかと感じる。『氷』は特にそういう形式に沿うものの気がする。
もっとそういう作品を読みたい。それは小説のなかでしかできないことだし、わたしにとっては、だからこそ小説を読む意味がある。現実には、わたしなんかが受け止めきれないことが多すぎる。
2017見た映画・本一覧
覚えている範囲で書いていこうかと。。
映画
- ムーンライズ・キングダム(ウェス・アンダ―ソン、米)2012
- ミザリー(ロブ・ライナー、スティーブン・キング、米)1990
- トゥルーマン・ショー (ピーター・ウィアー、米)1998
- シャイニング(スタンリー・キューブリック、英)1980
- 悪魔のいけにえ(トピー・フーパー、米) 1974
- 天才スピヴェット(ジャン・ピエール・ジュネ、仏)2014
- 時計じかけのオレンジ(スタンリー・キューブリック、英)1971
- アメリ(ジャン・ピエール・ジュネ、仏)2001
- ジャッジ 裁かれる判事(デヴィット・トプキン、米)2014
- アンフレンデッド(レヴァン・ガブリアーゼ、米)2016
- わたしはロランス(グザヴィエ・ドラン、仏・加)2013
- ばしゃうまさんとビッグマウス(吉田恵輔、日)2013
- 味園ユニヴァース(山下敦弘、日)2015
- この世界の片隅に(片渕須直・こうのふみよ、日)2016
- 桐島、部活やめるってよ(吉田大八・朝井リョウ、日)2012
- ラ・ラ・ランド(デイミアン・チャゼル、米)2016
- サガンー悲しみよ、こんにちはー(ディアーヌ・キュリス、仏)2008
- 東京ゴッドファーザーズ(今敏、日)2003
- リリーのすべて(トム・フーパー、米)2015
- ふがいない僕は空を見た(タナダユキ・窪美澄、日)2012
- ムーンライト(バリー・ジェンキンス、米)2017
- 作家、本当のJ.T.リロイ(ジェフ・フォイヤージーク、米)2016
- ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ (マイケル・グランデージ、米)2016
- 苦役列車(山下敦弘、日)2012 ※記事あり
- メアリと魔女の花(米林宏昌、日)2017 ※記事あり
- 静かなる情熱 エミリー・ディキンスン(シンシア・ニクソン、米)2017
- 娚の一生(廣木隆一、日)2014 ※記事あり
- 怪盗グルーの月泥棒 (クリス・ルノー、米)2010 ※記事あり
- かいじゅうたちのいるところ(スパイク・ジョーンズ、米)2009
- 告白(中島哲也、日)2010 ※記事あり
- ブロークバック・マウンテン(アン・リー、米)2005
- SEVEN(デヴィッド・フィンチャー、米)1995 ※記事あり
- マイ・ブルーベリー・ナイツ(ウォン・カーウァイ、香中仏)2007
- リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二、日)2016 ※記事あり
- キャロル(トッド・ヘインズ、米)2015
- バードマン(あるいは無知がよたらす予期せぬ奇跡)(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、米)2014
- ニューイヤーズ・イブ(ゲイリー・マーシャル、米)2011
- メイドインアビス [アニメ] (小島正幸、つくしあきひと、日)2017
本
- 灯台へ ヴァージニア・ウルフ ※記事あり
- 劇場 又吉直樹
- 瓦礫の天使たちーベンヤミンから映画の『見果てぬ夢』へー ※記事あり
- 太陽がいっぱい パトリアシア・ハイスミス ※記事あり
- アメリカの友人 〃
- 贋作 〃
- 月と6ペンス モーム ※記事あり
- 地下街の人びと ジャック・ケルアック ※記事あり
- まなざしの記憶 鷲田清一・植田正治
- 木島日記 大塚英志
- ヴァリス P.K.ディック
- ...
こんな感じでしょうか。
特に本は上京したばっかりで、狭い部屋から逃げ出して、カフェや図書館や喫茶店でずっと読んでた時期に稼いだ感があります。映画は年初映画好きの人と付き合ってたので結構見たな…。思い出が溢れ出ますね、やっぱり。。
今年はNETFLIXも契約したし、家も引っ越したし、この倍くらいは伸ばしたいところです。