にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

『すばる』2017年11月号感想走り書き(第41回すばる文学賞受賞作品+佳作感想)

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読みました。うーん。。どっちも微妙でした。賞ごとの傾向はあるんでしょうが、完成度においても文章のレベルにおいても『蛇沼』(新潮新人賞)『青が破れる』(文芸賞)のほうがよかったと思います。 

(それぞれの感想ページはこちら↓)

 

 
山岡ミヤ『交点』第41回すばる文学賞受賞

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内容は、つらい。ひたすらつらい。ずっと気になるのは文章の違和感。語り手の女性のキャラの印象と地の文がマッチしていない。そこに詩人であるという作者の顔が透けている。「『ぺちっと・ぴえ・あぷれ』と英語で書かれた袋の〜」というところは英語じゃなくてアルファベットのとすべきだろうと思ったし、他にもいろいろとはみ出しているところがある。「ペール・ブルー」という言い方にも違和感がある。この子はペール・ブルーなんて言葉がすらっと出てきそうではない。東直子の小説の処女作を読んだときもそうだったが、詩人の方が小説を書くと一人称の視点にわりと粗があって甘い。

あと季節が冬というのに最後まで馴染めなかった。小説世界とあってないという気がする。夏のほうが良い気がした。そっちの方が自分の血液の脈動も、土の中の冷たさも、冷蔵庫で働くというカムオのエピソードも、体感的に映えるだろう。臭いについての描写が多いので、それも夏の方が自然な効果があったと思う。

好きな男と結婚するためだけに子供をつくった母親とその娘。「受け入れてしまう」ということの底のなさ、業、理不尽さ、恐ろしさ、宿命、というのがひしひしと身に迫る。母親の語り口が生々しすぎて強烈で、彼女だけが邪悪な力にもとづいて小説の中で活きている感じがする。彼女は家庭だけでなくこの小説を担い、支配している。その恐ろしい力はありありと描かれている。

このヒロインとだいぶ似ている女の子を知っているので、読んでいて本当につらかった。田舎の閉塞感と毒母のダブルパンチはきつい。終わりもない。親が死ぬまで。それまでこの子は、薄ぼんやりした闇にぽつんと蛍より弱い光を浮かべて居て、ずっと独身かあんまり心が通い合わない男性と一緒になるかするんだろう。。。

内容にとかく救いがなくて、救いがないこと自体がテーマというか、作品世界が暗示していることで、だから、読んだ!いい小説だね!とは私には言えない。この絶望的な世界を小説で提示するにはまだ文章が未熟な感じがある。ちがうテーマでもうちょっと文章を小説になじませて書いてみてほしい。

 

兎束まいこ『遊ぶ幽霊』(佳作)

うーん。。いや漱石好きなんだろうな…って思った。あとは長野まゆみとか。でも話に起伏がないし、内容は浅くてだいぶだらだらしていると思った。弟が女性的に描かれすぎていて、これを一般文芸で出すならせめて妹の設定にしてほしかった。ただ作者はそう言うの好きな人なんだと思う。読んでいて百年とか吾輩は猫であるとか明け透けすぎじゃないか。婀娜っぽいとか、果敢ないとか使いたいだけなんじゃないの? って気がしてきてしまう。PixivにこれよりうまいニアBL耽美純文学風の小説を書く人はたくさんいることを知ってしまっているので、これが佳作かあ、ってなっちゃった。

出だしは良かったので期待した。あと蟹男のくだりはちょっと面白かった。ここから面白くなるかなあ、でもちょっと遅いな、って思った。獣男とか、埃で時間の歪みを描くとかも、ほうほうと思ったけど、『百年泥』の奇想には質量ともに遠く及ばない。どっちかといえばこの作品は純文というよりはラノベ寄りのものなのかもしれない。ビブリア古書堂の事件簿とか。だとすると私の好みとは路線が違うなあ、でも、この人の本を読むなら、長野まゆみを読むよなあ。これから次第かな、という感じでした。

大江健三郎『個人的な体験』『狩猟で暮した我らの先祖』『人生の親戚』『鳥』

 

最近わりと大江健三郎を読んでいました。個人的な感想メモを書き留めておきたいと思います。

個人的な体験(第11回新潮文学賞受賞作)

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大江健三郎の作品は彼独自の哲学や思索のシュミレーションというか、あるひとつの実験的な世界という側面が強い。こう、ある種研究室的というか、ラボというか、一つの舞台セットの上で、意に反した要素のものを埃ひとつも残さず排除し、構成要素を組み立てていく、ちょっと不健康的な感じの小説空間だと、個人的には感じる。その中で『個人的な体験』は小説として、読んだなかで一番面白かった。火見子の人物造形が好きだ。他にもデルチェフさん、オカマになっていた菊比古、堕胎医もキャラが立っていて、生き生きとしている。生身の人間のような現実感がある。血の通った感じがする。大江健三郎の小説の登場人物は、その語り口のある種のぎこちなさからなのか、どこまでも著作者・大江健三郎(メタ主人公)の傀儡というか、操作されているパペット…という印象が否めない。そこが(あるいは若さゆえか)打ち壊され、個性溢れる登場人物も、懊悩する主人公も、生きた新鮮さがある。終わり方も、それまでの鬱屈した自嘲・自罰・逃避というムードから想像出来ないほど晴れやかで、カタルシスがある。当時議論が巻き起こったというふたつのアスタリスク以降も、私は良いと感じた。

火見子の語る「多次元の自分」というのは、そのまま大江健三郎の作品群の特徴となっている。『人生の親戚』でも同様の趣旨が、同じく女性(まり子さん)の口から語られる。

逃避ゆえに強い酒を飲んで酔い潰れ、失敗を犯す、というのは『狩猟で暮した我らの先祖』に出てくる。

障害をおった実子、というテーマはいわずもがな。

 

狩猟で暮した我らの先祖

これは…正直あまり良いと思わなかった。読んでいて「山の人」「流浪する一家」に生理的な嫌悪が先立ってしまった。大江健三郎は、障害児や狂人など、正常でない存在、排除される存在をこれでもかというほど、その醜さや愚かさまでも貫いて描き、なにがしかの真理、尊厳、神性、のようなものを表現しようとしているのは、分かる。それでも、「流浪する一家」は露悪的な部分が多く立ちすぎた気がする。それに、終わり方もまた、途中で一度露出してきた直感を疑問に変えて投げかけているだけで、カタルシスがあまりない。今は一般市民のなかでは追放される存在へと変わってしまった「父祖」、「山の民」、原始の存在と、それに惹かれる自分を描く。この主人公も、あまり共感出来なかった。何しろ障害のある息子の世話をすべて妻に丸投げしているように読めてしまう(自分も精神薬やお酒などを飲んでいるから、苦しんでるんだろうな、というのは暗にわかるが結局逃避の一貫に見える)。「流浪する一家」に心惹かれ、ついていきたいとすら思いながら、自分の不在時に子供をさらわれ傷つけられる事件が起こり、結局擁護も憎みもできず、宙ぶらりんの位置に留まる、というのは。赤裸々な自分のあり方を綴ったというふうにも読めるが、うーん、モヤモヤするだけだった。

 

人生の親戚(第1回伊藤整文学賞受賞作)

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これは結構よかった。今回読んだ他の作品に較べて顕著だったのは、テープ音声や映像、あるいは手紙など、「資料」の情報を継ぎ合わせて、編集し、あとから主人公がそれを横断して書いているような、リポートみたいな書き方を採用しているということ。なんでだろうと考えてみると、読者にとってもこの小説を体験的なものにしたい、という意図があってのことだろうか、という気がする。フランシス・オコナーや聖書、バルザック等、作品の主要部に存在するサブテキスト群は、積み重ね、という印象がある。かさばった重たい歴史の産物。この作品はこの作品だけで完結するのではなく、様々な、千々な、歴史が生み出したものものの総体、その一欠片から、ようやく成り立つ、こもごもを孕んで立っている、といいたげのような。

まり子さんは火見子さんよりもさらに聖女めく、というか、はっきりと聖女的なものになっている。主人公は火見子と同様、まり子さんからもセクシャルな誘いを受けるのだが、もう老境に達しているため、『個人的な体験』のように受けて立ち、幾日もかけてそれに興ずるということはなく、あっさりと断っている。

ラストはさっぱりとしてカタルシスが得られる、と言うわけにはいかない。『狩猟で暮した我らの先祖』と同様、懊悩と自分への問いかけのなかで、煮え切らぬ閉じた終わりを迎えている。だけれど、『我らの〜』ほどのモヤモヤを感じないのは、テーマがさらに圧倒的だからなのかもしれない。もしくは、無宗教の日本人に共通の虚無感というか、ある感覚を指しているから、自分も共感しやすいのか。

作中でへえ、と思ったのは、教団に入ったまり子さんが、性欲を持て余し悩む女性信者に対して演説するシーン。

マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちには当てはまりません。(118)

これって本当なのだろうか。そうだとしたら、女性の禁欲を謳う現在の(欧米圏の)倫理がどこからきたのか気になる。

また、少女時代のまり子さんが間一髪で助かったという「落雷」というモチーフが面白い。これは『海辺のカフカ』にも出てきた。主人公の少年の父親が、雷にうたれて死んだ、その確率について、希少性について、思索をめぐらしている場面がある。雷というのは日本語では「神鳴り」で、神性と結び付けられて考えられていたけれど、キリスト教ではどういう意味あいになるのだろう。『海辺のカフカ』の父子像は「マクベス」を下敷きにしているらしいから、キリスト教的な意味あいの落雷だったのか。など個人的に愉しめた。フランシス・オコナーもまた掘り下げ甲斐があるのだろう。

また、フリーダ・カーロという人を初めて知った。あまりに凄絶な生き様すぎて、まり子さんが作中で、フリーダ・カーロと較べて自分は中途半端だと嘆くところがあるのだが、いやそこまでしなくてもいいのでは、、と思ってしまった。

(作中で言及されるのはこの絵:『ヘンリー・フォード病院』)

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主人公の呼び名が往々にしてバードという点でも、大江健三郎作品のなかで鳥というのは重要な位置をしめているのだろう。この作品は珍しくショートショートで、大江健三郎アルター・エゴともいえる主人公は(表面上)登場してこないし、バードと呼ばれているということもない。大学を辞めて自宅に引きこもっている青年の、鳥の妄想についての話だ。ちょっと星新一とか世にも奇妙みたいな皮肉っぽさがあって、現代的で好きだ。話のムードも、なんていうか、すごく直球で、社会とか共同体とかセックスとかの長編の廻りくどさがなくて良い。新鮮な大江健三郎。それと、大量の鳥群、というので、ちょっとヒッチコックの『鳥』を思い出した。デュ・モーリアと言う人の短編が元なんですよね。それも読みたいなあ。

 

(※『個人的な体験』以外は『日本文学全集』で読了) 

 

『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ 感想

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読みました。

 

なんか、すごーーくモヤモヤしました。これはダンサー・イン・ザ・ダークを見た時の感想に似てる。

レビューを見るとみんな褒めてるのも似てる。

 

まず、ストーナーにはもっとやれることもやるべきことも、あると思った。

周囲を幸せにする努力をしていないと思う。

小説の文章は綺麗だし、表現は美麗だし、雰囲気は静謐だけど、でも、内容にどうしても納得がいかない。「自分には何もできない」と言う前に、まずはどう見たって精神に異常をきたしてる妻を、なぜ精神病院に連れてかないの?  自分で心理学の本を読んで見たりしないの?

彼はすべてを受け入れ過ぎていると思う。それを諦観の妙味とか、あるいは老境の美学とか、弱い男の悲哀とかいう人もいるのかもしれないけど。

時代柄精神病に対する知識も乏しかったのかもしれないし、ましてや毒親なんていう考え方も、なかったのだと思う。親子間の虐待についての『魂の殺人』を描いたアリス・ミラーも、最初の著作を発表したのは1978年だという(wikipedia)。第一次世界大戦第二次世界大戦後を舞台としたこの小説には、遅すぎる。すれ違いのように、ストーナーは逝ってしまった。

けれど、それにしたって。

ストーナーは妻になるイーディスと初めて深く話したときに、「彼女は救いを求めている」と感じ、そこにも惹きつけられている。なのに、結婚以後、ストーナーは妻の異常性に飲み込まれ、また文学への探求心、大学教授の雑務などに追い立てられ、「救おう」と思ったことなんかあっという間に消え去ってしまったように読める。ストーナーは妻が自分や娘を前にして三人称で話しはじめても、娘に明らかに、娘の自我を損なう干渉をしていても、自分の書斎を勝手に妻のアトリエや物置として使われても、妻を怒りも叱りもしない。「君にとって結婚生活は失敗だったと思うけれど」と「優しく」宥和し、自分の失望や落胆を棚にあげ、直接生身の体や心でぶつかることを、試みたことも一度もない。

娘にはせめて救いを与えてあげてほしかった。娘は幼児期はストーナーに世話され、精神的にも安定した幼年期を送っていたが、イーディスが突如、娘への無関心から過干渉へと子育ての姿勢を切り替え、彼女を「女らしく」「社交的に」させようと、おそろしいほどの過干渉を行った。その後も度重なる、母から娘へのある意味で「典型的な」精神的な搾取によって、娘盛りには、自分が家を出るか一人暮らしをするかという問いに対し、「どうだっていいの」と言う言葉をつぶやくだけになってしまう。

 

 

ストーナーは娘が…その言葉どおり、絶望に寄り添いながら、幸せに近い生活を行っていることを受け入れた。この先も、年々少しずつ酒量を増しながら、穏やかな気持ちでがらんどうの人生に沈み込んでいくことだろう。父親として、少なくともグレースがその道にたどり着いたことを喜び、娘が酒を飲めると言う事実をことほいだ。

 

この話は祖母〜母〜娘の三世代に渡る毒親の悲劇の典型例として見ることができる。ここまで主人公が何もしないのに、ここまで克明に、はっきりと、三世代の女たちが自我を損ない、精神を病み、「がらんどうの人生」を生きていることが描かれるのも珍しい。ジョン・ウィリアムズはどこまでそれを意図していたのかはわからないが、これ以上ないほど克明に、はっきりと、鋭利に、女たちの心の状態、精神の荒涼さが刻まれている。

 その意味での記録は優れたもの、といえなくもない。けれど、そういう角度でこの小説を見ている書評が、目に着く限りほとんどないのがすごく気になった。

 

 

ストーナー

ストーナー

 

 

 

読んで、訳して、語り合う。 都甲幸治対談集

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読みました。おもしろかったです。

喋ってる内容は結構難しいことなんだけど、話し言葉だからするっと読めて、わかりやすいです。

作家さんとか思想家?さんの対談ならよくあるけど、翻訳者さんの視点からの対談って初めて読みました。海外文学を中心に、現在の世界的な文学の潮流…とか、村上春樹作品の意味…とかが話題にあがっています。

柴田元幸さんなら、多少本を読む人なら大体知ってるんじゃないでしょうか。2000年代の翻訳本の、少なくとも三分の一はこの人が訳している気がする。。都甲さんは、この柴田元幸さんのゼミ生(教え子)だったらしいです。小野正嗣さんとの対談で、都甲さんはよく出来る学生だった、みたいな裏話が交わされています。

 

村上春樹作品の分析が(主に『1Q84』、『海辺のカフカ』、『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』)多くウェイトを占めているので(紹介や表紙には書いてないのですが)ハルキストは必読の本じゃないかなと思います。

私は『海辺のカフカ』はとても好きです。それに、父殺しとか、そういうテーマに関心があって、惹かれる小説にもそういうエッセンスがあるものが多い。だから『海辺のカフカ』や「父権」について話されているところが興味深かったし、楽しめました。

「父」「王」「神」という大きな概念の連なりであるとか。村上作品における「父」の不在であるとか。文学史における「父」の扱いの変化であるとか。そういうテーマが刺激的だし面白かった。

 

それと、好感をもてたというか、シンパシーを感じたのが、まえがきの、都甲さんによる各対談を貫いて流れているものについての記述。

本書を読み返してみると、話題は不思議なほど少数のテーマを巡っていることに気づく。自分の置かれた立場に安住しないこと、境界を越えること、そして辛い立場の人に寄り添うこと。経歴も年代も性別も違う語り手が、同じことを大切に考えているのに驚いてしまう。

「辛い立場の人に寄り添う」「立場に安住しない」、「境界を越える」というのは、どれも誰かへと手をのばす、という行為が根底にある。やさしさを伴わない理屈はどれも間違いだと思う。だから、ここを読んだだけで、いい内容だろうなと思ったし、実際いい内容でした。

また、星野智幸さんとの対談では「マイノリティ」について深く掘り下げられていました。(題名も「世界とマイノリティ」)

ざっくりいうと、マイノリティ側に一度立った人間と、そうでない人間とは「認識の形」がまったく違う。自分以外の人たちが共有している前提に対して、苦痛や齟齬をおぼえた人たちが詩や小説のかたちにしたものこそを「文学」と呼ぶ。星野さんはそういう自分の文学観を語っています。

都甲さんも、アメリカの大学院へ留学していたとき、自分がマイノリティであると感じ、辛い感情を覚えていた、ということを話しています。

文学を読むということは、「やさしさ」である、ということが、ざっくりいうと話されている。人の傷への考慮である。個人的には、救いがあって、こういうことを考えてやってる人がたくさんいるなら、日本の文学界もなかなか捨てたものじゃないなあとか、思いました。

読書初心者の方にも読みやすい。現在の世界的な文学シーン、文学の傾向を掘り下げたいという上級者の方も読み応えがある、ハルキストの方にも、英語や翻訳に興味があるという方でも楽しいと思う。万人におすすめできる本でした。

 

 

 

 

 

 

 

町屋良平『青が破れる』〜第53回文藝賞受賞作 感想

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 (文藝2016 冬号誌上で読みました)

 

 

 「気持ちのよい違和感」

 

口語と文語、漢字とひらがな、文学と会話が入り混じってくる文章が新鮮だった。所々詩のような、所々コントのような。形式張ったなにかを描こうとしていない。とことん感覚的で。あまりかっちり小説とか読まないけれど、言葉に対してすごく敏感なかんじが伝わってきた。
ボクサーと文学、というのは結構相容れない処にあるんじゃないかと思う。そのはじまりからして違和感があって面白かった。
流れる青のような雰囲気だ。
このスタイルの文章が評価されるのは、イマっぽいと思う。評価もそうだし、それ以前に、生まれてくるのは、というか。最果タヒとか、「時代につながる」感覚の文体みたいだ。
もちろん文体だけではだめで、形式だけではだめで。かわいたまま、欠けたまま寄り集まって、散会する。癒やし合うとかじゃなく、表層を舐めて、どうしようもなくなってやっぱ終わり、でも続く。そういう感じの水流がある。

流れる青、水みたいな文体に、ごつごつっと氷のように違和感がころがっている。それが読んでいて快かった。
男性新人作家によって書かれた鬱屈した男たちの話、という点では、新潮新人賞を受賞した『蛇沼』とすこし似ている。だが、『蛇沼』が淀み沈み、穢れきった重たい泥水の話だとすれば、『青が破れる』は氷を孕んだ流水のような流麗さ、透明感がある。作家の資質や書くものの選択の話であって、決して優劣や好悪の話じゃない。その差はとても面白い。

 

hlowr4.hatenablog.com

 

作者の町屋氏自身がこの「違和感」を自分の作品の長所であり、印象というか、特色というか、持ち味と捉えているとわかるのが、話のラスト付近に再登場する陽というキャラクター。
この陽の性別や個性について、作者は唐突に、しかし氷のように透徹に違和感をつけくわえる。最初はただの少年として出てきた陽は、この場面においてはまるで結晶のように純粋で「果てしなく甘えられる恋人みたい」な存在に変貌(かわ)る。

町屋氏は、意図的に違和感を周到に使いこなし、配置し、ことば遣いを精査し、自分の作品を書いていっている。それが顕著な文章を少し引用してみる。

あいたいなら、あいにいけばいい。でももうそれは、「おれの夏澄さんへの恋情」ではなかった。あいにいったら、それはおれの欲情であり、夏澄さんの孤独であり、それは情熱を装うけれど、しんじつは空しい。シャワーを浴びてジムにへいった。(26)

怒りというおれのよくしっていることばと概念と感情は、おれのよくしってるやつとじつはちがうものだろうか? とう子さんが危篤になったり、とう子さんが生還したり、そういう奇跡をくりかえすうちに、ふへん的な感情やきもちの交換の基礎みたいなものが一枚一枚剥がされて、一秒ずつはじめましてをいうような、きもちの探りあいをいま、あらためてしているのだろうか。(31)

唐突にひらかれる漢字の数々がわかる。「しんじつ」、「よくしってるやつとじつはちがう」、「ふへん」、「くりかえす」「あらためて」。読者がすらっとこれに目を透したときに覚えるのは「違和感」だし、「立ち止まる」感覚でもある。詩を読んでいる気持ちにも近いと思う。この漢字のひらき方が『青が破れる』の独特の読み味につながっている。文字の(物理的な)密度という点でも、意味のひらきという点でも、随所に光が入っているような感覚を私は覚える。ステンドグラスのように、採光する働きというか。もしくは、漢字で書かれるより、なんとなく透徹した概念といった印象。
無論なんの思惟もない濫用は避けたいところだ。「やさしさ」とかは特に陳腐になりやすいと思う。大事なのは、意図と選択だろう。

また、とう子さんが「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」(28)と歓声を上げるシーンなどは、全文がひらがなだ。
このセリフがひらがなで書かれる意味とはなんだろうか。
ひらがなに開かれることで、日本語の文字は「意味」から「ひびき」に変わるのではないだろうか。英語だと表音文字だから、「音を読む」という感覚が比較的平易なのだろうが、漢字の場合表意文字なので、「意味を読む」(どちらかといえば)「解読する」という感覚となる。
「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」からは、本当に少し遠くへと、大きな声で、宛てもなく発された歓声を聞くような、そういう臨場感が伝わる。「聞く」というのは「読む」よりもっと即物的というか、生々しい体験だ。それによって、小説世界がリアルに周囲に立ち上がっている感じが強められている。
従来に比べ、より感覚的な日本語の書かれ方といえるのかもしれない。

 

講評のなかで、斎藤美奈子氏は、『青が破れる』を「難病モノ」という括りに入れてしまったせいで、構えて評価できない部分があった、と書いていた。
難病モノ。たしかに、難病の女性(とう子)が出てくるから、難病モノなのかもしれない。ただ、その悲劇性を必要以上に強調したり、死期に至るまでの道筋を克明に描いたり、「いっしょに海を見ようね…」みたいなセリフはない。その点で、これは流行っていた「難病モノ」とは一線を引く作品なんじゃないかと思う。どちらかといえば、とう子の難病は、ある種予定調和というか、生から逃げを打った安穏、という角度から描かれるところがある。物語の主眼は「闘病」ではなく、主人公がボクサーであるように、「闘争」(生・自分への)、あるいは「難病」という理不尽に巻き込まれ、抵抗できなくなった周囲の人々のほうにあるように見える。斉藤氏がいうのは、物語に「難病」というエッセンスを入れること自体を、避ける(あるいは避けたい)ということなのだろうか、と疑問が湧いた。

 

 

〜一言まとめ〜

個人的にはすごくいいなと思いました。比喩が本当にあるような、とか、なるべく自分のことばで、という作者の執筆上の注意にも共感できた。今後注目していきたい作家の一人だと思います!

石井遊佳『百年泥』(第49回新潮新人文学賞・第158回芥川賞受賞作)感想

 

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(新潮2017.11月号誌上で読みました)

 

※ネタバレ注意


最近の芥川賞って、こういう、ちょっとべらんめい感ある女性の一人称小説が好きな気がする。絲井秋子さんとか村田沙也加さんとか。
正直そこまで良い小説とは思わなかった。「わたしのインドで日本語教師体験記+ちょっと小説」、みたいな感じがした。
ラストの盛り上がりがあんまりなかった。主人公の語り口も、設定のぶっ飛び具合もあんまり面白いと思えなかった。
夢オチで済んじゃってもいいような、そんな話だから、主人公と現実との関わりが切迫してこない感じがした。
ファンタジックというには即物的で、ガチャガチャというわりには、ちょっと乙女チック。私だったら、どっちかを削るかなあ。混沌としていて、溶け合う、引き立てあう、って感じじゃないかも。違う要素をぶち込むっていうのは面白いと思うけど。

雑誌掲載ページ数でいうと、80〜101ページぐらいの、中盤がいちばん面白かった。
人魚姫みたいな何も喋らないお母さんと、「2本の脚」がわりになって生活していた少女時代。
お父さんと借金の取り立てに行ったときに、花畑の真ん中で花まみれで横たわって、カモフラージュしていた変なお客さん。
こういうファンタジックで、童話っぽいかわいい要素は好きだった。そのあまーい感じと、『インド』『泥』ってモチーフ、あるいはちょっと粗暴な感じの語り口が、うまく横並びになってなくて、どちらかが逸脱している感じがした。

「長くのびるものを、わたしは好まない」って文章がある。それで、「けだし、この世でいちばん長くのびるものは子宮である」って文章がある。んん、これはけっこう惹かれた。ただ、巧く活きてる、活用されてるなって感じなくて、勿体無かった。自分の母娘関係とか、インドにおける親子観とか、そういうものから派生して書かれた文章かもしれないけど、もっとつながる、訴えかけるモノがあってもよかったのかな。
あと、アナザーの世界というか、自分が選択しなかった行動や、場所や、時間の過ごし方、体験というものについて、気になってしまう、っていうのも、感受性としては魅惑的。

結構落語調というか、受け狙いというか、オチをつけるような語り口なんだけど、過去の思い出とかを話すときには、ふわっと変わって、ややもすれば美文調みたいな文体になったりする。印象的ではあるし、美文調は綺麗で好きだけど、乗ってる電車ががたぴしがたぴし揺れて落ち着かないような感じを受けてしまった。

タミル語が洪水が起きた朝に全部理解できるようになっている、インド人は交通混雑の回避のために翼をつけて飛ぶようになっている、大阪府との親交策によって、仏像と招き猫をトレードしている、日本語学校の美男子の生徒に見つめられて髪が焦げる。


「不可解」なこと、さして意味もないように見える奇跡がとかくたくさん、説明もなく起きる。そこに馴染めるか?面白がれるか?というのが、この小説を楽しめるかの分かれ目かも。

佐藤厚志『蛇沼』(第49回新潮新人文学賞受賞作品)感想

※ネタバレ注意

 

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 (新潮2017年11月号)

 

ドロドロした憎悪、疑念、暴力、嫌悪が沼底に溜まった泥のように渦巻いている。

主人公恭二がセイコや雷魚、祖父茂夫に向ける愛情?はちょっと意外なくらい純粋。

一枚岩なヒーローとかダークヒーローではなく、鬱屈しつつも良い処も悪いところもほの見えて、リアルな人物造形となっている。

家族をはじめ、周囲に対する軽蔑と憎悪を、時折暴力というかたちで発散している。家族に反抗し、突っ張った仲間とつるんでいるが、童心の傷を癒せぬまま、幼くして死んだセイコのことを長い間忘れられないでいる。

恭二が生まれ育った農村では、暴力以外の解答がない。物語もそういうふうに完結していく。罪びとがスッキリと裁かれることはなく、ただ復讐という名まえで惨殺されるのみ。

「真っ暗な山々は降り注ぐ雨と音をことごとく吸収してじっと静まっていた。」が最後の文。

沼や魚、蛙の卵、悪臭、生ゴミ、泥といった、「汚いもの」がたくさん描かれる。暴力や虐待が横行する舞台・平町の在り方かつ、恭二のこころの在り方といえるかもしれない。

 

解答が「暴力」であり、暴力でしかない、というのは、この作品の根底のテーマになっていると思う。

最後に復讐を渇望していた犯人が殺されても、恭二の胸に浮かぶのは、恐怖であり、憎悪であり、怒りである。『蛇沼』では、力が強いものが絶対で、親子間、雇い主と外国人労働者間の虐待はほぼ普遍のもの、社会の法則みたいなものとして描かれている。恭二もまた、違和感というか、憎悪を感じてはいるものの、その枠組みに組み込まれ、通行人や浮浪者にはなんの理由もなく暴力を振るう。それは正義とか悪とかいう俎上のものではなく、もっと生々しい、鬱憤晴らしの延長というのが近い。暴力しかないし、知らないのだ。

 

作者の佐藤厚志はインタビューの中で、恭二と、セイコの兄で知的障害のあるカツヒコの関わりについて話している。恭二がセイコ(死者)からカツヒコ(生者)のほうへとシフトしつつあるのならいい、と。

確かに、カツヒコと恭二の関わりは作品のなかで異色な感じがある。作中で恭二が誰かの前で心を許すとか、安らがせるとか、そういうシーンはほぼない。誰かの前で、憎悪や復讐心以外の感情をあらわにすることもない。

ただ、よく読むと、恭二はセイコやバイト先のチハル、交際しているカズエといった女性に対して、わりと優しいのだ。はっきりと女性に対してどうという感情が書かれているわけではないが、暴力も振るわないし、怒鳴りもしないし、質の悪いクレームからは庇ったり、夜道を送っていったりしている。そういう、恭二の弱いものへの思いやり?というのが、カツヒコとの間においても仄見える。

セイコの死に全身をうねらせて号泣しているカツヒコの頭を、「かっと頭が白くなった」あとに撫でてやるシーンは、セイコの死の衝撃、悲嘆、憎悪、怒り、様々な感情の奔流のなかで「純粋さ」が表層に現れてくる数少ないものだと思う。ラストシーンで恭二は、雨の中立ちすくむカツヒコの気持ちなど自分にはわからない、語る言葉など持ち合わせない、と、己に対して憎悪と怒りの感情を抱いている。だから、その通じ合い、つながりあいというのは、一筋縄ではいかない予感がある。けれど、カズエやカツヒコといった正の生者(希望)を手繰り寄せ、恭二が今は渦中に置かれている、暴力や平町を過去のものとしてくれることを願いたい。

 

 

*参考:

第49回新潮新人賞 受賞者インタビュー 答えのない問いの中で/佐藤厚

www.shinchosha.co.jp