にしのひがしの

作家志望の23歳女が書評とか映画とかの感想・書評を書いてゆくブログ。

男と女と「楽園」としての南の島〜モーム『月と6ペンス』

5日ぶり(?)です。お久しぶりです。

この5日でバイト始めて辞めました。。時間ができたので、また今日から更新していきたいと思います。
今日は七月に読み終わっていたモームの「月と6ペンス」のレビューめいたものを書いてみます。
宜しくお願いします。

「月と6ペンス」は、ざっくり言うと、芸術家肌のクズ男をめぐる人々の物語です。
どのような粗筋かというと、解説者の松本朗がまとめているのを引用するのが早いでしょう。

…ストリックランドの生涯は、なるほど凄まじい。二十世紀初頭のロンドンで株式仲買人をしながら、平凡な家庭の良い父親、良い夫として十七年と言う歳月を過ごした後、ある日突然、そのすべてを捨てて、ただ絵を描く、それだけのために、単身パリへと移住する。このように、英国社会では当然視される父親や夫としての義務を捨て去ったストリックランドは、パリでも、衣食住という人間の最低限必要なものにほとんど構うことなく、絵を描くことだけに没頭し、周りの人間に対しては、徹底して冷酷、残酷、かつ無関心で、非人間的ともいえる態度を貫く。そうした彼の性格がもっとも顕著にあらわれるのが、彼が、自分の才能を見抜く唯一の人物であり、善良な芸術家であるストループから愛妻ブランチを気まぐれに奪った末に、ブランチを自殺へ追いやると言う事件である。その後の彼は、放浪の果てに、南太平洋の島タヒチへと流れつき、癩病に罹患して、自身の肉体が崩壊していくのを自覚しながら、壁一面の大作を完成させて命果てることとなる。(410)

英国版地獄変といえばいいのかなあ。自らの芸術への果てなき欲求に身を窶して死んでいく男の話というか。ちょっと本編を読むと、またこの要約とは違った印象が出て来るのですが。
それと、物語るのはストリック自身ではなく、若き小説家の青年です。彼の、ストリックランドの内面を見つめようとしつつも、肩入れしすぎることはない、距離を置いた視点から語られることで、ストリックランドは、外連味のある、獣性をもつ奔放さをもつ男として、十二分な実在感を持って描かれていきます。

ある幻以外は目に入らず、それを追い求めるためなら、自分自身を犠牲にすることはもちろん(これは多くの人ができる)、他人を犠牲にして省みなかった。それほどの幻を見ていた。(288)

語り手の「僕」はこうストリックランドを分析する。これは多くの人に理解されることではないでしょうか。ある夢のために自分自身を犠牲にし、食うや食わずで情熱に生きる。これは多くの人ができることです。しかしストリックランドはそればかりか「他人をも犠牲」にすることができる。自分の情熱のためなら、時には誰よりも善良で無辜な男を巻き込み、絶望の淵に叩き込むことも意に介さない。今風に言うとダークヒーローみたいな感じでしょう。一応モデルは画家のゴーギャンとされていますが、松本は、しかしストリックランドはゴーギャンとは全く違うところも多くあり、モームの創作も多いとしています。これを伝記小説として読むのは間違っているということですね。
松本正剛は自身のサイトで、この物語がゴーギャンの研究者たちに必ず参照してきた理由を、「ゴーギャンが「負の描写」によって浮き彫りにされているからだ。」と述べています。
 

332夜『月と六ペンス』サマセット・モーム|松岡正剛の千夜千冊

 

しかし、なぜモームゴーギャンをモデルにこの物語を書いたかは、「人間の土地」を読まないとわからない、と言う。
松本正剛のいう「負の側面」とはどういうことか。それはストリックランドの生き様そのものに他なりません。

物語の中盤で、ストリックランドは「僕」に、時折やむにやまれぬ肉欲に堪え兼ね女を求めるときはあるが、それ以外での女性というものは全く自分には不要だと語ります。

…「愛なんてくだらん。そんなものに割く暇はない。それは弱さだ。おれは男で、ときどき女が欲しくなる。なんとか満たしてやらんと、次に進めんだろ? この欲はなかなか克服が難しい。なければどれほどいいかと思うぞ。精神を虜にするからな。いずれそんな欲から完全に解放されて、邪魔されずに仕事に打ち込みたいもんだ。女ってのは、愛すること以外に何もできんのだな。滑稽なほど愛を大きなものだと思い込んでる。愛こそ人生のすべてだなんてぬかして、男を説得しようとする。実際はどうでもいいものよ。肉欲ならわかる。それは正常で、健康的だ。対して、愛は病気だ。女はおれの快楽の道具であって、配偶者でも、連れ合いでも、伴侶でもない。そんな言葉には反吐が出る」(265)

時代柄もありますが、女性蔑視がすごい。でも結構真理をついているところもあって、今の本を読んでいるとまず目にできないこき下ろしが逆に小気味よかったりします。私自身ボロクソに言われている女性なのに、なんだか「あるある」って思っちゃうんですよね。まあそういう捉え方をする男性がいても不思議ではないだろうなと。今は自分で働いてる女性が多いですけど、この時代はまだまだ専業主婦が一番でしたから、女性の絡みつきようも今以上のものがあったのかもしれません。でも、女性が恋や愛に夢を見てるのっていつの時代も同じですよね。女は自分の全部をかけて愛そうとするけれど、男は一部でしか愛せない、みたいなことも聞きます。
でも、「女は俺の快楽の道具」「愛は病気だ」って言い切れる男って何かちょっとダークでワイルドじゃないですか。
今で言うとダメンズウオーカーっていうのか、ストリックランドは結構女性にモテてしまいます。ストリックランドに惚れて、善人の中の善人みたいな夫を捨て、結局彼の愛が自分には絶対に向かないことがわかったブランチは、結局薬を飲んで自殺してしまう。そのブランチに対する「僕」の分析もまたちょっと、こっちの身に迫るところがあって面白い。

…たぶん、夫を本当に愛しておらず、私の目に夫への愛情と見えたものは、夫の愛撫と慰めへの女性的反応にすぎなかったのだろう。…いや、ブランチに限らず、ほとんどの女性がそうだ。だが、実際には、どのような対象にもなびく受け身の感情にすぎない。いわば、どのような形状の木にも巻きつく蔓(かずら)だ。身の安泰からもたらされる安心感、財産を持つことの誇り、望まれることへの喜び、家庭を営むことの充足感が合わさった感情ーーそこにいかにも精神的価値があるように思い込むのは、女の女らしい虚栄心のなせる業に違いない。世間的な知恵は、このことをよく認めていて、だから、ある男がある女を見初めると、愛情など後からついて来るものだといって、結婚を勧める。(204)

ブランチの夫のストループの人物描写もまた凄いんですよね。本当に優しくて、愛想が良くて、芸術を愛していて、太った背の低い男の人。あまり裕福ではないけれど、友達も多く、同情深くて金の無心をされれば誰にでもお金を貸してしまう。あまりにピュアで騙されやすいために、周囲の人間は影で彼を馬鹿にして憐れんでいる。ストループは奥さんのブランチにベタ惚れで、女神だ、誰よりも君を愛している、世界で一番の美人だ、と口をひらけば褒めてばかりいる。ブランチがストループの後について家を出て行ってしまっても、道で待ち伏せして、ブランチに許しを請い、自分の悪いところはなんでも直すから戻ってきてくれ、と平身低頭します。ブランチに無視され、道を変えられてしまっても、もしブランチがストリックランドとうまくいかなくなって路頭に迷い、自分を必要としたときのために、ずっと元の家に住んで待っていると言い張る。ここまで来るともう親切というより、道化というか、ただの間抜けです。そんなストループを、ストリックランドはせせら笑う。

「女はな、男にいくら痛めつけられたって許せるんだ」…「だが、わが身を犠牲にして自分を救ってくれようなんて男は、絶対に許さんぞ」(263)

ストリックランドは、自分が苛立ったときは女を怒鳴りつけも、殴りとばしもします。でも、女はそれを許すと彼は考える。男に支配されることを望むのが女、と言われるとちょっと時代錯誤的だし、SMっぽいですけど。でもまあ女って大抵Mですよね。ストリックランドの獣性(?)に惹かれる女の人っていうのも一定数いるんだろうと、そこは何か自然に納得できます。ストリックランドは女性の裏の裏を分かってるんですよね、何だか。やることなすこと間違ってるのに、そこはある意味正解で。ストループはやってること自体は別に間違ってないし、人間としても憐れみ深くて優しいのに、なぜか徹底的に間違っている。その対比が非常にやるせないです。女心、とまとめてしまえばそれまでですが。そしてストループが喉から手が出るほど欲しがり、一生をかけて養いたいと思ったブランチを、ストリックランドは「邪魔なもの」としてしか見ない。皮肉ですが、今でも十分あるあるですね。
冷血で自己中心的な男・ストリックランドはそれから彷徨の旅に出、南の島タヒチへとたどり着きます。イギリスでは異常であったストリックランドの行動も、ここでは許される。一人山奥に引きこもり、延々と絵を描き、たまに村に降りてきては働いてご飯を食べさせてもらう。「誰にも構わないでほしい」というストリックランドの願いがここで初めて達成されるわけです。「僕」はストリックランドの死後、彼の足跡を追いつつ、このように述懐します。

生まれる場所を間違える人がいるーー私にはそんな気がする。何かの間違いである土地に生まれ落ち、本来生まれるはずだった未知の土地への郷愁を抱き続ける。生まれ故郷では異邦人だ。子供の頃から見知った青葉の茂る小道も、よく遊んだ大通りも、彼には仮の居場所にすぎない。現実にその土地しか知らぬのに、自分とは無縁の土地だと思いつづけ、肉親に囲まれて一生を送ってきたのに、自分は余所者だと感じつづける。その違和感こそ、永遠の何か、わが身を同化させられる何かを求めて、人を広く遠く彷徨わせるのではなかろうか。(330)

解説の松本朗は、モームタヒチを舞台として使った理由は、「プリミティズム」という、文明に汚されていない南太平洋に住む、本来の人間性を宿した人々の住む地への憧憬が入り混じった思想の一環といえると言います。それはまた「オリエンタリズム」への憧れとも言えると。(411)

ストリックランドはタヒチでも、現地人のアタという女性に惚れ込まれ、一緒に生活を始めます。しかし、アタは他の西洋の女のように、ストリックランドを支配しようともせず、ただ一緒にいて、家事をし、絵を描くのを邪魔しない。ストリックランドはこれに満足し、二人は南の島で自給自足の生活を営み、自由に暮らし始めます。

人はなりたいものではなく、ならざるをえないものになるーーここ〔タヒチ〕の人はたぶんそう思っている。(358)

「僕」はストリックランドと関わった人々と話をするにつれ、そのような感想を抱くようになる。結構ここはずしっときました。「ならざるをえないもの」として、今の自分を受け入れてくれるなら、随分生きるのが楽なんだろうなぁと思う。
個人的にCoccoの「強く儚い者たち」っぽいなあと思ったのが次の言葉ですね。宿屋のおかみさんが言うのですが。

…「イギリスに妻がいるって聞いたのは、そのときだったわね。〝ああ、ストリックランド、男はみんなどこかに奥さんがいるものよ”って言ってやった。だからこそ、みんなこの島に来るんじゃないの”(341)

 

www.youtube.com

(ライブverですが、歌詞もついてるのでよかったら)

この曲も、月と6ペンスも、どちらも一様に「南の島」を、あらゆる束縛を解き放つ「楽園」として描き出します。これが解説の方の言う一種のオリエンタリズム、あるいはプリミティズムっていうものに分類されるんでしょうか。南の島へのこういう夢ってあんまり最近モチーフとして使われることもなくなったような印象がありますけど。ある種異境のような、この世のものではないような土地。
宿屋のおかみさんの紹介で知り合った現地の女性・アタとストリックランドが共に住むと決めるときの会話がこのようなものです。

ストリックランドはアタをじっと見ていた。「おれは、きっとおまえを叩くぞ」
「叩いてくれなきゃ、好かれているってどうしてわかるの?」アタが答えた。(341)

ここで男性から女性への暴力はDVとか、SMとか、そういったものではない。なんて呼ぶのかわからないけど、それは愛の交歓といったような、淫らで悦ばしいものとして表出されています。ストリックランドとアタはそのように暮らしていき、じきに家族が増えていきますが、何年か後にストリックランドは癩病に罹り、アタがそれを村の医者に知らせに行く。ここで、それを例えば今までのバチがあたったとか、そういうふうに読み込むのはナンセンスだと思います。彼の業は誰かを裏切ったとか、傷つけたとか、死なせたとか、そういうところではなくて、彼自身である、彼が彼と言う存在だというところにある。そして、彼は彼の存在の本質である絵を描きながら、「生まれるはずだった場所」で世にも醜い姿となって死んでゆく。
そのようにして絵への情熱を燃やして生き抜いたストリックランドですが、しかし「僕」には、ストリックランドの絵の価値は理解できない。それは、ストリックランドがらい病によって目が見えなくなっても、家中の壁を使って描いた大きな絵を目撃しても変わらない。ここは松本朗も、松本正剛も、不可解だとしているところです。

…医師は絵のことを何も知らない。だが、ここの絵は、そんな医師にも強烈に作用してきた。すべての壁に丹念に描かれた描かれている。壁一面、床から天井まで奇妙な構図で埋まっている。言葉では言い表せない脅威と神秘の構図で埋まっている。言葉では言い表せない脅威と神秘の構図に、医師は息を呑んだ。理解できず、分析もできない感情が身体中に満ちてきた。畏れと喜びーー官能的で、情熱的で、途方もない……だが、同時に、身の毛もよだつ何か、人を恐怖のどん底に叩き込む何かがある。これを描いたのは誰だ。自然がひた隠しに隠してきた深みにまで潜り込み、そこに守られていた美しくも残忍な秘密を創り出してきた男が描いた。人に知られること自体が不浄である秘密ーーそれを知った男が描いた。ここには原始の気配、畏れ入るべき何かがある。人間業ではない。医師の心は漠然と黒魔術を思った。壁の絵は美しく、淫らだった。(380)

ストリックランドが命を賭して描き上げた絵はこのように描写されます。

「僕」はストリックランドの絵を初めて見たとき、それを次のように評します。

まず、技法のあまりの拙さーーと私には見えたーーにショックを受けた。過去の巨匠たちのデッサンを見慣れていて、アングルにこそ近年におけるデッサンの達人と思っていた私の目に、ストリックランドのそれはひどく稚拙に映った(もちろん、彼が目指していた単純化のことなど、私は何も知らなかった)。静物画の一枚に、皿に盛ったオレンジの絵があった。皿が丸くなく、オレンジが左右不釣り合いであることが私の神経に障った。肖像画は実物大よりやや大きく、そのせいか不恰好に見えた。まるでカリカチュアのようだと思ったのは、私にとって全く未知の描き方だったからだろうか。風景画にはさらに頭を抱えた。…私の第一印象は、辻馬車の御者が酔っ払って描きなぐったような絵、だ。とにかく、どう考えていいのか途方にくれた。色の使い方も異常なほど荒っぽい。これはとんでもなく大掛かりで理解不能なジョークか、という思いが頭をかすめた。(275)

私も美術のことに関してはあまり詳しくないんですけど。一応モデルらしいゴーギャンの絵を貼っておきます。最近展覧会やってたナビ派の元祖?みたいですね、ゴーギャン

 

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(「丸くない皿」ってどれだろうと思って探してたら、一応出てきたので)

 

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niji.lomo.jp

公式サイトはもう違う展覧会になっちゃってて貼れなかったのでこちらを。何個かブログ見てみたんですが、こちらのサイトさんが写真をあげてくれててわかりやすかったです。美術史上のこともかいつまんでまとめていただけてたので、参考になりました。


最初にぱっと読んだ時、ピカソキュビズムみたいな感じなのかなあと想像しました。

 

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「単純化」という点では似ているのかもしれないけど、やっぱピカソのほうが垢抜けた感じがしますね、なんとなく。

さて、「僕」がなぜストリックランドの絵の価値を解しない人物として位置づけられているのか。少し考えて見たんですが、モームは、あるいは自分とゴーギャンとのポジションをある程度反映して「月と6ペンス」を書いているのかもしれないですね。松本朗はモームの同性愛嗜好を、作中の「僕」とストリックランドの関係に読めるとしています(416)。もしくは、もっと文学的意図として、彼はストリックランドの絵ではなく、生涯の方を書きたかったのかもしれない。伝記等読めばもっと詳しいことがわかるのかもしれないけど、こういうふうに推察するのも楽しいので。「人間の土地」も読んでみたらもっと何かわかるのかもしれないですね。

「南の島」でアタとストリックランドは恋愛はしていません。アタはストリックランドを多分本当に愛しているんですけど、ストリックランドは彼女と恋に落ちたりはしない。ストリックランドが癩病で、それが伝染病だと医師に診断されると、ストリックランドはアタや他の家族に、自分一人を置いて去れと言いますが、アタはそれを拒みます。個人的にここが結構な山場だと思います。

 

「ほかの人は出て行きたければ出て行けばいい。でも、あたしは行かない。あんたはあたしの夫で、あたしはあんたの妻だもの。あんたが出て行くなら、裏手の木で首を吊る。神に誓ってそうする」
…(中略)… 「おれといる?なぜだ。パペーテへ戻れ。おまえならすぐに別の白人が見つかる。子供は婆さんが見てくれるだろうし、ティアレも喜んで働かせてくれるだろう」
「あたしの夫、あたしの妻だもの。あんたのいるところに、私も行く」
一瞬、ストリックランドの鉄壁の守りが揺らいだ。両の目に涙が湧き上がり、ゆっくりと頬を伝い落ちた。だが、すぐにいつもの皮肉っぽい笑いが戻った。
「女は馬鹿だ。訳のわからんけだものだ」とクートラ医師に言った。「犬並みに扱って、こっちの腕が痛くなるほど殴りつけても、まだ愛してきやがる」
そして、肩をすくめた。
「ふん、女にも魂があるなどと、キリスト教の愚かしい幻想に過ぎないのに」「あんた、医者に何言ってるの」アタが疑わしそうに尋ねた。「行かないよね」
「お前がいてほしいなら、ここにいてやるぞ、哀れな馬鹿女め」
アタはすとんとストリックランドの前にひざまずき、その足を両腕に抱きしめてキスをした。ストリックランドはかすかに笑って、医師を見た。
「最後にはいいようにやられる。女にかかったらかなわん。茶色いのも白いのも同じだ」

今こんなの出版しようとしたら絶対発禁物だと思うんですけど。これ、通して読むと結構いいシーンなんですよね。初めてストリックランドが人間らしい感情を見せる。アタを未開の島の女として、いいように装置として使っているみたいな批判もわかるんですけど。こういう形の愛みたいなものって今の作品では絶対書けないし、それだけでも「月と6ペンス」は読む価値があると思います。男女の間の推察の他にも、「僕」が思い巡らす当時の社会への批判や警句もなかなか興味深いし、現代とほとんど変わらない感覚で書かれていてすごく読みやすいです。これは訳者さんの力も大きいと思います。会話や比喩に全く違和感がないんですよね。

あと693users もついていて、結構有名かもしれないんですが、ゴーギャンつながりで小野ほりでいさんの漫画も貼っておきます。いい漫画です。

omocoro.jp

さて、今日はちょっと長くなりました。編集ページが画像のせいかめっちゃ重くて怖いので凍る前に投稿しときます。また明日更新したいと思ってます。ここまで読んでいただきありがとうございました!