にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

ウルフ「灯台へ」感想


ご無沙汰してました、にしのです! 閲覧有難うございます。
先日ヴァージニア・ウルフ灯台へ」を読み終わりました。初ウルフ作品でした。

 

  by カエレバ

  

本作は「英ガーディアン紙が選ぶ「死ぬまでに読むべき」必読小説1000冊」入りしてるらしいです。あと、早稲田大学院教授?の渡部直己さんの『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる 小説・批評・思想ガイド』でも必読書としてリスト入りしてました。yurilam.wordpress.com

 

  by カエレバ

 

 

大学の授業で「意識の流れ」の人と教わったのですが、実際の文章は読んだことがなかったので、新鮮に読みました。女性の生き方、人の生き方、生きづらさ、人と人は分かり合えるのか、人の本質とは何か・どこにあるのか。哲学的な主題というよりは、日常的な疑問をつぶさに受け取って、丁寧に詰めていく、という方が近いような気がします。人と人が関わる上で焦点に入って来る瑣末な疑問・不思議な感覚を、実験的に一つ一つ、小説の中で追い求めて行こうとしているような感じ。

それと、はちょっと「ムーミン」みたいな雰囲気(?)があるような感じがしました。なんと言うか、どこかちょっとおとぎ話めいているというか、上品というか、寓話っぽいというか。海辺の大家族(8人の子供と、哲学者の父親、美しい母親)と客人たちの話、というのが浮世離れしていて。色は間違いなく青っぽい。いろんなトーンの青が混ざって、それにけぶりを掛けたような雰囲気です。そういえばトーベ・ヤンソンもウルフも同性愛者ですね。あ、ハイスミスもか…。

映画のカメラが横並びに人を映し出して、「この人は…一方この人は…」みたいなカメラワーク?描写?があると思うんですが、ウルフはそれを登場人物それぞれの意識のレベルでやってます。人間観察眼、というのも陳腐な言葉に思えるくらい、的確に・鋭く人間を描いており、実益と美しさを兼ね備えた比喩が登場します。さまざまな人が、お互いのことを同じように思ったり、違ったように思ったり、評価したり貶めたり、ある人物の行動と考えていることが全く違っているのに騙される人もいれば、それを見抜いて矛盾に思いをはせる人もいる。その情報量は筆舌に屈し難いものがある。その混沌が一同に介し、海辺の景色と綯い交ぜになりつつ、自然や人間に何がしかの真理を見出そうと常に伺っている。潮の満ち引きのように、理解や無理解、鈍感と敏感、拒絶と許容、愛と憎しみ…いろんなものが混ざり合っていきます。

一番内面が赤裸々に描かれ、作者の立場と近いように思われるのは、画家志望のオールド・ミス、リリー・ブリスコウです。彼女は美しいラムジー夫人を尊敬しつつも、彼女の内面にあるものや、周囲の人々の良い(美しい)面と、悪い(醜い・あまり良いとは言い難い)面について思いを馳せ、様々な感情や疑問を覚えます。
 
…では、これらをぜんぶ合わせると、どんな答えがでる? 人はどのように他人を評価し、判断をくだすのだろう? どうすれば、あれとこれを足して、好きとか嫌いとか言う結論を出せるのだろう? 結局のところ、そういうことばには、どんな意味がついてくるのだろう?(32)

 
…とはいえ、きっとご本人はあそこに見える完璧な姿形とは、実際には違う存在なのだろう。でも、どうして違うの? どう違うの? …奥さんは見た目とはどう違うのだろう? あの方の内なる精神とは、本質とは、どんなものなのだろう。ソファの隅で見つけた手袋が、その折れ曲がった指の形から、ぜったい奥さんのものだと断言できるような、あの方の本質とは?(64)

 
…まともにものを見るには、目が五十対くらい必要のようね。ーその中には、あの美貌がわからない目も一対ぐらい必要だ。なによりも欲しいのは、秘密の知覚機能とでも言おうか、空気のように薄くて、鍵穴をもくぐり抜け、たとえば、編みものをしたり、おしゃべりをしたり、独り黙り込んで窓辺に座っていたりする夫人を包み込んで感じ取ることができるような力。…ラムジー夫人にとって、あの生垣はどんな意味をもつか。庭はどんな意味をもつか。波は砕けたときにどんな意味をもつか?(253)
 
リリーはラムジー夫人に時折結婚のことを尋ねられて、彼女をうざったくも思いつつも、度々ラムジー夫人の美しさに打たれ、後半部においては彼女の突然の死について、その意味を考えつづけます。解説では「同性愛的」と指摘もされていますが、しかし、彼女の夫人への感情には性的対象に向ける即物的な欲望とは単純には置き換えられない敬意が読み込めます。いや、もっと言ってしまえば「不可思議なもの・神秘的なものへの驚嘆、崇拝」とでもいうような。そもそもラムジー夫人は単なるキャラクター以上の意味を「灯台へ」において持ち続けます。その人間離れした美しさもそうですし、途中で突然亡くなるという「欠けた」存在になるというのも意味深長な秘密を帯びます。彼女のみが屋敷のすべてを掌り、客人や家族というすべての人々を接げる役割をもっているため、夫人の存在は、密やかに、けれど唯一絶対の、物語を導く(抑制〔コントロール〕する)推進力となっています。自然や意識、その外か内にあり、人間の理解を超越した所で、着実にその調和を保ち続ける謎。秘密のかたまり・結晶というエッセンス。その「不可思議さ」は、地の文章の中でも表現されます。「灯台へ」では、意思がない風や波、自然、物が自分の意識を持って行動を起こしているように描かれている文が多く見られます。多分これがウルフのスタイルなんだろうと思います。それが思いっきり表出するのは物語の「連結部」とされる第2章「時は流る」。自然の圧倒的な力、時間の暴力、人間や生活の非力さが存分に表現されています。他にも、
 
山腹の狼狽ぶりを憐れんでか、面白がってかわからぬが、周囲を取り囲む丘たちが、曇り翳った斜面の運命をとっくりと考えている、といった風情だ。(216)
 
などといったような表現。ちょっと漱石の初期(「虞美人草」とか)に似た感じの文章のような(漱石は英文学者ですね)。確かに英語は日本語より無生物主語表現は多いけど、それでも独特な感じがあります。その意図はなんなのか。こういった表現に対して少しずつの「違和感」が結晶するのは終盤のリリーの独白です。
 
やはり、わたしはなんの不足を感じないながら、奥さんを求めて泣いているってことなのかしら? …だったら、これはなんなのでしょう。どういう意味なんでしょう? ものが手を突き上げて、人をつかんできたりしますか? 剣が人を切りつけたり、拳がつかみかかってきたりしますか? 安らぎはどこにもないのですか? いわゆる処世術を覚え込んでも、詮ないものですか? なんの導きもなく、身を寄せる隠れ蓑もなく、人生とはすべて奇蹟の賜物で、つねに高い塔の頂から宙に身を躍らせるようなものなのですか? どう年を重ねても、なお人生とはこんな、意外で、不測で、未知のものでしかないなんて、そんなことがあり得るものでしょうか? いまここでカーマイケル老人と自分が芝生にすっくと立ち上がり、なにものもこの目はごまかせんぞと万全の気迫で、なぜ人生はかくも短く、かくも不可解なのか説明していただきたいなどと烈しく詰め寄ったあr、放散した美がくるくるとその身をまとめあげて、あたりに充ちるのではないか、この虚しく伸びる曲線や唐草模様がなにか形をなすのではないか、もしふたりで声高く呼びかけたら、ラムジー夫人が帰って来るのでないか、そんな気がした。(231)
 
ウルフが哲学とか高尚ぶったところにいかず、目の前の瑣末な疑問・傷について考え続けたのではないかと私が思う理由がここです。なんていうか、日常的に感じるような、平易な、些細な想いを書いてる印象です。「死」について、というのはあまり紋切り型で、すこし陳腐な感じにもなってきてるかもしれないんですけど(特に文学では)、でも、「剣が人を切りつけたり~」という文には何か非常に切実さを感じます。またここでは明らかにラムジー夫人の死は人生の不可解の代表として数え上げられ、それ以外の世界全てに対する疑問、たとえば曲線、唐草模様の意味と連なるような、そんな神秘的なものに属しています。ウルフが度々「剣が~」のような表現を用いるのは、どうしようもない不可知の何か・なんらかによって、自分(人間・存在)がどうしようもなく左右される、あるいはある意味で「侵される」ような感覚を持ち続けていたためではないのかな。
 
さて、ウルフが自分の投影として用いたのは、次点ではなんとなくキャムのような気がします。キャムは第1章でラムジー家のおてんばな女の子としてちょっと登場しますが、第3章ではメインキャラとして出てきます。
えっと、ラムジー夫人ばかりフォーカスしてしまいましたが、夫のラムジー氏もだいぶ曲者です。哲学者で、今の言葉でいうならちょっとアスぺっぽいおじさんというか…。まず物語の冒頭で、息子が「明日灯台に行けるかな?」ってわくわくしているのに、お母さんが「いけるといいわね」って言うのに対して、「この雨じゃ行けんよ」って、ぶちこわしてがっかりしてべそをかかせちゃうような、一事が万事そういう感じの人なんですね。あとは、まあ時代とお国柄なのでしょうが、男尊女卑思想も結構強い。若くて快活でちょっとおバカな娘が好きで、その子が「わかんな~い」みたいに言うのをバカにするのが結構好き。このへんはどこの時代も誰でも同じなんだなあ…ってちょっと面白かったりします。夫人の言葉を借りれば、「うちの人はこういう若い娘たちが好みなのよ。こういう金朱色に輝く娘たちは、すっ飛んでいて、ちょっと手に負えなくて、そそっかしいところがあって、髪をひっつめにしたりしないし、主人に言わせればリリー・ブリスコウのように「貧相」でもない。こういう娘たちはことによれば、主人の髪を切ってあげたり、時計の鎖を編んだり、彼の仕事中に「ねえ、いらっしゃいよ、ラムジーさん。こんどはあたしたちがやっつける番よ」などと呼びつけて邪魔したりして、するとうちの人はテニスをしにほいほい出て行ったりするのだろう。」(126)。
 
だいたい自分の世界に入ってて、独り言をぶつぶつ言ったり、いきなり癇癪を起こしたりするくせに、妻がぼうっとしてたり、怒ってたりすると傍にきて構ってくれみたいなオーラを出す。妻の死後はもうフォローしてくれる人が誰もいなくなったので、「暴君で分からず屋の父親」として子供たちから憎まれてます。ちょっとびっくりしたのはすでに「抑圧」という言葉が使われていることですね。息子が母親に愛着がありその反面父親を憎んでいる感じとかはちょっとフロイトを思い出させて、影響を受けていたのかなと思いました。
不器用で、学者肌で、妻の死後は女たちに自分の惨めさをアピールするして同情してもらいたい気持ちでおかしくなりそうになってる。そんな人を克明に描けるのはやはりウルフの才なんだろうと思います。
 
…それにしても、さっきの朝食では、またもや少々かんしゃくを起こしてしまったなあ。さて、こうなるとーーそう、なんだかわからないうちに、とてつもない衝動に襲われ、だれでもいいから女に近づいてーーその才は手立てなど問わない、それくらい強烈な欲求だーー自分の求めるもの、つまりは同情を無理にでも引き出したくなるのだ。(195)
 
…それは老いの弱々しさと、疲弊と、哀しみが要求される役どころであり、そうしてこそ、女たちの降るような同情が得られよう。女たちに優しくなぐさめられ、同情されるようすを想像して、この夢のなかに、女たちの同情が極上の喜びを映し出すと、ラムジーはため息をついて、愁う声でそっと諳んじた。(214)
 
このように、周囲とうまく繋がれないやもめ男の心中を容赦なくありありと描きつつも、しかし、人の意識の中では全くそれは異なったものとして受け取られる。それがウルフの関心ですし、手法ですから、その評価も、作中の焦点を当てられる人ごとに全く異なったものになっている。
そ娘のキャムは結構父親のことを「鼻持ちならない」と思いながらも「美しい」と表現し、その不器用な接触の仕方に「応えてあげたい」と考えています。
 
…なにしろ、お父さんほど魅力的な人は他にいない。キャムにとっては父親の手までが美しく、その足も、声も、ことばも、あの癇性も、学問へのほとばしる情熱も、あたりはばかりなく「われわれは滅びぬ、おのおの独りにて」なんて言い出すところも、何もかもが美しいのだった。(218)
 
ラムジー氏は、公平にいっても、父親としても夫としても男としてもあんまり魅力的ではないんだけど、この書き方がすごく無条件的?で、ここにもウルフの私情が現れている…キャムに自分を投影しているような感じを受けました。ウルフの両親も文学的に造形が深い人だったようですし、また、彼女の家に幼少期様々な知識人がやってきたことを思うと、キャムが似たような環境の中に置かれて、彼らに非常に好感を持っていた、なんでも教えてくれるお爺さんたちといると落ち着いた、というようなことを考えるところがあるのもそうですね、
 出て来る男性がポールっていうイケメン好青年以外はだいたい学者肌で頭はいいんだけどちょっと嫌な感じの人ばっかりで、この偏りも彼女が囲まれていた男性たちの特色によるものなのでしょうか…。
 
全体的に、男女観は確かにちょっと古いところはあるのですが、それでも、
 
人はみな結婚して子どもを持たねばだめよ、などと、お尻に火がついたみたいに言ってまわるなんて、自分もそこになにか逃げ道を求めているのだろうか。(78)
 
みたいに、ちょっとぎくっとさせる文章が出て来るところが、好きですね。

ではでは、今回も最後までお読み頂いて有難う御座いました! 

 

(短くてすみません;無理していっぱい書こうとすると、重くなりすぎて書けなくなることに気づいて。アクセス履歴があったので、覗いてくれてる人がいるから、また短めでも書こうかなという気持ちになれました。有難うございます。読書録にもなるし、文章にして公開することは悪いことではないような気がします。ブログは自分にちょうどいい配分を見つけて続けていきたいです。)