にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

井上荒野『切羽へ』感想

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(2008年 第139回直木賞受賞作)

 

読みました。

ずっと「せっぱ」だと思って読み進めてたんだけど、「きりは」って読むんですね。切羽詰まる、の切羽ですよね。意味は同じなのかな。

解説が山田詠美さんで、昔好きだったのでそれもあって読みました。

でも、「切羽」の解釈がちょっと私が思ったのと違ってました。

作中で説明されるんですけど、トンネルを掘っていく一番先の部分、を切羽というらしい。私はトンネルは片思いのことなのかなって思った。思いが届いてしまったら開通して、トンネルは完成してしまう。でも、掘り進めていく、つまり、向こう側に届くまでの過程にあるもの、過程にしかないもの、を切羽って表現しているのかなあと。有り体に言えば切なさだとか孤独だとか、そういうものなのかも。「トンネルを掘ってる途中の、どこにも行き着かない状態の場所」という意味だから、完璧につながらないとか、融合しえない、とか、そういう哀しみ、切なさのようなニュアンスなのかなって。

でも、解説はちょっと違うように思った。ぼわりと書かれてるけど、ちょっと違う角度の解釈のように感じました。

この本のレビューには、「大人の」とか「官能的」とかそういう文字が踊っている。ヒロインも、ヒロイン(セイ)の女友達(月江)も、しずかさんという古馴染みのおばあちゃんも、実際会ったら、みんな色気を纏っているひとだと思う。語り手であるセイは、感受性が強くて、ふいに感じたことや、何かについてもの思うときの表現や言葉がありふれていない。無垢というのとはちょっと違うような気がするんだけど……詩的な感性の、センシティブな女性なのかなというのは伝わってくる。自分のことを、「弱々しいぶんだけ狡賢い小さな動物みたい」と感じてみるところとかね。

ぱっと見た印象として、なんだか靄がかっているかんじがある。こういうヒロインの視点だからなのかもしれない。それとも、解説でも指摘されている、井上荒野さんの「書くことより書かないことを大事にしている(あえて書かないことで匂わす?)」という特徴ゆえかもしれない。そのふたつは入り混じってるのかも。その感性がそういう文体を選んだというのか。

正直に書けば、自分にはちょっと合わないところがあった。素晴らしい小説、といえないような。それを突き詰めていくと、女性の本性は女性なのか、という個人的な疑問につながる。つまり、女性は産まれた時から女性なのか。性的に見られて、女性に成るのか。これは男に置き換えたっていい。男は産まれたときから男か。女性から男とみられて男となるのか。

この小説のムードとして、常に男性の存在を意識して生きてる女性というのがある。これは、ヒロインの立場ーー生まれ故郷の小さい島で、夫と仲睦まじく暮らしながら、保険教諭として勤めている小学校の新任教師(石和)に惹かれるーーからも来ていると思う。小さな離れ小島、狭い世界で、夫に身も心も愛されながら、違う男を好きになる、という…非常に「女」を意識するような環境。

セイの感性はおもしろいと思う。表現もきれいと思う。でも、違和感があった。こんなどっぷり頭から香水を被ったみたいに、ひとって「女」かなあ、みたいな。ジェンダーとかフェミニストとかそういうわけじゃなくて、素朴に、人間って、男と女の部分って誰しも持っている気がするんですよね。「男性らしい」とか「女性らしい」って、性別の「男」「女」からきているんじゃなくて、感性というか、考え方というか、状態のような気がする。そうじゃないと説明できないことって多い。男の人がみんな、勇ましいわけでも、自立しているわけでもないし、女性が全員、優しいとか、おとなしいとかいうわけでもない。四六時中女の人も、男の人も、いないんじゃないかな。

そういう意味で、この小説の世界観の「どっぷり女」感は入り込めなかったふしがあった。

 

 

でも、この「女」視点ならではの光っているところもある。

石和への形容が独特で面白かった。優しくて物静かな夫と、ぶっきらぼうで何を考えているのかわからない石和。穏やかで静かな自分の生活に現れた、異物としての存在、「何こいつ」っていう感じの「男」を、沁み沁みとした目で、自分なりに感じ取っている(感じ取ろうとしている)ところが、よかった。その視点で進むから、読者も、読んで識っていくというよりは、匂いを嗅ぐように、石和を推測していくところがある。石和がついた嘘の意味も、理由も明かされない。外観をなぞっていく、外縁をなぞっていくというか。なんとなく、島民たちが、遠巻きに石和や月江さんを見守っていく感じとかぶる。だから、この話を読むスタンスとしては、島民のひとりになる、というのが近いかもしれない。干渉もしなければ、指図もせず、ただ眺めている。船が波に揺られるのをみているような感覚。

あと、やっぱ独特な気がするところについても書いてみる。人妻が夫以外の男に惹かれていく話ってよくあるけど、でも、それって夫への不満とか、飽きとかが引き金になることが多い気がする。凡庸な生活に刺激を求めて、とか。でもこの小説は、そういう節でもなさそうで不思議な感じがした。動機がぼんやりしているのに、進んでしまう。

夫への不満などなにひとつないのに、それどころか非常に愛されて、満ち足りて、幸せで毀れそうな印象すらあるのに、石和のことが放って置けない。最初「贅沢な話だなあ」と思ってみてたけど、途中から、これは報われないのだろうと悟った。だから、贅沢というよりは、単に無益な行為だな、と思うようになった。

石和は明らかに好きになっちゃいけない人感がある。あきらかに破裂するだけの恋だと感じる。というか、恋心、とちゃんといえるのかも少し不明なところがある。解説では「熱烈に愛し合う男女」と言ってるけれど、石和からセイにも、セイから石和へも、そういうニュアンスにはおさまらない不完全な思慕を感じた。恋とも執着とも違う何か。もしかしたら情(じょう)に近いのかもしれない。地面の下を流れる水のような。

また、石和と同じくらい、夫の描写にもページが割かれる。彼も寡黙といっていいくらい自分の気持ちを口に出さない人間で、その性格を読み取るのも難しい。セイを心から愛しているということはわかる。セイと繋がり合ってはいるということも。けれど、夫がいなくなれば自分は孤独だ、とセイが泣く部分もあり、満たしえぬ欠落を感じ取っている。夫はそれに対して表面上は戸惑うだけで、特に何のリアクションもせず、ただひたすら海のようにセイを包み込む。終盤石和とセイが二人きりでいるところに出くわしもするが、そこでも、直接的なセイへのリアクションはない。(ただ、気づいていないはずはないだろうと思う。)夫が静かすぎて、霧がかかった向こうのように、彼の心の動きがなんとも読み取れない部分はある。ただ、なんでも「隠そう」というのが井上荒野さんの書き方ならば、この夫がもっとも小説の核心にあるような感じもする。

なので、セイの本当の相手というのは、石和というより、夫ではないかと思ったりする。

(5/6 書き直しました)