佐藤厚志『蛇沼』(第49回新潮新人文学賞受賞作品)感想
※ネタバレ注意
(新潮2017年11月号)
ドロドロした憎悪、疑念、暴力、嫌悪が沼底に溜まった泥のように渦巻いている。
主人公恭二がセイコや雷魚、祖父茂夫に向ける愛情?はちょっと意外なくらい純粋。
一枚岩なヒーローとかダークヒーローではなく、鬱屈しつつも良い処も悪いところもほの見えて、リアルな人物造形となっている。
家族をはじめ、周囲に対する軽蔑と憎悪を、時折暴力というかたちで発散している。家族に反抗し、突っ張った仲間とつるんでいるが、童心の傷を癒せぬまま、幼くして死んだセイコのことを長い間忘れられないでいる。
恭二が生まれ育った農村では、暴力以外の解答がない。物語もそういうふうに完結していく。罪びとがスッキリと裁かれることはなく、ただ復讐という名まえで惨殺されるのみ。
「真っ暗な山々は降り注ぐ雨と音をことごとく吸収してじっと静まっていた。」が最後の文。
沼や魚、蛙の卵、悪臭、生ゴミ、泥といった、「汚いもの」がたくさん描かれる。暴力や虐待が横行する舞台・平町の在り方かつ、恭二のこころの在り方といえるかもしれない。
解答が「暴力」であり、暴力でしかない、というのは、この作品の根底のテーマになっていると思う。
最後に復讐を渇望していた犯人が殺されても、恭二の胸に浮かぶのは、恐怖であり、憎悪であり、怒りである。『蛇沼』では、力が強いものが絶対で、親子間、雇い主と外国人労働者間の虐待はほぼ普遍のもの、社会の法則みたいなものとして描かれている。恭二もまた、違和感というか、憎悪を感じてはいるものの、その枠組みに組み込まれ、通行人や浮浪者にはなんの理由もなく暴力を振るう。それは正義とか悪とかいう俎上のものではなく、もっと生々しい、鬱憤晴らしの延長というのが近い。暴力しかないし、知らないのだ。
作者の佐藤厚志はインタビューの中で、恭二と、セイコの兄で知的障害のあるカツヒコの関わりについて話している。恭二がセイコ(死者)からカツヒコ(生者)のほうへとシフトしつつあるのならいい、と。
確かに、カツヒコと恭二の関わりは作品のなかで異色な感じがある。作中で恭二が誰かの前で心を許すとか、安らがせるとか、そういうシーンはほぼない。誰かの前で、憎悪や復讐心以外の感情をあらわにすることもない。
ただ、よく読むと、恭二はセイコやバイト先のチハル、交際しているカズエといった女性に対して、わりと優しいのだ。はっきりと女性に対してどうという感情が書かれているわけではないが、暴力も振るわないし、怒鳴りもしないし、質の悪いクレームからは庇ったり、夜道を送っていったりしている。そういう、恭二の弱いものへの思いやり?というのが、カツヒコとの間においても仄見える。
セイコの死に全身をうねらせて号泣しているカツヒコの頭を、「かっと頭が白くなった」あとに撫でてやるシーンは、セイコの死の衝撃、悲嘆、憎悪、怒り、様々な感情の奔流のなかで「純粋さ」が表層に現れてくる数少ないものだと思う。ラストシーンで恭二は、雨の中立ちすくむカツヒコの気持ちなど自分にはわからない、語る言葉など持ち合わせない、と、己に対して憎悪と怒りの感情を抱いている。だから、その通じ合い、つながりあいというのは、一筋縄ではいかない予感がある。けれど、カズエやカツヒコといった正の生者(希望)を手繰り寄せ、恭二が今は渦中に置かれている、暴力や平町を過去のものとしてくれることを願いたい。
*参考:
第49回新潮新人賞 受賞者インタビュー 答えのない問いの中で/佐藤厚志