にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

町屋良平『青が破れる』〜第53回文藝賞受賞作 感想

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 (文藝2016 冬号誌上で読みました)

 

 

 「気持ちのよい違和感」

 

口語と文語、漢字とひらがな、文学と会話が入り混じってくる文章が新鮮だった。所々詩のような、所々コントのような。形式張ったなにかを描こうとしていない。とことん感覚的で。あまりかっちり小説とか読まないけれど、言葉に対してすごく敏感なかんじが伝わってきた。
ボクサーと文学、というのは結構相容れない処にあるんじゃないかと思う。そのはじまりからして違和感があって面白かった。
流れる青のような雰囲気だ。
このスタイルの文章が評価されるのは、イマっぽいと思う。評価もそうだし、それ以前に、生まれてくるのは、というか。最果タヒとか、「時代につながる」感覚の文体みたいだ。
もちろん文体だけではだめで、形式だけではだめで。かわいたまま、欠けたまま寄り集まって、散会する。癒やし合うとかじゃなく、表層を舐めて、どうしようもなくなってやっぱ終わり、でも続く。そういう感じの水流がある。

流れる青、水みたいな文体に、ごつごつっと氷のように違和感がころがっている。それが読んでいて快かった。
男性新人作家によって書かれた鬱屈した男たちの話、という点では、新潮新人賞を受賞した『蛇沼』とすこし似ている。だが、『蛇沼』が淀み沈み、穢れきった重たい泥水の話だとすれば、『青が破れる』は氷を孕んだ流水のような流麗さ、透明感がある。作家の資質や書くものの選択の話であって、決して優劣や好悪の話じゃない。その差はとても面白い。

 

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作者の町屋氏自身がこの「違和感」を自分の作品の長所であり、印象というか、特色というか、持ち味と捉えているとわかるのが、話のラスト付近に再登場する陽というキャラクター。
この陽の性別や個性について、作者は唐突に、しかし氷のように透徹に違和感をつけくわえる。最初はただの少年として出てきた陽は、この場面においてはまるで結晶のように純粋で「果てしなく甘えられる恋人みたい」な存在に変貌(かわ)る。

町屋氏は、意図的に違和感を周到に使いこなし、配置し、ことば遣いを精査し、自分の作品を書いていっている。それが顕著な文章を少し引用してみる。

あいたいなら、あいにいけばいい。でももうそれは、「おれの夏澄さんへの恋情」ではなかった。あいにいったら、それはおれの欲情であり、夏澄さんの孤独であり、それは情熱を装うけれど、しんじつは空しい。シャワーを浴びてジムにへいった。(26)

怒りというおれのよくしっていることばと概念と感情は、おれのよくしってるやつとじつはちがうものだろうか? とう子さんが危篤になったり、とう子さんが生還したり、そういう奇跡をくりかえすうちに、ふへん的な感情やきもちの交換の基礎みたいなものが一枚一枚剥がされて、一秒ずつはじめましてをいうような、きもちの探りあいをいま、あらためてしているのだろうか。(31)

唐突にひらかれる漢字の数々がわかる。「しんじつ」、「よくしってるやつとじつはちがう」、「ふへん」、「くりかえす」「あらためて」。読者がすらっとこれに目を透したときに覚えるのは「違和感」だし、「立ち止まる」感覚でもある。詩を読んでいる気持ちにも近いと思う。この漢字のひらき方が『青が破れる』の独特の読み味につながっている。文字の(物理的な)密度という点でも、意味のひらきという点でも、随所に光が入っているような感覚を私は覚える。ステンドグラスのように、採光する働きというか。もしくは、漢字で書かれるより、なんとなく透徹した概念といった印象。
無論なんの思惟もない濫用は避けたいところだ。「やさしさ」とかは特に陳腐になりやすいと思う。大事なのは、意図と選択だろう。

また、とう子さんが「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」(28)と歓声を上げるシーンなどは、全文がひらがなだ。
このセリフがひらがなで書かれる意味とはなんだろうか。
ひらがなに開かれることで、日本語の文字は「意味」から「ひびき」に変わるのではないだろうか。英語だと表音文字だから、「音を読む」という感覚が比較的平易なのだろうが、漢字の場合表意文字なので、「意味を読む」(どちらかといえば)「解読する」という感覚となる。
「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」からは、本当に少し遠くへと、大きな声で、宛てもなく発された歓声を聞くような、そういう臨場感が伝わる。「聞く」というのは「読む」よりもっと即物的というか、生々しい体験だ。それによって、小説世界がリアルに周囲に立ち上がっている感じが強められている。
従来に比べ、より感覚的な日本語の書かれ方といえるのかもしれない。

 

講評のなかで、斎藤美奈子氏は、『青が破れる』を「難病モノ」という括りに入れてしまったせいで、構えて評価できない部分があった、と書いていた。
難病モノ。たしかに、難病の女性(とう子)が出てくるから、難病モノなのかもしれない。ただ、その悲劇性を必要以上に強調したり、死期に至るまでの道筋を克明に描いたり、「いっしょに海を見ようね…」みたいなセリフはない。その点で、これは流行っていた「難病モノ」とは一線を引く作品なんじゃないかと思う。どちらかといえば、とう子の難病は、ある種予定調和というか、生から逃げを打った安穏、という角度から描かれるところがある。物語の主眼は「闘病」ではなく、主人公がボクサーであるように、「闘争」(生・自分への)、あるいは「難病」という理不尽に巻き込まれ、抵抗できなくなった周囲の人々のほうにあるように見える。斉藤氏がいうのは、物語に「難病」というエッセンスを入れること自体を、避ける(あるいは避けたい)ということなのだろうか、と疑問が湧いた。

 

 

〜一言まとめ〜

個人的にはすごくいいなと思いました。比喩が本当にあるような、とか、なるべく自分のことばで、という作者の執筆上の注意にも共感できた。今後注目していきたい作家の一人だと思います!