にしのひがしの

小説家志望の24歳女が本の感想を書いてゆくブログ。

『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ 感想

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読みました。

 

なんか、すごーーくモヤモヤしました。これはダンサー・イン・ザ・ダークを見た時の感想に似てる。

レビューを見るとみんな褒めてるのも似てる。

 

まず、ストーナーにはもっとやれることもやるべきことも、あると思った。

周囲を幸せにする努力をしていないと思う。

小説の文章は綺麗だし、表現は美麗だし、雰囲気は静謐だけど、でも、内容にどうしても納得がいかない。「自分には何もできない」と言う前に、まずはどう見たって精神に異常をきたしてる妻を、なぜ精神病院に連れてかないの?  自分で心理学の本を読んで見たりしないの?

彼はすべてを受け入れ過ぎていると思う。それを諦観の妙味とか、あるいは老境の美学とか、弱い男の悲哀とかいう人もいるのかもしれないけど。

時代柄精神病に対する知識も乏しかったのかもしれないし、ましてや毒親なんていう考え方も、なかったのだと思う。親子間の虐待についての『魂の殺人』を描いたアリス・ミラーも、最初の著作を発表したのは1978年だという(wikipedia)。第一次世界大戦第二次世界大戦後を舞台としたこの小説には、遅すぎる。すれ違いのように、ストーナーは逝ってしまった。

けれど、それにしたって。

ストーナーは妻になるイーディスと初めて深く話したときに、「彼女は救いを求めている」と感じ、そこにも惹きつけられている。なのに、結婚以後、ストーナーは妻の異常性に飲み込まれ、また文学への探求心、大学教授の雑務などに追い立てられ、「救おう」と思ったことなんかあっという間に消え去ってしまったように読める。ストーナーは妻が自分や娘を前にして三人称で話しはじめても、娘に明らかに、娘の自我を損なう干渉をしていても、自分の書斎を勝手に妻のアトリエや物置として使われても、妻を怒りも叱りもしない。「君にとって結婚生活は失敗だったと思うけれど」と「優しく」宥和し、自分の失望や落胆を棚にあげ、直接生身の体や心でぶつかることを、試みたことも一度もない。

娘にはせめて救いを与えてあげてほしかった。娘は幼児期はストーナーに世話され、精神的にも安定した幼年期を送っていたが、イーディスが突如、娘への無関心から過干渉へと子育ての姿勢を切り替え、彼女を「女らしく」「社交的に」させようと、おそろしいほどの過干渉を行った。その後も度重なる、母から娘へのある意味で「典型的な」精神的な搾取によって、娘盛りには、自分が家を出るか一人暮らしをするかという問いに対し、「どうだっていいの」と言う言葉をつぶやくだけになってしまう。

 

 

ストーナーは娘が…その言葉どおり、絶望に寄り添いながら、幸せに近い生活を行っていることを受け入れた。この先も、年々少しずつ酒量を増しながら、穏やかな気持ちでがらんどうの人生に沈み込んでいくことだろう。父親として、少なくともグレースがその道にたどり着いたことを喜び、娘が酒を飲めると言う事実をことほいだ。

 

この話は祖母〜母〜娘の三世代に渡る毒親の悲劇の典型例として見ることができる。ここまで主人公が何もしないのに、ここまで克明に、はっきりと、三世代の女たちが自我を損ない、精神を病み、「がらんどうの人生」を生きていることが描かれるのも珍しい。ジョン・ウィリアムズはどこまでそれを意図していたのかはわからないが、これ以上ないほど克明に、はっきりと、鋭利に、女たちの心の状態、精神の荒涼さが刻まれている。

 その意味での記録は優れたもの、といえなくもない。けれど、そういう角度でこの小説を見ている書評が、目に着く限りほとんどないのがすごく気になった。

 

 

ストーナー

ストーナー