にしのひがしの

小説家志望の24歳女が本の感想を書いてゆくブログ。

しずけさ 町屋良平 文学界5月号

 

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あらすじ

鬱で仕事を辞め、自宅療養中の青年・棟方と、小学校五年生の笹岡樹が深夜の久伊豆神社で出会う。樹は大麻を栽培している両親により夜の二時から六時まで家を追い出されるため、警察に捕まらないよう、毎晩神社で時間を潰していた。棟方(「かれ」)は、小学校時代の同級生だった椚という少年を樹に重ね、彼を「椚くん」と呼び、樹もそれを受け入れる。会話らしい会話もせず、棟方はほぼ黙ったまま、樹だけが好きに喋るという関係だったが、 お互いにそれを心地よく感じる。 ある日 親の大麻仲間の一人が捕まったことから、樹は夜も家に居てよくなり、神社に行かなくなる。棟方も調子が回復しないまま就活を始める。二人は再び神社で再会し、樹の希望で棟方は翌朝の面接に彼を連れて行く。樹は初めて来た表参道に感動し、世界の広さを体感する。面接から戻ってきた棟方は樹に“Kid’s Mommy”(子供のミイラ)と書かれた寝袋を送り、樹の背が伸びたことに驚く。

 

***

 

こう書くと青年と少年の交流物語のようだ。そして、物語自らがそのような皮を被ろうとしていることも理解できる。でも、丁寧に読んで行くと、そういう話ではないことがわかってくる。というか、そういう話として読むには不完全さが看過できない。

棟方と樹は強い対称性をもつ。共通の内容、心理を時間差で語らせている。それはほとんど同一人物的だといってもいい。
二人は二人でいることで、どちらも「自己同一性」の辛さから逃避できている。その状況に甘んじるために、双方が相手に対して「いなくならないでほしい」「ずっとそのままでいてほしい」と強く感じる。お互いのニーズをお互いが知らぬままに満たし合っているという構図だ。棟方は樹のことを椚くんと呼び、樹の前では小学生のような、樹よりさらに子供っぽい態度をとる。棟方は会社勤め時代は自制が強いタイプだと説明され、それは「かれ」の退行、子供がえり的しぐさだと読み取れる。「じぶんのことばがこわい」、と棟方は思う。「からだもことばも壊れていて、自己同一性を偽ってくる」と。大人でいること、「じぶんのことば」が棟方には重く、「ゆううつ」の波に押しつぶされ、生き延びることで精一杯の状況にある。棟方が会社に行けなくなったのは、小学校時代ピアノ教室に行きたくないと母親に反抗したのと根本的には同じ理由である、と作中で説明される。それは「“ちゃんと行く”と理解されている自分に反抗したい」「強制と消極的同調から成り立つこの世のシステムへの反抗」だという。
樹もまた「自分を投げ出したい、笹岡樹の同一性こそがにくらしい」「笹岡樹という自己同一性を維持しながらまたこの夜をすごすのはこわい。自分が異物になって、自然はまたただの敵になる」という。樹は親から夜家を追い出されている自分を、「そう」と認めるのが恐ろしい。だから「椚くん」と呼ばれることに対して抵抗がなく、むしろ安堵の念を抱く。
「椚くん」とは、棟方に「大人ってのは自我がないよな」と言い、小学校時代の彼に「自分たちは社会に合わせて自我を失っていく」と悟らせた友達である。彼は現在はプロのフットサル選手になっていて、物語中でスター・ヒーロー的存在といえる。なので、作中で「椚くん」と作中で呼ばれ続ける樹は、健全に大人に成長してゆくこと、正しい過程を辿っていくことが運命的に示唆されている。

だからこそ、樹は親の変化を契機に生活が正常な状態に戻ると、社会に押しつぶされた棟方の辛さに思いを馳せ、「大人にがんばってほしい。すこし前までは、かれだけはまともになるのは許せない、とおもっていた。いまではもう、どうでもいい。夜をひとりで越えてゆく。椚くんじゃなくても、おれはおれで越えてゆく」というところまで行き着ける。そして棟方からは“Kid’s Mommy”を送られる(=子供の自分から卒業する)。それは、物語上の計略であり、システムだと思う。ただ一読して、どうして樹がそうなったのかは明瞭ではない。
物語の前半部、樹の、親に対するこどもの微妙で切実な気持ちの書き方は非常にリアルで巧みだ。たとえば「「やさしくしないで」といえたらどんなにかつよいだろう。しかし心底から両親にやさしくしてほしかったいつきくんにはそれがいえなかった。真心でなくてもやさしくしてほしいなんて、おれはなんていやな子ども。」とか、「いつきくんの両親はお酒をのむといつきくんにやさしくなる。どんどんお酒をのんでほしいといつきくんはおもっている」とか、「いつきくんは一挙につらくなり、さっきまでたのしくなんてなるんじゃなかったな、とおもった。うっかりたのしくなってしまうなんて、なんて迂闊だったんだろう」。
子供が親に抱く複雑な気持ちが描かれているだけに、「樹くんを夜外に出す」という行為をやめただけで、こどもの心の整理が描かれないまま、フワッと成長してしまう。そういうふうに感じて「惜しいな」と思った。だが、幾度か読み直して伏線に気がついた。

川は水中までぬるくなっていて、魚はよろこんでいる、明日には釣られる鮒が、川のながれをたのしんで泳いでいる。いつもよりたくさんの量が蒸発して、空気がずっとしめっている。 しかしねむらないと、傷を気にしてさわってしまうし治らない。_椚くんは目の前のかれが明日には無言に戻っていることがわかった。 (122)

下線部は裏を返せば、「たくさん眠る」ということは、「治る」と繋がり、「成長」に導かれていくと読める。それは法則、あるいは力学だ。これに則って、親から追い出されなくなり、家でゆっくり眠れるようになった樹は、心身ともに成長する。序盤でも樹は炬燵のなかで眠るシーンで、確かに彼は成長の萌芽を見せている。

おおきくなる。つよく逞しく、この夜を越えてゆけ。いつか家を出る。親を越えられる。社会を越えて、個人を越えて、おれは自分自身になる。自由を不自由に当てはめ、不自由を自由に当て嵌めて、ことばを探し、ひとりで生きられる。ぜんぶをはなせる親友と、ぜんぶを表現できる言語領域を獲得し、ひととわかりあう。いまはむりだ。だれにもいえない。なにもいえない。けれどいつかは、おれはやる。(120)

この決意は、ラスト周辺ですこし言葉を変えながら反復される。

夜をひとりで越えてゆく。椚くんじゃなくても、おれはおれで越えてゆく。きっとこの世界は、おれがおもっているよりもっと辛い。もっと厳しい。関わることのない他人の辛さを肌で味わって、それでも自分の生活を設けていくのはとてもたいへん。もっといろいろなことをしりたい。いろんなひとが、どんなことを辛くおもっているのか、ちゃんとしりたい。(151)

「眠り」はまた「夢」とも関連する。『しずけさ』では夢がかなり特異な地位を占めている。夢は逃避先でもあり、成長の場でもあり、あらまほしい自分の姿でもある。
だからこそ、棟方は夢の中で、今の自分が失ってしまった感情を奔流させる自分を羨ましく思い、「ゆめのなかで[失ってしまった]じぶんのことばと再会する」。(137)
樹は、夢・夜・眠りの中で成長した自分を現実——昼の世界に還していく。それで、「夜のしたでも、じっとおなじ場所にいることはなかったのだ。自分の足で世界を拓けばよかった」(151) と述懐するに至る。少し説明不足感があるのは仕方ない。やはり樹の成長に関してはもう少し描写が要ると思う。ただ健全に育つと物語にセットされたから、育ちました。そういう感じがどうしても残る。

それを考慮しても、まだ、『しずけさ』にはどこか煮え切らない印象が残る。結局棟方は樹に対する「甘え」からどのように抜け出したのかが不明瞭であるという点だ。定石であれば、棟方は樹との出会いを通じ、その眩しい姿とか純粋さに影響を受け、社会復帰への一歩を踏み出す、という筋なのだろうが……。読んでいると、むしろ、棟方は樹に「甘えていい」」とする潮目が作中に遍在する気がした。

処女作『青が破れる』でも、町屋氏は、作品のラストシーンにおいて、少年・陽を、主人公にとって「結晶のように純粋で「果てしなく甘えられる恋人みたい」」な存在として描いていた。

 

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『しずけさ』にも同じ力学が働いていると考えられる。「少年」は「青年(主人公)」にとって、恋人のように、母のように、甘えられる対象、甘えをゆるす存在なのだ。
だから、棟方は、小説の中でうつ病をかこって少しずつ進み始めはするけれど、樹への「甘え」から明瞭に脱しようとはしていない。おそらく、今後の展開としては、むしろ樹が棟方のつらさ、苦悩を理解し、彼を守るようになっていく、という方向にいく予感がある。
だからこそ…『しずけさ』の読み味は奇妙で、肩透かし感がある。変則的なボーイミーツボーイ、といっていいのだろうか。実のところよくわからない。詩のような文体で、鬱病の状態や、少年の心理が巧みに描かれている。けれど核にあるのは、"大人が甘えられる"少年という、少し倒錯的にも見える構図だ。それは或いは無垢だとか、無性だとか、幼年期だとか、還る場所の象徴であって、少年そのもの、ではないのかもしれない。今はまだよく、わからない。