にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

「しんせかい」 山下澄人

 

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++あらすじ

 19歳のスミトは間違えて配達された新聞で見つけた俳優脚本家の養成所に通うため北海道の奥地に赴く。その動機は希薄であり、芯から俳優や脚本家への夢を抱いているわけでもなく、講師の名前も知らないまま入学に至っている。そこは入学授業料がかからない代わり農作業や馬の世話、小屋の建築なども自分たちで行うことになっており、スミトは他の二期生と過酷な共同生活を送る。その間に地元の女友達の天は結婚し妊娠する。二年期間のうち一学年上の一期生が卒業していくまでが描かれる。

 

「それから一年間谷で暮らした。一年後谷を出た」

というラストの一文のように、事実というか小説の中で起こる出来事・事件・事象と、それに起因するスミトの感情・思考・気づき・心ーーというものが隔絶されている。ドライとか人間関係を遮断しているのではない。ただどこか焦点が合わない。読者に対しても開いてはいない。自己紹介もしないし、状況説明もしないし、前後説明もほとんどしない。それに起因する自分の感情も、その無感覚性についての説明もほぼしてくれない。筆者が脚本畑の人間というのもあると思うが、一般の小説文芸とは違うやり方をしたいのだと感じる。身も蓋もなさと紙一重の、何か、を掬いたいのではと思う。時と時、事象と事象、会話と心の間隙にある、ピュアで清冽な「何か」。

木訥というか愚鈍というか純粋というか朦朧というか、暈けたようなスミトの現実認識、思考。彼は鋭敏というよりは無論惚(ほう)けている。あるいはスミトには自我というものがないように見える。肉体の苦しみとか、物理的な運動の辛さ、というのは記述するけれどそれだけで、脚本家の養成所に来た動機も驚くほど希薄だし、過去に自分がセックスした相手も思い出せない。自分が希薄だから「高倉健みたいになりたい」「ブルース・リーみたいになりたい」ではなく「高倉健になりたい」「ブルース・リーになりたい」と言える。周囲とはほどほどに仲良くなっているようだけれど、それも自我が薄いゆえにぼんやりと相手と同期することができるからだという感じがする。

彼のわかりづらい、行き来する内面世界を、同様に行きつ戻りつしながら読み取るうち、一体何を強く感じ、何をこの世界から(彼の現実から)受けとるのか、ということに興味が湧いてくる。けれどその虚を突き破る決定打になるものはなく、ただ過ぎ去るもの、過ぎ去るコト、に集約されていく。

空には大きなおおぐま座。腰から尻尾が北斗七星だ。それは今光っているのではなく今より前、過去に光った光だ。おおぐま座は過去だ。目に見えるかたちとしてある過去だ。ここでならひとつひとつの星の微妙な色の違いまでわかる。過去の色の違いがわかる。(40)

冬は続いた。三期生の試験が行われると聞いた。来る日も来る日も寒くて冷たかった。あらゆる緑があちこちにあった夏をまったく思い出せなくなっていた。それでもこの星はものすごい速度で太陽のまわりを回っていたから、熱と光の最も届かぬ位置から抜け出して、春が来た。(115)

彼は何かを求めているのだと思う。求めているが、彼の気を惹くものはない、出会えていない。その段階が描かれている。それは19才という年齢設定にも表されている。その空虚で希薄な目線が、山や海、遠くの星、今ではない時間になった時、パッと合う。彼固有の虚ろさと、時や自然のそもそも包含する虚無性が重なり、透徹していく。
スミトと自分はずいぶん違うようにも思えるが、自分の生の中の体験を強く感じるか鈍く感じるかという差違だけだと気づく。結局人間は時間の流れの表層を滑るだけの生きものだと。

人との出会いや出来事は描かれていくが、彼の内面に共鳴するものではなく、養成所のあり方だって、先生の弁達にも、周りの女も期待外れどころか期待すらもはっきりとは抱いていないようだ。そこにエンターテイメント性はほぼない。この点で『しんせかい』は文体・語りに偏重した作品で、純文学くささを感じるし、芥川賞と言われればああ、とは思う。ただ万人に響く作品かと言われればどうもそうではなさそうだ。疲れた時ものが二つに見える、あの感覚と似ている。あれを覚えた人であれば、惹かれる部分のある作品に見える。

『率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたかどうか』でもスミトは彷徨う。脚本の試験を受けるため新宿まで出てきて、なんども迷いながら歌舞伎町を目指し、ふと死にたいと思い、ホームレスに誘われテントに入り、ホテルに戻り、眠らないまま新橋に行く。受かったので倉庫の仕事を辞める。

この話は虚構のものというアピールが二篇ともに入る。それがさらに作品の空虚感を強める。冬の描写を含めて、寂しさが募る。つながり、真実、信頼、というものがないからか。語り口の鈍さとは一見相反するほどに冴えた寂寥が漂っている。