にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

(日本人)橘玲

生物学、歴史学、人類文化学、経済学、倫理学(平和・正義)、思想哲学(民主主義、グローバリズム)、宗教学などを綜合して、本来の日本的人間像や欧・米圏との相違性を探る。章ごとで一冊本が書けるくらいの内容を披瀝するので密度が濃く読むのにカロリーが要る。とりあえず本書の紹介として表題の「(日本人)」論として直裁的と思われる箇所を抜こう。
日本人像として古典である新渡戸稲造「武士道」、ベネディクト「菊と刀」はどちらも日本と繋がりの薄い著者により英語で欧米人向けに書かれており、ロマン的な側面を多く含んでいた。日本はこれを後からいわば逆輸入し自らのオリエンタリズム像を創っていった。また、日本特有といわれる閉鎖的で和と妥協、多数決・全員一致を志向するあり方は、国の別なく全農耕社会に共通する特徴で日本独自の性格ではない。
あらゆる湿った思い込みを排して調査してみると(イングルハート「世界価値観調査」)、日本人は傾向として権威や権力を特に嫌い、血縁・親子の意識が弱く(アジア圏で我が子を勘当して養子をとる風習は日本以外特異であった)、自分らしい生き方を好む、損得的かつ世俗的な合理感を持った民族だという。

(以下にも詳細あり)

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世界各国のなかでも第一に「権威や権力(超越者)を嫌う」という特徴を語るものとして、橘氏は、日本には古典的アニミズム(自然崇拝=自然神)は存在するが、ユダヤ教的”絶対神”や、インド仏教的な”真理としての法”も根付かなかったことを述べている。
この点では先日読んだ岡本太郎の『沖縄文化論—忘れられた日本』とも共通する点があり面白かった。

 

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岡本氏は沖縄を分析しながら、ここには東アジア的でも東洋的でもない、確固とした日本独自の文化、感性というものが存在すると考察する。そして日本人はオリエンタリズムとか大東亜共栄圏というものを重視しすぎ絡め取られすぎてしまっていると述べる。岡本が想起する「日本人らしさ」とは何だろう。それはまとめれば「およそオウヨウではないのに、不思議にものにこだわらない。別な言い方をすれば、物の重さに耐える粘り強さがない。ものを土台とした文明に対して、何か違和感がある」ということ。彼は沖縄の人の生き方についてこう記述する。
「人々は久しく、厳しい搾取と貧困にたえながら、明朗さをもちつづけた。こだわらない。だが投げやりではない。呆れるほど勤勉に、せっせと働く。根こそぎされたら、また作りはじめる。とばされた屋根は、また適当に拾ってきてのっけておく、といった具合。また次の台風までもてばいいというような、こだわらない建て方である。そのようにして民衆は永遠を生きぬき、生きついできた。」

また、沖縄の天然痘による疱瘡すら「美ら瘡」と呼び習わす文化について、「強烈に反撥し、対決して打ち勝つなんていう危険な方法よりも、うやまい、奉り、巧みに価値転換して敬遠していく。無防備な生活者の知恵であった」(139)と述べる。この精神風土は、只管脅威を崇め権威を敬うというよりは、どことなくドライであり処世的な身軽さをうかがわせる。そしてこれは「損得を基準とした世俗的な価値観をもつ」とか「権威は嫌い自分らしくあることを尊ぶ」といったイングルハートの調査による日本人の特徴と不思議な重なりをもって見える。
ただ、かといって日本が全く東アジアから分離した精神風土を持っているかというとそうではないらしい。物事の判断基準や着眼点として、東アジア人は共通する特徴があるし、5歳の時点でアメリカ人と東アジア人の認知傾向の差は現れるという(ニスベット)。このような多層の精神風土が「日本人」の微妙な綾を織り成しているといえるのは興味深い。
血縁・地縁と繋がりが薄い日本人の現代に生き続ける強固な拠り所とは「ムラ」あるいは「イエ」だと本書はいう。この「ムラ」「イエ」は、社会人であれば会社、主婦であればママ友、学生であれば学校として現れる。自分が属する組織や共同体ということだろう。この一辺倒なムラ意識を病巣として孕むがゆえに、日本の雇用や政治形態は欧米にはない歪みを持たざるを得ない。それはそもそも国としての成り立ちの問題であり、気軽に変えられるものではないという。本書はアメリカの起源と歴史も概観しているが、その対比により、両国のもつ感覚(肌理)の差異を教えてくれる。正義や解放というアメリカで頻繁に叫ばれる言葉が、日本ではどことなくしゃっちょこばった印象をもってみえる理由がわかる気がする。不謹慎かもしれないが、そういう概念は日本の風土にはそもそもの馴染みがないのである。本書を読んでいるうち、単にどのような制度が存在しているか、というところではなく、なぜそう成り立ったかという端緒の部分の考察が大事であると思わされた。それによってこそ、お国柄というかその民族の特徴が理解できる。
また第9章でなされるグローバリズムは一種のユートピア思想というのも興味深い指摘だ。本書はこのような他分野にわたる知識をつなぎ合わせながら、現代日本の政界分析や有限責任の不在の議論へとたどり着いていく。これまでのトピックと同様、いたずらなイメージや政権批判ではなく、冷静な構造解析からその本質的な瑕疵を指摘していく姿が見事だと思う。さまざまな知見から「日本」という像が有機的に浮かび上がり、本質をむき出していく様に感銘を受ける。
そして、議論は最終的に「日本にグローバル化は可能か」という問いかけに、「それはものすごく難しい」(位置No.3494)と答えることになる。ただそれは日本には希望がないということではない。むしろ日本人はその特異な風土感覚によって、世界民族中もっとも希望に近い場所に立っているのではないか、と彼は主張していく。詳しくは本書を読んでもらいたい。

ときおり知識の披瀝を目としていると感じるほどにトピックは多く、章ごとに移り変わっていく。本書は現代的知見を集めたベンチマークとして価値はあると思う。ただそれゆえに時々雑学本的な様相を呈するのが少し読みづらくもあった。ある意味で継ぎ接ぎなので結論が正当な帰結かどうかの判断が読者につきづらくもある。ただ主張の展開には白眉たるものがあることは否めない。主張展開のしかたというか、話のつなぎ合わせ方に技術を感じる。専門は政経分野だと思うが基本的に知識を得るのが好きな人なのだろうが、それだけではなく知識の断片をつなぎ合わせ自分の主張に沿う結論を導き出すのがうまい。
あとがきで彼は「もちろん私はなんの専門家でもなく、この本のアイデアはすべて先行する研究や著述に負っている。」と述べているがその通りで、引用元も専門書ではなく新書や近年話題になった一般書など、一般人でも普通に読むことができるものばかりだ。最初に「エヴァンゲリヲン」を持ってきて読者を惹きつけるところなども、橘氏のセンスに依るところが大きいのだろうと思う。