にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

本谷有希子『How to burden the girl』―美少女とオタクの現代民話

最近大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいた。大塚氏は大学時代民俗学を専攻し、自身の著作や批評にも民俗学的切り口が多く見られる。非常に納得させられるものがあり、氏の論考はかなり好きだ。 

サブカルチャー文学論
サブカルチャー文学論
  • 作者:大塚 英志
  • 発売日: 2004/02/14
  • メディア: 単行本
 

 
私見では本谷有希子氏もまた民俗学的――民話・おとぎ話的要素を多く自作に用い、成功している作家だと感じている。それどころか、彼女は真の現代版民話を書ける数少ない作家であると思っている。先日読んだ『嵐のピクニック』収録の「How to burden the girl」という短編について書いてみたい。 

 

嵐のピクニック (講談社文庫)
嵐のピクニック (講談社文庫)
 

 

How to burden the girl 

元々は魔法少女ものアニメと、そのオタクから発想を得たのだと思う。
父親と実家暮らす34歳のニート男と、その隣の豪邸で父親と5人の弟たちと住んで悪の組織と戦う少女の話。
収録されている『嵐のピクニック』の全編にいえるのだが、この設定も基本シュールだ。しかも皮肉な視点である。風刺といってもいいかもしれない。
少女はピンク髪とエメラルドグリーンの目をしていて、「映画の中でしか見たこともない」長刀を振り回して敵と戦っている。彼らは少女が泣くときに出る「血の涙」を狙っているらしい。黒マント・黒マスク・黒ずくめの見るからに悪の組織は、毎回豪邸に襲撃をかけ、少女と戦い、その血の涙をスポイトで奪ったり、散り散りに追い返されたりする。近所の人間が気づかないのは野球場が近くにあるせいらしい。


男は「おれは女の子のスカートから出ている太ももがいいと思っただけだった。ピンク色の髪の毛も、エメラルドグリーンの目のことも、異常だと言われれば異常だったけども、深くは考えなかった。そもそも女は最初から、自分とは別の生き物だと思っとるんだ。外の世界に興味を持ったことがほとんどなかったから、そういう女もいるのだろうと思った。」と語る。「思っとる」というのが独特だが、この口調は意識的だ。彼女とともに住む子どもたちが殺されていくことに対し「なぜ葬式もせん。なぜ警察が来ん。」と突っ込んで、この文体ならではの味でおかしみを増させている。またそれで男の人となり――呑気というか、間の抜けた感じを表してもいる。

組織の人間が、なんで彼女をどこかに連れて行かないで律儀に一回一回襲ってくるのか、とか、弟をシェルターみたいなところで守るわけにはいかんのか、とか、いろんなことがお約束になっとる、とは思ったけど、俺はそういう細かいことはあんまり気にならんたちだった。

 

 ここで男も指摘するとおり、少女を取り巻く何やかやは「お約束」として展開していく。
その悪の組織によって、5人の男の子は殺されていき、ある夜、残った父親もまた惨殺される。男は女の子があまりにも可哀想だと思い、戦闘の後、死体に囲まれた少女に声をかける。「君を理解してあげられたらどんなにいいか」。
血の涙に泣き濡れる少女は、それを受けて事情を語り始める。男にも読者にも全く予想外の方向の話だ。

少女は父親を異性として愛するあまり母親に嫉妬し、彼女のせいに見せかけた事故で大怪我を負うことで、両親を離婚させ、父親との二人暮らしを手に入れた。彼女は父親を誘惑し、一人の息子をもうける。そこで少女に異変が起きる。天罰のようなものによって、彼女の髪はピンクになり、切ってもすぐに腰まで伸びるようになってしまった。目の色も黒からエメラルドグリーンに変わった。性交渉なしでも妊娠し、地獄のようなつわりや陣痛が続いた。五人いる男の子のうち他の四人はそういうふうにして生まれたという。そして目からは血の涙が流れるようになる。夫と娘に裏切られた母親は、復讐のために悪の組織に入り、少女に襲撃を仕掛けてくるようになった。
身の上を語る内に少女は半狂乱になり、自分の気持ちを理解したいと言うなら、男にも自分自身の父親を誘惑してほしいと迫る。男は逃げ出す。 

 

おれは彼女の手をほどこうとした。彼女は放さなかった。まるで何かもかも打ち明けて、楽になろうとしているみたいに彼女がまだ何か話そうとするので、我慢ができなかった。おれは腕を掴んでいる彼女の腹を思い切り蹴ると、身体をめちゃくちゃに動かして庭に転がりながら飛び降りた。…自分の家のほうに走ったつもりだったのに、そこはいつも悪の組織が去っていく彼女の家の裏の林で、おれはいつまで経ってもそこから逃げ出すことができなかった。…ふと気づくと、土の盛り上がってる箇所が数え切れないほどあって、彼女たちが毎日殺していた組織の人間を埋めた跡らしかった。

 

本谷有希子氏は『異類婚姻譚』で芥川賞を受賞したが、その題名からもわかるとおり、かなり意識的に民話・寓話の舞台装置というか、仕掛けを作中に潜ませる。これが彼女の作品群の何とも言えない魅力に一役買っている。

この辺りは、語り手が正体を現した怪異から逃げだすが知っている場所に出られず、異様な光景が続く、という昔話でよく見る展開だ。けれども効果的だしぞっとさせられる。今まで「悪の組織」との「戦い」という言葉によってかかっていた「幻」が溶け、グロテスクな現実が露呈する。先の少女の自己開示もそうだ。男だってそれは知らなかった。男はそもそも見積もりがあまりに甘く、考えが浅はかなのだ。

民話でいうところの、狸に化かされる猟師といったポジションだ。アニメオタクのテンプレートな印象をうまく使って民話風に仕立てているといえる。

少女の身の上に起こったことも民話的だ。禁忌を犯した罰によって、異形のものに姿を変えられ、悲痛な運命が待っている。その「罰」が「アニメキャラ(っぽい存在)になること」なのが面白い。石に変えられたり怪物に変えられるのではない。彼女のそれからは語られない。語り手である男が彼女の元を逃げ去った時点で終了する。そこもまた想像の余地が残り、読者に強い印象を与える一因となっている。
幕切れもまた民話的だ。命からがら逃げ帰った男は、「次の昼、食事を運んできた親父を見るなり、俺は昨日の晩のことを思い出して、親父の作ったものを食べる気にもならんかった。喋る気もせん。」これで終わりだ。この落語のようなあっけない落ちの付け方にもまた面白みがある。滑稽さと同時に伝統の裏打ちを感じさせるのだ。


『嵐のピクニック』の他収録作品をはじめ、本谷氏の短編が奇抜なだけではなく、説得性に富み、紛れもない現代文学でありながら昔話の苦味、奥深さを感じさせるのは、このあたりが理由なのだろう。私が本谷氏が真の意味で現代版民話を書ける作家だと思うのも、そこからである。

書記バートルビー

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  • まったくの虚無状態に陥り次第に何もしなくなっていくバートルビー。そんな男と相対した人間の、戸惑い、苛立ち、同情、疑い、諦め、保身、親切心、寂寥といった心の機微が書かれる。「しない方がいいと思います」。どんな要望もそう返され、静かに無視される。精神病について多少の予備知識のあるつもりの私達も、結局語り手と似たような経過しか辿れないだろう。完全に閉じてしまった人に対して、他の人間ができることなど皆無だ。関係の無力さ、断絶について考えさせられる。傍役の助手たちのキャラが立っていて序盤にコミカルさを与えている。
  • 単なる精神病者バートルビーの経過(悪化)、という単純な読み取りでは、物語の素晴らしさを損なってしまう。亡霊のような/透明人間のようなバートルビー。自分に興味がないのか、既に麻痺してしまっているのか。やんわりと、だが断固としてすべてを拒み続ける様には異様な清冽さがある。理解不可能な一つの謎というイメージは、石や屍と同種の美に到達している。印象は儚くさりげない。けれども妖怪じみて不気味だ。彼の人物造形は人の心の空隙に入り込み、忘れがたい印象を残す。
  • 虚無に呑み込まれたバートルビー。刑務所内の美しい庭で、石のように目を見開いて横たわるラスト。生きながら屍と化したバートルビー。解き明かされない謎、届かない手紙、伝わらない言葉、生きられない人間。
  • ビジネス街の奇譚として、心理小説として、ちょっとしたホラー小説として、現代コメディ短編として、さまざまな角度から鑑賞できる話でもある。軽くも読めるし、深くも読める。ドゥルーズをはじめとして多くの議論・解釈を生んできたのはこのためだろう。考察を誘うところがある。寓話的な口当たりのよさと、バートルビーが陥った虚無の深さの現代性/不釣り合いさ。そしてウォール街の法律事務所という舞台設定(あとの二つは相関しているのかもしれない)が白眉だ。
    1. 「変質狂、悪魔」
    2. 「天使または聖なる憂鬱症」
    3. 「通常の生活を行う通常の人間」

   に分類される。バートルヴィーは1と2の複合型のキャラクターだと思える。

  • また『北米探偵小説21』(野崎六助)では、バートルビーが通達不可能手紙の仕分け人だったという過去が、ポオの『盗まれた手紙』と絡めて「死者」という観点から論じられている。著書の野崎氏は、『バートルヴィー』は変種の探偵小説だという。探偵小説世界の[探偵]は、「死者の代理人」としての任を負い登場するが、本作のバ―トルビーは「死者としての探偵」による、探偵小説[以前]かつ探偵小説[以後]の時空に存在するキャラクターである、と分析している。(91ページ~)

 

 

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

ドゥルーズと狂気 (河出ブックス)

 

 

 

北米探偵小説論21

北米探偵小説論21

  • 作者:野崎六助
  • 発売日: 2020/06/20
  • メディア: 単行本
 

 

 

物理的にも精神的にも重い本

 

 

 

 

 

 

『北米探偵小説論21』という本を読んでいる。図書館で偶然見つけたのだが、圧巻の1200ページ越え・しかも二段組みという「文量」を誇る。

 

北米探偵小説論21

北米探偵小説論21

  • 作者:野崎六助
  • 発売日: 2020/06/20
  • メディア: 単行本
 

 単著としても圧倒されるんだけども、この本の前身に「北米探偵小説論」というこれまた同じくらいの分厚さの本がある。それは約30年ほど前に出版されたものらしい。つまり、この野崎六助という人は、北米探偵小説研究に一生を文字通り捧げているのだ。

 

北米探偵小説論

北米探偵小説論

 

 

しかも、 その研究範囲が半端でない。

まだ『21』を350ページくらいしか読めてないんだけれど、それでも、野崎先生が語る「探偵小説」の射程が、通常想像するそれとかけ離れた域まで届いていることは判る。だってそもそも本の題名が「北米」なのに、ドイツもフランスもロシアもスペインも日本の小説のこともがっつり取り上げている。探偵小説の「隣人」であるゴシック小説や幻想小説への目配せはわかるにしても(とても「目配せ」のレベルではないが)、通常はおよそ「探偵小説」には含まれないだろう『東海道四谷怪談』などもこともなげに分析対象にカウントしていく。ゾラ・フーコードゥルーズドストエフスキーゴーゴリ古今東西のあらゆる哲文学者を議論の俎上にのせ、自由自在、縦横無尽に、ジャンルレスな議論を展開していく。それはありのままの「文学」という生き物がうごめくさまを見ているようでもある。

議論はひどく面白い。早くこの本の・彼の研究の全貌が知りたくて、分厚いページを前にうずうずしてしまう。
だが、それとは別に、あまりに広すぎる領域に眩暈を覚えるのも事実だ。章立ての間に野崎先生自身が述懐する、この研究に捧げられた膨大すぎる時間の「量」に圧倒される。ひとりの人間、ひとりの若者の情熱、もっといえば妄執に近い何かが、30年、いやおそらくはこれまでの生涯をかけて、この広大な研究、未踏の著作をうみだした。その代償に実生活で払ったものは多かったろうことも察せられる。

慨嘆の声しかない。ないけれど、この研究が何処の、何に、捧げられて、何に対して、報われるのかということをふと考える。考えてしまい、それに対しての答えは、これを受け取り、読んだものが、また、これを咀嚼し、解釈し、受け、発展させる、という形をとることにあるのかなと考え至る。その受け継ぎ、受け継ぎの形が、学問であり、発展であり、進歩であり、洗練なのだ、とも思う。

重いなあ。

ふと思う。重い。重いけれど、その凝集が、学問なのか…。そう考えると、結構な狂気の沙汰を、私たちは日々しているんだな。それほどのことを正気だと信じ込みながらさせるものの、引力というか…魅力という言葉ではとても足りない、魔力というのが近いだろうか。「それ」にはとにかく度はずれたものがある。その結果が1200ページ越えの本を物すこと、というのは、一体それはどういうことなんだろう。ヤバいという言葉は出てくるけども、いい方にヤバいのか悪いほうにヤバいのかわからない。狂気の沙汰か、妄執か、偉業か。その熱量を受け止める方もそれなりの準備がいる。し、差し当たって私が直面している問題はそれである。

『笹の舟で海を渡る』角田光代 感想 

 

笹の舟で海をわたる

笹の舟で海をわたる

 

 

終戦から10年、主人公・左織(さおり)は22歳の時、銀座で女に声をかけられる。風美子(ふみこ)と名乗る女は、左織と疎開先が一緒だったという。風美子は、あの時皆でいじめた女の子?「仕返し」のために現れたのか。欲しいものは何でも手に入れるという風美子はやがて左織の「家族」となり、その存在が左織の日常をおびやかし始める。うしろめたい記憶に縛られたまま手に入れた「幸福な人生」の結末は――。激動の戦後を生き抜いた女たちの〈人生の真実〉に迫る角田文学の最新長編。あの時代を生きたすべての日本人に贈る感動大作!

Amazonより)

 

 

『笹の舟で…』は複合的な読み方ができる小説と感じる。例えば風美子の話は果たして真実なのか、というミステリぽい見方もできるし、母親からの愛を実感できず、現代的な叔母になつき、居場所を求めて日本を飛び出す長女百々子の視点に立ってもいいだろう。幼い少女のときに戦争になり、それを拒みようもないまま、大きな理不尽に晒された佐織の理不尽さを読んでもいい。学校に行かなくなった百々子に自分は戦時中で学校にいけなかったと言う佐織。そして、彼女の述懐は「百々子に頑張れと言いたかったのではなくて、よく頑張ったと言われたかったのかもしれないと、子供のように思う」と続く。戦争という理不尽に押し潰され、記憶の中に押し詰めたはずのその未消化を、娘にむき出し、そしてその娘から軽蔑と不信が帰ってくる、女性の姿。人のあり様。

因果応報ということが、現実にそうか(たとえば疎開先の子供たちが風美子をいじめた罪は、後年彼ら自身に跳ね返ってくるのか)というのがいちおう表面的な問題としてでてくるのだけれど、それはどこか薄ぺらい。それはかつて風美子をいじめた女性を心の中で譏る佐織自身が、実際は傍観者であり、共犯の立場にいかねないことをどこかで棚にあげているからだ。そのような「罪の重さ」の比較自体に意味はあまりなく、過ぎたことに罪悪や、正当性を見出そうとしても、結局は、できない、それは徒労であり、そして何かむだである、ということが、作品の端々に感じられる。戦後から平成という時代そのものが「過去を忘れようと」動いているということもある。結局のところ記憶というものは、無意識であれ意識的であれ隠蔽されたり捏造されたり、薄れたり、改竄されたり封印されたり、そしていずれは人とともに失くなっていくのだし、ひとつひとつ、ひとつひとつの軽率や無智や咎を、悪口や暴力や行き違いや忘却や反感や嫌悪を、いじめを、いびりを、裁く能力をもつなまみの人間な結局のところ居ない。それは男というよりかは無数の女たちの歴史といった方が当たっているように思う。嫁姑の歴史、母娘の歴史、女友達、そのような間柄で繰り返されてきて繰り返されていく経験。日常の皮肉、誹り、当てつけ、折り合えなさ。本作では、といういうよりか角田光代の小説では、そのような女たちの有様が生々しく描かれる。彼女たちは弱く、怯懦で、人らしく濁り、生きている。人の生、家庭という営み自体が「笹の舟で海を渡る」ような営為であり、大いなる理不尽、変化、理解し合えなさは常に押し寄せ、舟は難破せず耐えているのがやっとという有様なのだ。皮膚を持ったにんげんは、きっと大半がそのように生きるということが感ぜられてくる。強くも賢くも尊くも特別でもない人間。断罪も信念もなく、通底のように響いてくるのが夫の温男の言葉である。「何ものにもなれない人間の方が圧倒的に多い。何ものにもなれないことは、べつに悪いことじゃない。力もないのに何ものかになろうかとあがく方がみっともない」。
娘の百々子は、アメリカに独断で留学を決めて家を発つ。その門出で自分に向かって軽蔑をあらわにし、母親の生き方を否定する百々子。
「あなたみたいな生き方はまっぴら。なんにも逆らわないで、抗わないで、自分の頭で考えることもしないで、与えられたものをただ受け入れて、それでいて、うまくいかないと全部他人のせいにする」(位置No.4539)。それに佐織は心の中で反発する。
「人生も親も自分で選べると思っているの? ふざけるんじゃない。そんなことができるはずがない。何を言っているの。何に逆らって何に抗うというの? どうして何でも自分でできると思う、なんでも手に入ると思うの?」(位置No. 4558)。それは旧時代の中で生き、戦争という理不尽に否応なく押し流され、何も知らず何も知らされずに、ただ時という海に「流され」てきた、弱い舟人の持つ世界であって価値観だ。「古いのかもしれない、でも、断じて間違いではない。だから諦めるしか仕方がない。みんな好きなように生きればいい。」(位置No.5218)

温夫も割と謎のままなのだが気にならざるを得ない人物でもある。静まり返った会話のない家庭で育ち、青山文化大学の文学教授を勤め、平凡な妻を娶り、全共闘時代を経て、小説を挫折して、定職につかない酒浸りの弟は転落死し、文学書の紹介の新書をしたため、娘は国際結婚し、息子が同性愛者であることを受け入れ、妻を残し癌で先立つ。因果応報について尋ねる妻に、「いや、悪も正義も人生に関係はない。違うかね。君、もっと本を読みたまえよ」(位置No.5323)とだけ言葉を投げかける。温和で出すぎたところのない、思慮深い人物だと感じられる。推測できるほどの断片はなげかけつつ、深い思考には立ち入らない人物造形はプロのあえての距離を感じる。

若き日、温夫に嫁ぐ前に彼の実家に訪れた佐織は、その家の「静けさ」に戸惑い、密かに恐れ続けている。けれど「静けさ」は結局どこにもついてくるのだ。結婚し子供を産んでも「静けさ」に囲まれながら、結局は血の繋がらない他人といることが、人間の、どちらかといえば平均寿命の長い女性の、一般的な生となる、空虚をどこかに託ちながら在り続けることを描いている。
佐織は毒親ではない、ないが築いた家や家庭を満足とは感じられなかったし、私のような血の繋がりをあまり信頼できない人間はなんとなくそれに救われる。すべて目まぐるしく移り変わるが、子の節目や葬の折に集まりながら、家族はそれぞれ別の場所で生き、夫や友人、集合住宅の他の住民など、血の繋がらない他人に囲まれて生は過ぎ去る。それは変わらないのだと。少し安堵させられるところがなくもなかった。
それでも、家庭内の瑣末な不和を抱えながら、佐織が辿り着くのはホテルのようなシニア施設であり、表面的には幸福な家族像であり、芸能人で美貌の義姉との友人関係なのだから、やはり、彼女は現代の一般的な基準でいえば、幸福なのだと思う。一応は「軽やかで静か」な老後。夫の残した財産と満額の年金で営む老後が、非常時には同居を申し出る二人の子供を頼れる老後が待っている。
そう、ちらりと仄見える時代への眼差しがこわい。作中で、平成の日本は「忘れたいいやな過去を捨てた」という。世の中は全員で決めごとをして、戦争や敗北、貧困の時代を忘れ、きらびやかで派手な時代を迎えた。そしてそれも過ぎ去った今では、「きらびやかで派手で豊かな時代なんてなかったことにしてしまおう」(位置No.5510)と、「どういうわけか、みんなで決めているのだ」、と佐織は思う。佐織はそうやって「キラキラ」の世界、多様性を指向する世界の中で切り捨てられ抹消される古い一般像ではあるのだろう。しかし、だとしてそれは、正だろうか?過去を喪くした時代というものは本当に一義的に良だろうか?
『笹の舟で…』を読みながら、1993年生まれの私は 平成に入る前まで、日本人は巨きな流れを生きていたのだと感じた。昭和天皇崩御をうけて不仲の娘にまで電話を掛ける佐織の行動は私には全く意味不明だ。けれど、戦争、高度経済成長、大学紛争、バブル、天皇、という連帯が、マイホーム、家族、という太い潮が昭和では確かに肌のレベルであったのだと気づく。その流れを喪い、過去を喪い、そうやってたどり着くのはどんな時代でどんな未来だろうか。私たちの老後は明らかに、佐織よりも貧しいものになることは確かなのだ。本作の初版は2014年9月で、阪神淡路の震災は書かれていても東日本大震災については扱われていない。その平成をも越えて令和になり、そして今は? なんだかひどく心細いような感覚が残る。

角田光代の小説には全て、人が封印してきた未消化の感情を掻き立てるところがある。もしかしたら彼女は作家として自分の母の物語を書いたのではないかとふと感じる。佐織は平凡な誰にでも心当たりのある生だろうと思う。ある意味で昭和の女性の典型像といってもいいのではないか。それが小説になって書かれることに、少し感嘆する。実際は過ぎ去った時間だということに気付かされるのだ。この本は『本の雑誌』2014年のベスト1位になった理由がなんとなくわかる気がする。

 

(日本人)橘玲

生物学、歴史学、人類文化学、経済学、倫理学(平和・正義)、思想哲学(民主主義、グローバリズム)、宗教学などを綜合して、本来の日本的人間像や欧・米圏との相違性を探る。章ごとで一冊本が書けるくらいの内容を披瀝するので密度が濃く読むのにカロリーが要る。とりあえず本書の紹介として表題の「(日本人)」論として直裁的と思われる箇所を抜こう。
日本人像として古典である新渡戸稲造「武士道」、ベネディクト「菊と刀」はどちらも日本と繋がりの薄い著者により英語で欧米人向けに書かれており、ロマン的な側面を多く含んでいた。日本はこれを後からいわば逆輸入し自らのオリエンタリズム像を創っていった。また、日本特有といわれる閉鎖的で和と妥協、多数決・全員一致を志向するあり方は、国の別なく全農耕社会に共通する特徴で日本独自の性格ではない。
あらゆる湿った思い込みを排して調査してみると(イングルハート「世界価値観調査」)、日本人は傾向として権威や権力を特に嫌い、血縁・親子の意識が弱く(アジア圏で我が子を勘当して養子をとる風習は日本以外特異であった)、自分らしい生き方を好む、損得的かつ世俗的な合理感を持った民族だという。

(以下にも詳細あり)

www.tachibana-akira.com

 

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世界各国のなかでも第一に「権威や権力(超越者)を嫌う」という特徴を語るものとして、橘氏は、日本には古典的アニミズム(自然崇拝=自然神)は存在するが、ユダヤ教的”絶対神”や、インド仏教的な”真理としての法”も根付かなかったことを述べている。
この点では先日読んだ岡本太郎の『沖縄文化論—忘れられた日本』とも共通する点があり面白かった。

 

www.amazon.co.jp

 

岡本氏は沖縄を分析しながら、ここには東アジア的でも東洋的でもない、確固とした日本独自の文化、感性というものが存在すると考察する。そして日本人はオリエンタリズムとか大東亜共栄圏というものを重視しすぎ絡め取られすぎてしまっていると述べる。岡本が想起する「日本人らしさ」とは何だろう。それはまとめれば「およそオウヨウではないのに、不思議にものにこだわらない。別な言い方をすれば、物の重さに耐える粘り強さがない。ものを土台とした文明に対して、何か違和感がある」ということ。彼は沖縄の人の生き方についてこう記述する。
「人々は久しく、厳しい搾取と貧困にたえながら、明朗さをもちつづけた。こだわらない。だが投げやりではない。呆れるほど勤勉に、せっせと働く。根こそぎされたら、また作りはじめる。とばされた屋根は、また適当に拾ってきてのっけておく、といった具合。また次の台風までもてばいいというような、こだわらない建て方である。そのようにして民衆は永遠を生きぬき、生きついできた。」

また、沖縄の天然痘による疱瘡すら「美ら瘡」と呼び習わす文化について、「強烈に反撥し、対決して打ち勝つなんていう危険な方法よりも、うやまい、奉り、巧みに価値転換して敬遠していく。無防備な生活者の知恵であった」(139)と述べる。この精神風土は、只管脅威を崇め権威を敬うというよりは、どことなくドライであり処世的な身軽さをうかがわせる。そしてこれは「損得を基準とした世俗的な価値観をもつ」とか「権威は嫌い自分らしくあることを尊ぶ」といったイングルハートの調査による日本人の特徴と不思議な重なりをもって見える。
ただ、かといって日本が全く東アジアから分離した精神風土を持っているかというとそうではないらしい。物事の判断基準や着眼点として、東アジア人は共通する特徴があるし、5歳の時点でアメリカ人と東アジア人の認知傾向の差は現れるという(ニスベット)。このような多層の精神風土が「日本人」の微妙な綾を織り成しているといえるのは興味深い。
血縁・地縁と繋がりが薄い日本人の現代に生き続ける強固な拠り所とは「ムラ」あるいは「イエ」だと本書はいう。この「ムラ」「イエ」は、社会人であれば会社、主婦であればママ友、学生であれば学校として現れる。自分が属する組織や共同体ということだろう。この一辺倒なムラ意識を病巣として孕むがゆえに、日本の雇用や政治形態は欧米にはない歪みを持たざるを得ない。それはそもそも国としての成り立ちの問題であり、気軽に変えられるものではないという。本書はアメリカの起源と歴史も概観しているが、その対比により、両国のもつ感覚(肌理)の差異を教えてくれる。正義や解放というアメリカで頻繁に叫ばれる言葉が、日本ではどことなくしゃっちょこばった印象をもってみえる理由がわかる気がする。不謹慎かもしれないが、そういう概念は日本の風土にはそもそもの馴染みがないのである。本書を読んでいるうち、単にどのような制度が存在しているか、というところではなく、なぜそう成り立ったかという端緒の部分の考察が大事であると思わされた。それによってこそ、お国柄というかその民族の特徴が理解できる。
また第9章でなされるグローバリズムは一種のユートピア思想というのも興味深い指摘だ。本書はこのような他分野にわたる知識をつなぎ合わせながら、現代日本の政界分析や有限責任の不在の議論へとたどり着いていく。これまでのトピックと同様、いたずらなイメージや政権批判ではなく、冷静な構造解析からその本質的な瑕疵を指摘していく姿が見事だと思う。さまざまな知見から「日本」という像が有機的に浮かび上がり、本質をむき出していく様に感銘を受ける。
そして、議論は最終的に「日本にグローバル化は可能か」という問いかけに、「それはものすごく難しい」(位置No.3494)と答えることになる。ただそれは日本には希望がないということではない。むしろ日本人はその特異な風土感覚によって、世界民族中もっとも希望に近い場所に立っているのではないか、と彼は主張していく。詳しくは本書を読んでもらいたい。

ときおり知識の披瀝を目としていると感じるほどにトピックは多く、章ごとに移り変わっていく。本書は現代的知見を集めたベンチマークとして価値はあると思う。ただそれゆえに時々雑学本的な様相を呈するのが少し読みづらくもあった。ある意味で継ぎ接ぎなので結論が正当な帰結かどうかの判断が読者につきづらくもある。ただ主張の展開には白眉たるものがあることは否めない。主張展開のしかたというか、話のつなぎ合わせ方に技術を感じる。専門は政経分野だと思うが基本的に知識を得るのが好きな人なのだろうが、それだけではなく知識の断片をつなぎ合わせ自分の主張に沿う結論を導き出すのがうまい。
あとがきで彼は「もちろん私はなんの専門家でもなく、この本のアイデアはすべて先行する研究や著述に負っている。」と述べているがその通りで、引用元も専門書ではなく新書や近年話題になった一般書など、一般人でも普通に読むことができるものばかりだ。最初に「エヴァンゲリヲン」を持ってきて読者を惹きつけるところなども、橘氏のセンスに依るところが大きいのだろうと思う。

 

進撃の巨人所感&展開予想

※ 123話までを踏まえて 

情熱大陸諌山創の内容を含みます

 

 

 

 


エレンがああいう結論になるのはわかる、はじめから世界への怒り、理不尽への反抗、支配への憎悪で動いていたから、世界が裏返ったところでそこの憤懣は変われない。
徹底的に世界から排他され攻撃され否定される、そこまでないときっと物語自体、作者自身が納得できない。そこから先に何があるのか。その苛烈なまでの裁きを行ったあと、残るものはなにか。ひとりの少年が目覚め、駆り立て、踏みつけられ、滅ぼされる。その先に。

自分を脅かし排他するものを絶対に許さない、許せない、エレンのそういう気質が好きだから納得する。世界を徹底的に敵味方に割け、敵を人扱いせず殺しまくりたいと思う ことができる。元々かれはそういう狂気を持ちあわせる男で、そこがすごく良かった。
今までそれは丁度良い敵(巨人)に向いていて、調査兵団の目的と適っていたから問題視されなかった。物語の進行とエレンの住む世界の都合に適っていたから。でも、方向は変わった。方向が変わったところでエレンはまっすぐに偽りも辻褄合わせもなく、同じ場所を見るしかない。 それが彼自身の「座標」であり存在点だとすら思う。

エレンの「おれたちは元々特別で、自由だからだ!」がすきだ。その言葉はエレンの母が幼子のエレンに言い聞かせた言葉だ。その母の愛の原理を、世界(父原理社会)は持ち合わせず、だからこそ「世界は残酷」なのだ。「残酷な世界」、ミカサを傷つけ、母を殺し、果ては自分の死を望む世界をエレンが許せるはずはもとよりない。

エレンの強烈な憎悪と物語の最終着地点にはいったい何があるのか。エレンが最終的に求めるものはなにか。自由な自分を、罪のない自分への世界から肯定ではないか。あるいはエレンは土に還り大地や大空と一体化し解放されるのかもしれない。そこで巨人の脅威に晒され死んでいった人たちが、生前に求めたものを死後にちゃんと手に入れていたことを知るのかもしれない。しかしそんな話があるか?そんな封神演起のダッキみたいな………。それが嫌だと思ってしまうのはわたしが一介の読者だからだろうか。諫山ワールドにかつてない刺激とカタルシスをどこまでも求める凡愚だからだろうか。

ただエレンのその復讐心はグリシャから継いだものであることも確かだ。ヒストリア・エルヴィンのエピソードに象徴されるように基本的に『進撃』は父から継がれるものは負である。そこを断ち切ることが物語全体の課題であるようにも思える。とすればエレンが世界滅亡を目論む巨人であり、エレンを打ち倒すことで救われる世界、という構図そのものが、否定されるのではないか。『進撃』はもともと世界の構図、現在理解されている情報を枠組みの外から覆し、予想外の方向から事態を動かして展開してきた。(そのほとんどの「予想外の気づき」はアルミンが負っている。)エレンが従おうとしている「世界の流れ(神話)」はもともとグリシャが自身の宗教心から捏造したものだ。これがグリシャがエレンひいては世界にかけた呪いだと言い換えられる。そこに気づき、元の神話を復元する。これであれば父の負の遺産は断ち切られ、エレンのラスボス化も止められる。物語の流れ、歴史と未来の流れを変えられる。2期EDで流れたような神話の絵の読み解き、歴史の再解読が焦点になってくるのではないか。そしてその役目を負うのはやはりアルミンなのではないか?

 

**追記**

 そもそもエレンは母似という設定を考えるとこの説は補強されてくる。壁の中にいた頃の3人の目指す先も「母なる」海だった。そして神話ですべての支配者といわれる神もまた女性型なのだ。物語の収束先が「母」であることはほぼ確実だろう。

個人的に考えたのが、ユミルに伝わるそもそもの神話は「悪魔が女神になる」という物語なのではないか?ということだ。エレンが髪を伸ばしたことと、その名前、そして母神への収束から思いついたのだが。

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これは「始祖ユミルが大地の悪魔と契約して巨人になった図=悪魔からユミルにりんごを渡す場面」と解釈されてきたが、「始祖ユミルから大地の悪魔にりんごが渡され、ユミルのりんごを悪魔が受け継ぐ場面」ともとれる。
北欧神話でりんごの管理をする役を負う女神イズンは「無邪気でおてんばな少女」といわれるという。ならば容姿・性格からも現在の身分からも、女神イズンはクリスタになってくるのではないかという気がする。ただ彼女は神という象徴的没個人的な存在になることを望んでいないので、正しくは「天使」なんだろう、作中で明言されているように。

 

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そして——エンディングの最後を飾っていたこの絵は「りんごを継いだ悪魔が女神へと変わった様子」と解釈することも可能だ。個人的な意見なのだが、この絵は『ビーナスの誕生』と『自由の女神』を合わせたような感じがする。つまり荒唐無稽ではあるが「自由を求める(=エレン)女神の誕生」のシーンを描いているのではないだろうか。

**2020.2.14再追記

自由の女神像はその名のとおりアメリカの「自由」と民主主義の象徴であり、イギリスからの独立100周年を記念してフランスから贈呈された。ウォールマリア編最終話で調査兵団がレイス家を糾弾し革命を成功させ、王族は公開処刑にかけられている。その様はフランス革命を彷彿とさせるものだった。19世紀フランス・イギリス(壁内世界・ヨーロッパ)からアメリカ(新大陸)へ世界の中心が一新されたように、進撃の世界全体が変わることを描いているのではないか。Wikipedia自由の女神像」の項(

自由の女神像 (ニューヨーク) - Wikipedia)を見ると

>足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味である。 

とあり、いやこれはもうエレン以外の何者でもないのでは…という感じすらしてくる。七つの大陸と七つの海という言葉も意味深である。また自由の女神像の足元には「新しい巨像」という碑文が刻まれているらしく、巨人の世界との繋がりを読みとることもできる。進撃の巨人においてエレンの出生地である壁内はパラディ島と呼ばれる追放地であった。この女神像はリバティ島という島に置かれている。

 

**追記ここまで

 

f:id:hlowr4:20200213025753j:plain(ビーナスの誕生)

f:id:hlowr4:20200213031755j:plain自由の女神/写真AC)

 

 

つまり、個人的に予想する話の流れとしては、

(1)アルミンがグリシャによる恣意的な歴史の解釈に気づき、本来の神話を修正し復元する。→(2)それをエレンに伝え、エレンは本来の歴史に沿った動きをする、という展開なんじゃないか、と考えている。

そう考えれば、エレンはこの物語で、少年漫画の主人公としては意外なほどずっと守られてきたのだった。最終的にミカサ、アルミンをはじめとした調査兵団の人々それぞれが兵士から女神を守る「九つの巨人」へとなぞらえられていくような感じもする。

 

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情熱大陸」で公開された最後のひとこま。これがエレンとエレンの子供だと仮定して。エレンは子供には空白の未来を残す。父からの憎悪と殺戮という遺産を放棄し、母固有の「自由で特別」だけを子供に相続する。そういうシーンなのではないだろうか?

 

「しんせかい」 山下澄人

 

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++あらすじ

 19歳のスミトは間違えて配達された新聞で見つけた俳優脚本家の養成所に通うため北海道の奥地に赴く。その動機は希薄であり、芯から俳優や脚本家への夢を抱いているわけでもなく、講師の名前も知らないまま入学に至っている。そこは入学授業料がかからない代わり農作業や馬の世話、小屋の建築なども自分たちで行うことになっており、スミトは他の二期生と過酷な共同生活を送る。その間に地元の女友達の天は結婚し妊娠する。二年期間のうち一学年上の一期生が卒業していくまでが描かれる。

 

「それから一年間谷で暮らした。一年後谷を出た」

というラストの一文のように、事実というか小説の中で起こる出来事・事件・事象と、それに起因するスミトの感情・思考・気づき・心ーーというものが隔絶されている。ドライとか人間関係を遮断しているのではない。ただどこか焦点が合わない。読者に対しても開いてはいない。自己紹介もしないし、状況説明もしないし、前後説明もほとんどしない。それに起因する自分の感情も、その無感覚性についての説明もほぼしてくれない。筆者が脚本畑の人間というのもあると思うが、一般の小説文芸とは違うやり方をしたいのだと感じる。身も蓋もなさと紙一重の、何か、を掬いたいのではと思う。時と時、事象と事象、会話と心の間隙にある、ピュアで清冽な「何か」。

木訥というか愚鈍というか純粋というか朦朧というか、暈けたようなスミトの現実認識、思考。彼は鋭敏というよりは無論惚(ほう)けている。あるいはスミトには自我というものがないように見える。肉体の苦しみとか、物理的な運動の辛さ、というのは記述するけれどそれだけで、脚本家の養成所に来た動機も驚くほど希薄だし、過去に自分がセックスした相手も思い出せない。自分が希薄だから「高倉健みたいになりたい」「ブルース・リーみたいになりたい」ではなく「高倉健になりたい」「ブルース・リーになりたい」と言える。周囲とはほどほどに仲良くなっているようだけれど、それも自我が薄いゆえにぼんやりと相手と同期することができるからだという感じがする。

彼のわかりづらい、行き来する内面世界を、同様に行きつ戻りつしながら読み取るうち、一体何を強く感じ、何をこの世界から(彼の現実から)受けとるのか、ということに興味が湧いてくる。けれどその虚を突き破る決定打になるものはなく、ただ過ぎ去るもの、過ぎ去るコト、に集約されていく。

空には大きなおおぐま座。腰から尻尾が北斗七星だ。それは今光っているのではなく今より前、過去に光った光だ。おおぐま座は過去だ。目に見えるかたちとしてある過去だ。ここでならひとつひとつの星の微妙な色の違いまでわかる。過去の色の違いがわかる。(40)

冬は続いた。三期生の試験が行われると聞いた。来る日も来る日も寒くて冷たかった。あらゆる緑があちこちにあった夏をまったく思い出せなくなっていた。それでもこの星はものすごい速度で太陽のまわりを回っていたから、熱と光の最も届かぬ位置から抜け出して、春が来た。(115)

彼は何かを求めているのだと思う。求めているが、彼の気を惹くものはない、出会えていない。その段階が描かれている。それは19才という年齢設定にも表されている。その空虚で希薄な目線が、山や海、遠くの星、今ではない時間になった時、パッと合う。彼固有の虚ろさと、時や自然のそもそも包含する虚無性が重なり、透徹していく。
スミトと自分はずいぶん違うようにも思えるが、自分の生の中の体験を強く感じるか鈍く感じるかという差違だけだと気づく。結局人間は時間の流れの表層を滑るだけの生きものだと。

人との出会いや出来事は描かれていくが、彼の内面に共鳴するものではなく、養成所のあり方だって、先生の弁達にも、周りの女も期待外れどころか期待すらもはっきりとは抱いていないようだ。そこにエンターテイメント性はほぼない。この点で『しんせかい』は文体・語りに偏重した作品で、純文学くささを感じるし、芥川賞と言われればああ、とは思う。ただ万人に響く作品かと言われればどうもそうではなさそうだ。疲れた時ものが二つに見える、あの感覚と似ている。あれを覚えた人であれば、惹かれる部分のある作品に見える。

『率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたかどうか』でもスミトは彷徨う。脚本の試験を受けるため新宿まで出てきて、なんども迷いながら歌舞伎町を目指し、ふと死にたいと思い、ホームレスに誘われテントに入り、ホテルに戻り、眠らないまま新橋に行く。受かったので倉庫の仕事を辞める。

この話は虚構のものというアピールが二篇ともに入る。それがさらに作品の空虚感を強める。冬の描写を含めて、寂しさが募る。つながり、真実、信頼、というものがないからか。語り口の鈍さとは一見相反するほどに冴えた寂寥が漂っている。