にしのひがしの

小説家志望の24歳女が本の感想を書いてゆくブログ。

『笹の舟で海を渡る』角田光代 感想 

 

笹の舟で海をわたる

笹の舟で海をわたる

 

 

終戦から10年、主人公・左織(さおり)は22歳の時、銀座で女に声をかけられる。風美子(ふみこ)と名乗る女は、左織と疎開先が一緒だったという。風美子は、あの時皆でいじめた女の子?「仕返し」のために現れたのか。欲しいものは何でも手に入れるという風美子はやがて左織の「家族」となり、その存在が左織の日常をおびやかし始める。うしろめたい記憶に縛られたまま手に入れた「幸福な人生」の結末は――。激動の戦後を生き抜いた女たちの〈人生の真実〉に迫る角田文学の最新長編。あの時代を生きたすべての日本人に贈る感動大作!

Amazonより)

 

 

『笹の舟で…』は複合的な読み方ができる小説と感じる。例えば風美子の話は果たして真実なのか、というミステリぽい見方もできるし、母親からの愛を実感できず、現代的な叔母になつき、居場所を求めて日本を飛び出す長女百々子の視点に立ってもいいだろう。幼い少女のときに戦争になり、それを拒みようもないまま、大きな理不尽に晒された佐織の理不尽さを読んでもいい。学校に行かなくなった百々子に自分は戦時中で学校にいけなかったと言う佐織。そして、彼女の述懐は「百々子に頑張れと言いたかったのではなくて、よく頑張ったと言われたかったのかもしれないと、子供のように思う」と続く。戦争という理不尽に押し潰され、記憶の中に押し詰めたはずのその未消化を、娘にむき出し、そしてその娘から軽蔑と不信が帰ってくる、女性の姿。人のあり様。

因果応報ということが、現実にそうか(たとえば疎開先の子供たちが風美子をいじめた罪は、後年彼ら自身に跳ね返ってくるのか)というのがいちおう表面的な問題としてでてくるのだけれど、それはどこか薄ぺらい。それはかつて風美子をいじめた女性を心の中で譏る佐織自身が、実際は傍観者であり、共犯の立場にいかねないことをどこかで棚にあげているからだ。そのような「罪の重さ」の比較自体に意味はあまりなく、過ぎたことに罪悪や、正当性を見出そうとしても、結局は、できない、それは徒労であり、そして何かむだである、ということが、作品の端々に感じられる。戦後から平成という時代そのものが「過去を忘れようと」動いているということもある。結局のところ記憶というものは、無意識であれ意識的であれ隠蔽されたり捏造されたり、薄れたり、改竄されたり封印されたり、そしていずれは人とともに失くなっていくのだし、ひとつひとつ、ひとつひとつの軽率や無智や咎を、悪口や暴力や行き違いや忘却や反感や嫌悪を、いじめを、いびりを、裁く能力をもつなまみの人間な結局のところ居ない。それは男というよりかは無数の女たちの歴史といった方が当たっているように思う。嫁姑の歴史、母娘の歴史、女友達、そのような間柄で繰り返されてきて繰り返されていく経験。日常の皮肉、誹り、当てつけ、折り合えなさ。本作では、といういうよりか角田光代の小説では、そのような女たちの有様が生々しく描かれる。彼女たちは弱く、怯懦で、人らしく濁り、生きている。人の生、家庭という営み自体が「笹の舟で海を渡る」ような営為であり、大いなる理不尽、変化、理解し合えなさは常に押し寄せ、舟は難破せず耐えているのがやっとという有様なのだ。皮膚を持ったにんげんは、きっと大半がそのように生きるということが感ぜられてくる。強くも賢くも尊くも特別でもない人間。断罪も信念もなく、通底のように響いてくるのが夫の温男の言葉である。「何ものにもなれない人間の方が圧倒的に多い。何ものにもなれないことは、べつに悪いことじゃない。力もないのに何ものかになろうかとあがく方がみっともない」。
娘の百々子は、アメリカに独断で留学を決めて家を発つ。その門出で自分に向かって軽蔑をあらわにし、母親の生き方を否定する百々子。
「あなたみたいな生き方はまっぴら。なんにも逆らわないで、抗わないで、自分の頭で考えることもしないで、与えられたものをただ受け入れて、それでいて、うまくいかないと全部他人のせいにする」(位置No.4539)。それに佐織は心の中で反発する。
「人生も親も自分で選べると思っているの? ふざけるんじゃない。そんなことができるはずがない。何を言っているの。何に逆らって何に抗うというの? どうして何でも自分でできると思う、なんでも手に入ると思うの?」(位置No. 4558)。それは旧時代の中で生き、戦争という理不尽に否応なく押し流され、何も知らず何も知らされずに、ただ時という海に「流され」てきた、弱い舟人の持つ世界であって価値観だ。「古いのかもしれない、でも、断じて間違いではない。だから諦めるしか仕方がない。みんな好きなように生きればいい。」(位置No.5218)

温夫も割と謎のままなのだが気にならざるを得ない人物でもある。静まり返った会話のない家庭で育ち、青山文化大学の文学教授を勤め、平凡な妻を娶り、全共闘時代を経て、小説を挫折して、定職につかない酒浸りの弟は転落死し、文学書の紹介の新書をしたため、娘は国際結婚し、息子が同性愛者であることを受け入れ、妻を残し癌で先立つ。因果応報について尋ねる妻に、「いや、悪も正義も人生に関係はない。違うかね。君、もっと本を読みたまえよ」(位置No.5323)とだけ言葉を投げかける。温和で出すぎたところのない、思慮深い人物だと感じられる。推測できるほどの断片はなげかけつつ、深い思考には立ち入らない人物造形はプロのあえての距離を感じる。

若き日、温夫に嫁ぐ前に彼の実家に訪れた佐織は、その家の「静けさ」に戸惑い、密かに恐れ続けている。けれど「静けさ」は結局どこにもついてくるのだ。結婚し子供を産んでも「静けさ」に囲まれながら、結局は血の繋がらない他人といることが、人間の、どちらかといえば平均寿命の長い女性の、一般的な生となる、空虚をどこかに託ちながら在り続けることを描いている。
佐織は毒親ではない、ないが築いた家や家庭を満足とは感じられなかったし、私のような血の繋がりをあまり信頼できない人間はなんとなくそれに救われる。すべて目まぐるしく移り変わるが、子の節目や葬の折に集まりながら、家族はそれぞれ別の場所で生き、夫や友人、集合住宅の他の住民など、血の繋がらない他人に囲まれて生は過ぎ去る。それは変わらないのだと。少し安堵させられるところがなくもなかった。
それでも、家庭内の瑣末な不和を抱えながら、佐織が辿り着くのはホテルのようなシニア施設であり、表面的には幸福な家族像であり、芸能人で美貌の義姉との友人関係なのだから、やはり、彼女は現代の一般的な基準でいえば、幸福なのだと思う。一応は「軽やかで静か」な老後。夫の残した財産と満額の年金で営む老後が、非常時には同居を申し出る二人の子供を頼れる老後が待っている。
そう、ちらりと仄見える時代への眼差しがこわい。作中で、平成の日本は「忘れたいいやな過去を捨てた」という。世の中は全員で決めごとをして、戦争や敗北、貧困の時代を忘れ、きらびやかで派手な時代を迎えた。そしてそれも過ぎ去った今では、「きらびやかで派手で豊かな時代なんてなかったことにしてしまおう」(位置No.5510)と、「どういうわけか、みんなで決めているのだ」、と佐織は思う。佐織はそうやって「キラキラ」の世界、多様性を指向する世界の中で切り捨てられ抹消される古い一般像ではあるのだろう。しかし、だとしてそれは、正だろうか?過去を喪くした時代というものは本当に一義的に良だろうか?
『笹の舟で…』を読みながら、1993年生まれの私は 平成に入る前まで、日本人は巨きな流れを生きていたのだと感じた。昭和天皇崩御をうけて不仲の娘にまで電話を掛ける佐織の行動は私には全く意味不明だ。けれど、戦争、高度経済成長、大学紛争、バブル、天皇、という連帯が、マイホーム、家族、という太い潮が昭和では確かに肌のレベルであったのだと気づく。その流れを喪い、過去を喪い、そうやってたどり着くのはどんな時代でどんな未来だろうか。私たちの老後は明らかに、佐織よりも貧しいものになることは確かなのだ。本作の初版は2014年9月で、阪神淡路の震災は書かれていても東日本大震災については扱われていない。その平成をも越えて令和になり、そして今は? なんだかひどく心細いような感覚が残る。

角田光代の小説には全て、人が封印してきた未消化の感情を掻き立てるところがある。もしかしたら彼女は作家として自分の母の物語を書いたのではないかとふと感じる。佐織は平凡な誰にでも心当たりのある生だろうと思う。ある意味で昭和の女性の典型像といってもいいのではないか。それが小説になって書かれることに、少し感嘆する。実際は過ぎ去った時間だということに気付かされるのだ。この本は『本の雑誌』2014年のベスト1位になった理由がなんとなくわかる気がする。

 

(日本人)橘玲

生物学、歴史学、人類文化学、経済学、倫理学(平和・正義)、思想哲学(民主主義、グローバリズム)、宗教学などを綜合して、本来の日本的人間像や欧・米圏との相違性を探る。章ごとで一冊本が書けるくらいの内容を披瀝するので密度が濃く読むのにカロリーが要る。とりあえず本書の紹介として表題の「(日本人)」論として直裁的と思われる箇所を抜こう。
日本人像として古典である新渡戸稲造「武士道」、ベネディクト「菊と刀」はどちらも日本と繋がりの薄い著者により英語で欧米人向けに書かれており、ロマン的な側面を多く含んでいた。日本はこれを後からいわば逆輸入し自らのオリエンタリズム像を創っていった。また、日本特有といわれる閉鎖的で和と妥協、多数決・全員一致を志向するあり方は、国の別なく全農耕社会に共通する特徴で日本独自の性格ではない。
あらゆる湿った思い込みを排して調査してみると(イングルハート「世界価値観調査」)、日本人は傾向として権威や権力を特に嫌い、血縁・親子の意識が弱く(アジア圏で我が子を勘当して養子をとる風習は日本以外特異であった)、自分らしい生き方を好む、損得的かつ世俗的な合理感を持った民族だという。

(以下にも詳細あり)

www.tachibana-akira.com

 

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世界各国のなかでも第一に「権威や権力(超越者)を嫌う」という特徴を語るものとして、橘氏は、日本には古典的アニミズム(自然崇拝=自然神)は存在するが、ユダヤ教的”絶対神”や、インド仏教的な”真理としての法”も根付かなかったことを述べている。
この点では先日読んだ岡本太郎の『沖縄文化論—忘れられた日本』とも共通する点があり面白かった。

 

www.amazon.co.jp

 

岡本氏は沖縄を分析しながら、ここには東アジア的でも東洋的でもない、確固とした日本独自の文化、感性というものが存在すると考察する。そして日本人はオリエンタリズムとか大東亜共栄圏というものを重視しすぎ絡め取られすぎてしまっていると述べる。岡本が想起する「日本人らしさ」とは何だろう。それはまとめれば「およそオウヨウではないのに、不思議にものにこだわらない。別な言い方をすれば、物の重さに耐える粘り強さがない。ものを土台とした文明に対して、何か違和感がある」ということ。彼は沖縄の人の生き方についてこう記述する。
「人々は久しく、厳しい搾取と貧困にたえながら、明朗さをもちつづけた。こだわらない。だが投げやりではない。呆れるほど勤勉に、せっせと働く。根こそぎされたら、また作りはじめる。とばされた屋根は、また適当に拾ってきてのっけておく、といった具合。また次の台風までもてばいいというような、こだわらない建て方である。そのようにして民衆は永遠を生きぬき、生きついできた。」

また、沖縄の天然痘による疱瘡すら「美ら瘡」と呼び習わす文化について、「強烈に反撥し、対決して打ち勝つなんていう危険な方法よりも、うやまい、奉り、巧みに価値転換して敬遠していく。無防備な生活者の知恵であった」(139)と述べる。この精神風土は、只管脅威を崇め権威を敬うというよりは、どことなくドライであり処世的な身軽さをうかがわせる。そしてこれは「損得を基準とした世俗的な価値観をもつ」とか「権威は嫌い自分らしくあることを尊ぶ」といったイングルハートの調査による日本人の特徴と不思議な重なりをもって見える。
ただ、かといって日本が全く東アジアから分離した精神風土を持っているかというとそうではないらしい。物事の判断基準や着眼点として、東アジア人は共通する特徴があるし、5歳の時点でアメリカ人と東アジア人の認知傾向の差は現れるという(ニスベット)。このような多層の精神風土が「日本人」の微妙な綾を織り成しているといえるのは興味深い。
血縁・地縁と繋がりが薄い日本人の現代に生き続ける強固な拠り所とは「ムラ」あるいは「イエ」だと本書はいう。この「ムラ」「イエ」は、社会人であれば会社、主婦であればママ友、学生であれば学校として現れる。自分が属する組織や共同体ということだろう。この一辺倒なムラ意識を病巣として孕むがゆえに、日本の雇用や政治形態は欧米にはない歪みを持たざるを得ない。それはそもそも国としての成り立ちの問題であり、気軽に変えられるものではないという。本書はアメリカの起源と歴史も概観しているが、その対比により、両国のもつ感覚(肌理)の差異を教えてくれる。正義や解放というアメリカで頻繁に叫ばれる言葉が、日本ではどことなくしゃっちょこばった印象をもってみえる理由がわかる気がする。不謹慎かもしれないが、そういう概念は日本の風土にはそもそもの馴染みがないのである。本書を読んでいるうち、単にどのような制度が存在しているか、というところではなく、なぜそう成り立ったかという端緒の部分の考察が大事であると思わされた。それによってこそ、お国柄というかその民族の特徴が理解できる。
また第9章でなされるグローバリズムは一種のユートピア思想というのも興味深い指摘だ。本書はこのような他分野にわたる知識をつなぎ合わせながら、現代日本の政界分析や有限責任の不在の議論へとたどり着いていく。これまでのトピックと同様、いたずらなイメージや政権批判ではなく、冷静な構造解析からその本質的な瑕疵を指摘していく姿が見事だと思う。さまざまな知見から「日本」という像が有機的に浮かび上がり、本質をむき出していく様に感銘を受ける。
そして、議論は最終的に「日本にグローバル化は可能か」という問いかけに、「それはものすごく難しい」(位置No.3494)と答えることになる。ただそれは日本には希望がないということではない。むしろ日本人はその特異な風土感覚によって、世界民族中もっとも希望に近い場所に立っているのではないか、と彼は主張していく。詳しくは本書を読んでもらいたい。

ときおり知識の披瀝を目としていると感じるほどにトピックは多く、章ごとに移り変わっていく。本書は現代的知見を集めたベンチマークとして価値はあると思う。ただそれゆえに時々雑学本的な様相を呈するのが少し読みづらくもあった。ある意味で継ぎ接ぎなので結論が正当な帰結かどうかの判断が読者につきづらくもある。ただ主張の展開には白眉たるものがあることは否めない。主張展開のしかたというか、話のつなぎ合わせ方に技術を感じる。専門は政経分野だと思うが基本的に知識を得るのが好きな人なのだろうが、それだけではなく知識の断片をつなぎ合わせ自分の主張に沿う結論を導き出すのがうまい。
あとがきで彼は「もちろん私はなんの専門家でもなく、この本のアイデアはすべて先行する研究や著述に負っている。」と述べているがその通りで、引用元も専門書ではなく新書や近年話題になった一般書など、一般人でも普通に読むことができるものばかりだ。最初に「エヴァンゲリヲン」を持ってきて読者を惹きつけるところなども、橘氏のセンスに依るところが大きいのだろうと思う。

 

進撃の巨人所感&展開予想

※ 123話までを踏まえて 

情熱大陸諌山創の内容を含みます

 

 

 

 


エレンがああいう結論になるのはわかる、はじめから世界への怒り、理不尽への反抗、支配への憎悪で動いていたから、世界が裏返ったところでそこの憤懣は変われない。
徹底的に世界から排他され攻撃され否定される、そこまでないときっと物語自体、作者自身が納得できない。そこから先に何があるのか。その苛烈なまでの裁きを行ったあと、残るものはなにか。ひとりの少年が目覚め、駆り立て、踏みつけられ、滅ぼされる。その先に。

自分を脅かし排他するものを絶対に許さない、許せない、エレンのそういう気質が好きだから納得する。世界を徹底的に敵味方に割け、敵を人扱いせず殺しまくりたいと思う ことができる。元々かれはそういう狂気を持ちあわせる男で、そこがすごく良かった。
今までそれは丁度良い敵(巨人)に向いていて、調査兵団の目的と適っていたから問題視されなかった。物語の進行とエレンの住む世界の都合に適っていたから。でも、方向は変わった。方向が変わったところでエレンはまっすぐに偽りも辻褄合わせもなく、同じ場所を見るしかない。 それが彼自身の「座標」であり存在点だとすら思う。

エレンの「おれたちは元々特別で、自由だからだ!」がすきだ。その言葉はエレンの母が幼子のエレンに言い聞かせた言葉だ。その母の愛の原理を、世界(父原理社会)は持ち合わせず、だからこそ「世界は残酷」なのだ。「残酷な世界」、ミカサを傷つけ、母を殺し、果ては自分の死を望む世界をエレンが許せるはずはもとよりない。

エレンの強烈な憎悪と物語の最終着地点にはいったい何があるのか。エレンが最終的に求めるものはなにか。自由な自分を、罪のない自分への世界から肯定ではないか。あるいはエレンは土に還り大地や大空と一体化し解放されるのかもしれない。そこで巨人の脅威に晒され死んでいった人たちが、生前に求めたものを死後にちゃんと手に入れていたことを知るのかもしれない。しかしそんな話があるか?そんな封神演起のダッキみたいな………。それが嫌だと思ってしまうのはわたしが一介の読者だからだろうか。諫山ワールドにかつてない刺激とカタルシスをどこまでも求める凡愚だからだろうか。

ただエレンのその復讐心はグリシャから継いだものであることも確かだ。ヒストリア・エルヴィンのエピソードに象徴されるように基本的に『進撃』は父から継がれるものは負である。そこを断ち切ることが物語全体の課題であるようにも思える。とすればエレンが世界滅亡を目論む巨人であり、エレンを打ち倒すことで救われる世界、という構図そのものが、否定されるのではないか。『進撃』はもともと世界の構図、現在理解されている情報を枠組みの外から覆し、予想外の方向から事態を動かして展開してきた。(そのほとんどの「予想外の気づき」はアルミンが負っている。)エレンが従おうとしている「世界の流れ(神話)」はもともとグリシャが自身の宗教心から捏造したものだ。これがグリシャがエレンひいては世界にかけた呪いだと言い換えられる。そこに気づき、元の神話を復元する。これであれば父の負の遺産は断ち切られ、エレンのラスボス化も止められる。物語の流れ、歴史と未来の流れを変えられる。2期EDで流れたような神話の絵の読み解き、歴史の再解読が焦点になってくるのではないか。そしてその役目を負うのはやはりアルミンなのではないか?

 

**追記**

 そもそもエレンは母似という設定を考えるとこの説は補強されてくる。壁の中にいた頃の3人の目指す先も「母なる」海だった。そして神話ですべての支配者といわれる神もまた女性型なのだ。物語の収束先が「母」であることはほぼ確実だろう。

個人的に考えたのが、ユミルに伝わるそもそもの神話は「悪魔が女神になる」という物語なのではないか?ということだ。エレンが髪を伸ばしたことと、その名前、そして母神への収束から思いついたのだが。

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これは「始祖ユミルが大地の悪魔と契約して巨人になった図=悪魔からユミルにりんごを渡す場面」と解釈されてきたが、「始祖ユミルから大地の悪魔にりんごが渡され、ユミルのりんごを悪魔が受け継ぐ場面」ともとれる。
北欧神話でりんごの管理をする役を負う女神イズンは「無邪気でおてんばな少女」といわれるという。ならば容姿・性格からも現在の身分からも、女神イズンはクリスタになってくるのではないかという気がする。ただ彼女は神という象徴的没個人的な存在になることを望んでいないので、正しくは「天使」なんだろう、作中で明言されているように。

 

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そして——エンディングの最後を飾っていたこの絵は「りんごを継いだ悪魔が女神へと変わった様子」と解釈することも可能だ。個人的な意見なのだが、この絵は『ビーナスの誕生』と『自由の女神』を合わせたような感じがする。つまり荒唐無稽ではあるが「自由を求める(=エレン)女神の誕生」のシーンを描いているのではないだろうか。

**2020.2.14再追記

自由の女神像はその名のとおりアメリカの「自由」と民主主義の象徴であり、イギリスからの独立100周年を記念してフランスから贈呈された。ウォールマリア編最終話で調査兵団がレイス家を糾弾し革命を成功させ、王族は公開処刑にかけられている。その様はフランス革命を彷彿とさせるものだった。19世紀フランス・イギリス(壁内世界・ヨーロッパ)からアメリカ(新大陸)へ世界の中心が一新されたように、進撃の世界全体が変わることを描いているのではないか。Wikipedia自由の女神像」の項(

自由の女神像 (ニューヨーク) - Wikipedia)を見ると

>足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味である。 

とあり、いやこれはもうエレン以外の何者でもないのでは…という感じすらしてくる。七つの大陸と七つの海という言葉も意味深である。また自由の女神像の足元には「新しい巨像」という碑文が刻まれているらしく、巨人の世界との繋がりを読みとることもできる。進撃の巨人においてエレンの出生地である壁内はパラディ島と呼ばれる追放地であった。この女神像はリバティ島という島に置かれている。

 

**追記ここまで

 

f:id:hlowr4:20200213025753j:plain(ビーナスの誕生)

f:id:hlowr4:20200213031755j:plain自由の女神/写真AC)

 

 

つまり、個人的に予想する話の流れとしては、

(1)アルミンがグリシャによる恣意的な歴史の解釈に気づき、本来の神話を修正し復元する。→(2)それをエレンに伝え、エレンは本来の歴史に沿った動きをする、という展開なんじゃないか、と考えている。

そう考えれば、エレンはこの物語で、少年漫画の主人公としては意外なほどずっと守られてきたのだった。最終的にミカサ、アルミンをはじめとした調査兵団の人々それぞれが兵士から女神を守る「九つの巨人」へとなぞらえられていくような感じもする。

 

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情熱大陸」で公開された最後のひとこま。これがエレンとエレンの子供だと仮定して。エレンは子供には空白の未来を残す。父からの憎悪と殺戮という遺産を放棄し、母固有の「自由で特別」だけを子供に相続する。そういうシーンなのではないだろうか?

 

「しんせかい」 山下澄人

 

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++あらすじ

 19歳のスミトは間違えて配達された新聞で見つけた俳優脚本家の養成所に通うため北海道の奥地に赴く。その動機は希薄であり、芯から俳優や脚本家への夢を抱いているわけでもなく、講師の名前も知らないまま入学に至っている。そこは入学授業料がかからない代わり農作業や馬の世話、小屋の建築なども自分たちで行うことになっており、スミトは他の二期生と過酷な共同生活を送る。その間に地元の女友達の天は結婚し妊娠する。二年期間のうち一学年上の一期生が卒業していくまでが描かれる。

 

「それから一年間谷で暮らした。一年後谷を出た」

というラストの一文のように、事実というか小説の中で起こる出来事・事件・事象と、それに起因するスミトの感情・思考・気づき・心ーーというものが隔絶されている。ドライとか人間関係を遮断しているのではない。ただどこか焦点が合わない。読者に対しても開いてはいない。自己紹介もしないし、状況説明もしないし、前後説明もほとんどしない。それに起因する自分の感情も、その無感覚性についての説明もほぼしてくれない。筆者が脚本畑の人間というのもあると思うが、一般の小説文芸とは違うやり方をしたいのだと感じる。身も蓋もなさと紙一重の、何か、を掬いたいのではと思う。時と時、事象と事象、会話と心の間隙にある、ピュアで清冽な「何か」。

木訥というか愚鈍というか純粋というか朦朧というか、暈けたようなスミトの現実認識、思考。彼は鋭敏というよりは無論惚(ほう)けている。あるいはスミトには自我というものがないように見える。肉体の苦しみとか、物理的な運動の辛さ、というのは記述するけれどそれだけで、脚本家の養成所に来た動機も驚くほど希薄だし、過去に自分がセックスした相手も思い出せない。自分が希薄だから「高倉健みたいになりたい」「ブルース・リーみたいになりたい」ではなく「高倉健になりたい」「ブルース・リーになりたい」と言える。周囲とはほどほどに仲良くなっているようだけれど、それも自我が薄いゆえにぼんやりと相手と同期することができるからだという感じがする。

彼のわかりづらい、行き来する内面世界を、同様に行きつ戻りつしながら読み取るうち、一体何を強く感じ、何をこの世界から(彼の現実から)受けとるのか、ということに興味が湧いてくる。けれどその虚を突き破る決定打になるものはなく、ただ過ぎ去るもの、過ぎ去るコト、に集約されていく。

空には大きなおおぐま座。腰から尻尾が北斗七星だ。それは今光っているのではなく今より前、過去に光った光だ。おおぐま座は過去だ。目に見えるかたちとしてある過去だ。ここでならひとつひとつの星の微妙な色の違いまでわかる。過去の色の違いがわかる。(40)

冬は続いた。三期生の試験が行われると聞いた。来る日も来る日も寒くて冷たかった。あらゆる緑があちこちにあった夏をまったく思い出せなくなっていた。それでもこの星はものすごい速度で太陽のまわりを回っていたから、熱と光の最も届かぬ位置から抜け出して、春が来た。(115)

彼は何かを求めているのだと思う。求めているが、彼の気を惹くものはない、出会えていない。その段階が描かれている。それは19才という年齢設定にも表されている。その空虚で希薄な目線が、山や海、遠くの星、今ではない時間になった時、パッと合う。彼固有の虚ろさと、時や自然のそもそも包含する虚無性が重なり、透徹していく。
スミトと自分はずいぶん違うようにも思えるが、自分の生の中の体験を強く感じるか鈍く感じるかという差違だけだと気づく。結局人間は時間の流れの表層を滑るだけの生きものだと。

人との出会いや出来事は描かれていくが、彼の内面に共鳴するものではなく、養成所のあり方だって、先生の弁達にも、周りの女も期待外れどころか期待すらもはっきりとは抱いていないようだ。そこにエンターテイメント性はほぼない。この点で『しんせかい』は文体・語りに偏重した作品で、純文学くささを感じるし、芥川賞と言われればああ、とは思う。ただ万人に響く作品かと言われればどうもそうではなさそうだ。疲れた時ものが二つに見える、あの感覚と似ている。あれを覚えた人であれば、惹かれる部分のある作品に見える。

『率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたかどうか』でもスミトは彷徨う。脚本の試験を受けるため新宿まで出てきて、なんども迷いながら歌舞伎町を目指し、ふと死にたいと思い、ホームレスに誘われテントに入り、ホテルに戻り、眠らないまま新橋に行く。受かったので倉庫の仕事を辞める。

この話は虚構のものというアピールが二篇ともに入る。それがさらに作品の空虚感を強める。冬の描写を含めて、寂しさが募る。つながり、真実、信頼、というものがないからか。語り口の鈍さとは一見相反するほどに冴えた寂寥が漂っている。

 

 

 

spotify premiumをやめてYoutube premiumに入りました

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題名の通りなのですが!spotify premiumとYoutube premiumで迷ってる方の参考になれば・・と思い、書いてみます。

spotifyは一年くらいプレミアム会員でした。最初は面白く使っていたのですが、私の使い方とspotifyの機能があんまり噛み合わないのか、そこまで活用できてる感じがなく。。出費を見直していたタイミングで、spotifyから3ヶ月無料のYoutubeプレミアム会員に乗り換えてみました。しばらく使っていて、こっちの方が肌に合うな、恩恵にあずかれてるな、と言う感じがありました。

まずは私の音楽スタイルを紹介します。

  • 好きな音楽がだいぶ偏っている。
  • 邦楽をよく聞く。洋楽はほぼ聞かない。
  • ロック、ポップスなどジャンルベースで聞かない。
  • BGMとしてはあまり使わない。
  • MVならテレビで流したりしたい。
  • 広告はとにかく嫌。
  • youtube動画は割とみる。
  • ライブやフェスは行かない。
  • 新譜リリースはチェックしたい。
  • スマホいじりながら・スリープ状態でもバックグラウンドで動画を聴きたい

 

結構ニッチですね。私は普通の曲(?)がとにかく苦手で、ドライブなど人と一緒にいる時以外、自室で一人の時には、基本的に静かな音楽を聞きます。また聴覚刺激に弱くすぐ疲れてしまうので、ロック・ジャズ・激しめのポップスなんかはイントロだけで聞くのをやめてしまいます。詞や世界観が気に入った特定の曲・グループ以外は、イージーリスニングやインストなどを流すのが中心です。できれば楽器・音は少なければ少ない方が助かります。spotifyは自動的に履歴から好みの音楽を探してくれたりするんですけど、これが私の好みからは外れていることが多かったです。売れ筋の音楽はほとんど聞かないので、結局前に聞いた曲しか自動生成アルバムに表示されない事態になってしまってました。spotifyはマイナーな邦楽に弱い?ためなのか。これならYoutubeなりで特定のグループを検索しに行った方がさっと聞けるなあって感じに。(ちなみに相対性理論七尾旅人サニーデイ・サービス、yeti let you notice、コトリンゴspangle call lilli line、青葉市子、阿部芙蓉美・・・あたりを流します)

またBGM用に音楽を垂れ流しにすることはほぼないです。何か集中したいなと思うと、すぐに雑音化してきてしまうので。

私の逆の人(洋楽好き、ジャンルから多様な曲を取ってきてもらいたい、BGMとしてずっと鳴っててほしい、幅広い自動分析からディグりたい)って人にはspotifyがいいと思います。

また個人的にはMVは見たいです。綺麗なMVだとかなりじっくり見たりします。spotifyはプレミアムであろうとMVはほぼなく、歌詞が画面に自動で出てくるだけの仕様になってます(ない曲も結構ある)。プレステとか使ってテレビで見てもそれは同じ。その点Youtubeは言わずもがな動画サイトですから、MVは公開されている限り見放題です。あ、ちなみに歌詞の自動表示機能はYoutube premiumにはないと思います。

それと個人的に広告大嫌いです。spotifyでもフリー版で入ってくるあの雰囲気ぶち壊しのCMがいやで、すぐプレミアム版に入りました。

で、最近、一番広告が苦痛なのはYoutubeだなって感じてきてまして。最近一個の動画で3、4回入ったりもするし、スキップしても無理やり広告再生されたりとか。動画の最初やお尻だけならまだしも、普通の実況とか見てるとき途中で唐突に広告はかなりイラっとしてしまいます。これはYoutubeよくみる人ほど苦痛度高いと思います。私もがっつり見てる方で、同じ投稿主の過去動画を一気に見たりとかよくやります。そういうときYoutubeプレミアムは便利です! 便利すぎて没頭してしまうのが玉に瑕です。。

またspotifyにはアーティストページに行くと直近のライブ日が表示される機能が付きました。個人的にはこれ全然いらないなあって思います。他にも自動生成されるプレイリストでフェスとかサマソニの特集みたいなのが出来てたりするんですが、フェスにも全然興味がないので、ここでもspotifyの良さを享受できてません。

その反面好きなアーティストの新譜はチェックしたい!です。spotifyも一応アーティストフォロー機能あるんですけど、その辺の通知は弱いです。アーティストページ飛ぶと出てくるニューリリースに知らない曲があって、あ、出してたんだ、っていうのが結構あります。その点Youtubeはフォローしておけば直近のフォローしている人の投稿動画一覧から新譜リリースがわかるので楽ちんです。(もしかしたら探せばspotifyにもあるのかなあ、わからん、、)ただここは別にツイッターとかApple Music?とかで公式をフォローしとけばカバーできそうな気がします。

Youtubeの自動分析機能はかなり優秀だなあと個人的には感じます。好きな感じの曲流してると次に出てくるのも好きな感じの曲、っていうのがよくあるので助かります。

バックグラウンド機能は言わずもがな。昔はアンドロイドアプリ落とせば出来たりしたんですけどね、Youtubeでも。今は全面禁止になってるので、課金しかありません。どうしてもスマホいじりつつ流したいっていう時には、タブレット・PC・テレビ・違うスマホで起動して流しておくっていう手もありますよね。ただ、バックグラウンド再生が一番役立つのは個人的にはジムのランニングのときかなって思います。手荷物少なく、場所とらず、スマホを握ってる訳にもいかないなって時、ワイヤレスイヤホン使えば、手元のポーチの中のスリープ状態のスマホから動画聞けるので、オススメです。

 Spotifyもバックグラウンドは余裕でできます。出来るんですが、例えば音楽以外、何かポッドキャストを聞こうと思った時、ほぼ英語のコンテンツしかないです。今後日本語のコンテンツが実装されるかというと、、望み薄かなと個人的に思います。サービス自体がかなりグローバル向けな感じ。

値段について

ただ一つspotifyの方が有利な点としては、値段がYoutube premiumより若干安いです。これは、動画に魅力を感じない人がspotifyに入る大きな理由になってくると思います。

ただその場合、Youtube Music premiumというサービスが同額(月980円)で候補に入ってきたりするのですが。そしてそして、Youtube premium(月1180円)に加入すればYoutube Music premiumは無料で同時に使えるようになっています。Youtube Music premiumの便利な点としては、課金前に聞いていた音楽やフォローしていたアーティストがすでにおすすめに表示されること。同一アカウントなので当然といえば当然なんですが、わざわざ違うプラットフォームから好みのアーティスト情報を移すよりはるかに便利だなと思います。

 

まとめ

spotify向きの人

  • とにかくBGMを流しておきたい
  • 動画はあんまり見ない
  • Youtubeは使わない
  • 幅広いジャンルの曲を聴く
  • 邦楽より洋楽が好き
  • 多様なプレイリストを楽しみたい
  • ポッドキャストコンテンツは英語で構わない or 違うサービスに加入済み 

Youtube premiumに向いてる人:

  • 動画広告が苦痛
  • 精度高い取得結果から好きなテイストの音楽だけ聴きたい
  • 音楽の好みが偏りすぎている
  • 動画もよく見る
  • 邦楽中心に聞く
  • 特定のアーティストのニューリリースをこまめにチェックしたい
  • どうせならMVも一緒に見たい
  • Youtubeのバックグラウンド機能を使いたい

 

こんな感じになりました。こうしてみると、かなり色が別れてくる気がしますね。

以上です!個人的な感想ですが、参考にしていただければ嬉しいです。ここまでお読みいただきありがとうございました!

 

しずけさ 町屋良平 文学界5月号

 

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あらすじ

鬱で仕事を辞め、自宅療養中の青年・棟方と、小学校五年生の笹岡樹が深夜の久伊豆神社で出会う。樹は大麻を栽培している両親により夜の二時から六時まで家を追い出されるため、警察に捕まらないよう、毎晩神社で時間を潰していた。棟方(「かれ」)は、小学校時代の同級生だった椚という少年を樹に重ね、彼を「椚くん」と呼び、樹もそれを受け入れる。会話らしい会話もせず、棟方はほぼ黙ったまま、樹だけが好きに喋るという関係だったが、 お互いにそれを心地よく感じる。 ある日 親の大麻仲間の一人が捕まったことから、樹は夜も家に居てよくなり、神社に行かなくなる。棟方も調子が回復しないまま就活を始める。二人は再び神社で再会し、樹の希望で棟方は翌朝の面接に彼を連れて行く。樹は初めて来た表参道に感動し、世界の広さを体感する。面接から戻ってきた棟方は樹に“Kid’s Mommy”(子供のミイラ)と書かれた寝袋を送り、樹の背が伸びたことに驚く。

 

***

 

こう書くと青年と少年の交流物語のようだ。そして、物語自らがそのような皮を被ろうとしていることも理解できる。でも、丁寧に読んで行くと、そういう話ではないことがわかってくる。というか、そういう話として読むには不完全さが看過できない。

棟方と樹は強い対称性をもつ。共通の内容、心理を時間差で語らせている。それはほとんど同一人物的だといってもいい。
二人は二人でいることで、どちらも「自己同一性」の辛さから逃避できている。その状況に甘んじるために、双方が相手に対して「いなくならないでほしい」「ずっとそのままでいてほしい」と強く感じる。お互いのニーズをお互いが知らぬままに満たし合っているという構図だ。棟方は樹のことを椚くんと呼び、樹の前では小学生のような、樹よりさらに子供っぽい態度をとる。棟方は会社勤め時代は自制が強いタイプだと説明され、それは「かれ」の退行、子供がえり的しぐさだと読み取れる。「じぶんのことばがこわい」、と棟方は思う。「からだもことばも壊れていて、自己同一性を偽ってくる」と。大人でいること、「じぶんのことば」が棟方には重く、「ゆううつ」の波に押しつぶされ、生き延びることで精一杯の状況にある。棟方が会社に行けなくなったのは、小学校時代ピアノ教室に行きたくないと母親に反抗したのと根本的には同じ理由である、と作中で説明される。それは「“ちゃんと行く”と理解されている自分に反抗したい」「強制と消極的同調から成り立つこの世のシステムへの反抗」だという。
樹もまた「自分を投げ出したい、笹岡樹の同一性こそがにくらしい」「笹岡樹という自己同一性を維持しながらまたこの夜をすごすのはこわい。自分が異物になって、自然はまたただの敵になる」という。樹は親から夜家を追い出されている自分を、「そう」と認めるのが恐ろしい。だから「椚くん」と呼ばれることに対して抵抗がなく、むしろ安堵の念を抱く。
「椚くん」とは、棟方に「大人ってのは自我がないよな」と言い、小学校時代の彼に「自分たちは社会に合わせて自我を失っていく」と悟らせた友達である。彼は現在はプロのフットサル選手になっていて、物語中でスター・ヒーロー的存在といえる。なので、作中で「椚くん」と作中で呼ばれ続ける樹は、健全に大人に成長してゆくこと、正しい過程を辿っていくことが運命的に示唆されている。

だからこそ、樹は親の変化を契機に生活が正常な状態に戻ると、社会に押しつぶされた棟方の辛さに思いを馳せ、「大人にがんばってほしい。すこし前までは、かれだけはまともになるのは許せない、とおもっていた。いまではもう、どうでもいい。夜をひとりで越えてゆく。椚くんじゃなくても、おれはおれで越えてゆく」というところまで行き着ける。そして棟方からは“Kid’s Mommy”を送られる(=子供の自分から卒業する)。それは、物語上の計略であり、システムだと思う。ただ一読して、どうして樹がそうなったのかは明瞭ではない。
物語の前半部、樹の、親に対するこどもの微妙で切実な気持ちの書き方は非常にリアルで巧みだ。たとえば「「やさしくしないで」といえたらどんなにかつよいだろう。しかし心底から両親にやさしくしてほしかったいつきくんにはそれがいえなかった。真心でなくてもやさしくしてほしいなんて、おれはなんていやな子ども。」とか、「いつきくんの両親はお酒をのむといつきくんにやさしくなる。どんどんお酒をのんでほしいといつきくんはおもっている」とか、「いつきくんは一挙につらくなり、さっきまでたのしくなんてなるんじゃなかったな、とおもった。うっかりたのしくなってしまうなんて、なんて迂闊だったんだろう」。
子供が親に抱く複雑な気持ちが描かれているだけに、「樹くんを夜外に出す」という行為をやめただけで、こどもの心の整理が描かれないまま、フワッと成長してしまう。そういうふうに感じて「惜しいな」と思った。だが、幾度か読み直して伏線に気がついた。

川は水中までぬるくなっていて、魚はよろこんでいる、明日には釣られる鮒が、川のながれをたのしんで泳いでいる。いつもよりたくさんの量が蒸発して、空気がずっとしめっている。 しかしねむらないと、傷を気にしてさわってしまうし治らない。_椚くんは目の前のかれが明日には無言に戻っていることがわかった。 (122)

下線部は裏を返せば、「たくさん眠る」ということは、「治る」と繋がり、「成長」に導かれていくと読める。それは法則、あるいは力学だ。これに則って、親から追い出されなくなり、家でゆっくり眠れるようになった樹は、心身ともに成長する。序盤でも樹は炬燵のなかで眠るシーンで、確かに彼は成長の萌芽を見せている。

おおきくなる。つよく逞しく、この夜を越えてゆけ。いつか家を出る。親を越えられる。社会を越えて、個人を越えて、おれは自分自身になる。自由を不自由に当てはめ、不自由を自由に当て嵌めて、ことばを探し、ひとりで生きられる。ぜんぶをはなせる親友と、ぜんぶを表現できる言語領域を獲得し、ひととわかりあう。いまはむりだ。だれにもいえない。なにもいえない。けれどいつかは、おれはやる。(120)

この決意は、ラスト周辺ですこし言葉を変えながら反復される。

夜をひとりで越えてゆく。椚くんじゃなくても、おれはおれで越えてゆく。きっとこの世界は、おれがおもっているよりもっと辛い。もっと厳しい。関わることのない他人の辛さを肌で味わって、それでも自分の生活を設けていくのはとてもたいへん。もっといろいろなことをしりたい。いろんなひとが、どんなことを辛くおもっているのか、ちゃんとしりたい。(151)

「眠り」はまた「夢」とも関連する。『しずけさ』では夢がかなり特異な地位を占めている。夢は逃避先でもあり、成長の場でもあり、あらまほしい自分の姿でもある。
だからこそ、棟方は夢の中で、今の自分が失ってしまった感情を奔流させる自分を羨ましく思い、「ゆめのなかで[失ってしまった]じぶんのことばと再会する」。(137)
樹は、夢・夜・眠りの中で成長した自分を現実——昼の世界に還していく。それで、「夜のしたでも、じっとおなじ場所にいることはなかったのだ。自分の足で世界を拓けばよかった」(151) と述懐するに至る。少し説明不足感があるのは仕方ない。やはり樹の成長に関してはもう少し描写が要ると思う。ただ健全に育つと物語にセットされたから、育ちました。そういう感じがどうしても残る。

それを考慮しても、まだ、『しずけさ』にはどこか煮え切らない印象が残る。結局棟方は樹に対する「甘え」からどのように抜け出したのかが不明瞭であるという点だ。定石であれば、棟方は樹との出会いを通じ、その眩しい姿とか純粋さに影響を受け、社会復帰への一歩を踏み出す、という筋なのだろうが……。読んでいると、むしろ、棟方は樹に「甘えていい」」とする潮目が作中に遍在する気がした。

処女作『青が破れる』でも、町屋氏は、作品のラストシーンにおいて、少年・陽を、主人公にとって「結晶のように純粋で「果てしなく甘えられる恋人みたい」」な存在として描いていた。

 

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『しずけさ』にも同じ力学が働いていると考えられる。「少年」は「青年(主人公)」にとって、恋人のように、母のように、甘えられる対象、甘えをゆるす存在なのだ。
だから、棟方は、小説の中でうつ病をかこって少しずつ進み始めはするけれど、樹への「甘え」から明瞭に脱しようとはしていない。おそらく、今後の展開としては、むしろ樹が棟方のつらさ、苦悩を理解し、彼を守るようになっていく、という方向にいく予感がある。
だからこそ…『しずけさ』の読み味は奇妙で、肩透かし感がある。変則的なボーイミーツボーイ、といっていいのだろうか。実のところよくわからない。詩のような文体で、鬱病の状態や、少年の心理が巧みに描かれている。けれど核にあるのは、"大人が甘えられる"少年という、少し倒錯的にも見える構図だ。それは或いは無垢だとか、無性だとか、幼年期だとか、還る場所の象徴であって、少年そのもの、ではないのかもしれない。今はまだよく、わからない。

 

 

邦画『恋の門』(2004)感想

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みた〜〜〜
すごく漫画感のある映画だった。あえてなのかなと思う。終わり方の軽さも含めて、あえてペラペラさを残している感じがした。これを軽妙ととるか軽薄ととるかは、見る人によると思う。
最初は大丈夫かな?って思ってたけど、恋乃の借金発覚の下りからすごい面白くなった。主役がイイと思う。松田龍平の「変な男」感と酒井若菜の「変な女」感が合ってた。門はぱっと見変だけど案外まともで、恋乃はぱっと見まともだけど案外変。そのあたりのキャラクターのバランスが絶妙。
セリフ回しが面白いですね。最初の会社のネチネチ男もマスターの毒舌もくすっと来た。恋乃がキレるところがいちいち好きです。同人誌で1000万稼いでるって嘘だったんか。。信じたじゃねーか。。でも言われてみればあんなのそんな売れるわけないか。、恋乃の絵柄とか作風のさじ加減が絶妙ですね。掲示板クッソ荒れてるのも面白かった。そういえばなんか書き込みで煽ってる場面あったなあ。地味に伏線だったのか。
門が初めて描いた漫画であっさり受賞しちゃわないとこがよかった。そんなのただのジャンプだもんなーって。あの結果で「ヒーローとヒロイン(トロフィー)」じゃなくて「ダブル主人公」なんだなって思った。『バクマン。』とかは同じ漫画家目指すものでも、ヒロインは結局のところトロフィーだよね。恋乃はただの賞品にするには惜しいキャラだよなあ。ただのコスプレイヤーでもあばずれでもなく。絶妙な感じ。
藻鞠田やっぱ監督か。。。なんか普通に俳優さんでもよかった気が。。何となくね。本人の雰囲気がちょっとかっちりしすぎてるかなあって思った。映画全体としては、ちょっとクドカン風ではありつつあそこまで会話劇ではなかったね。比較的どこか淡々としているというか、ちょっと距離を置いて見れる感じがあって、個人的に居心地悪くはなかったです。クドカン作品は良くも悪くも巻き込まれすぎてなんとなく疲れてしまうので。
門と恋乃は幸せになってほしいですね…。熱すぎもせず冷めすぎもしてないテンションがストレスなく見れる。キスしてるシーンで思ったけどなんかこの二人肌質が似てる。肌色?かな。私にそう見えただけかもしれないけど、後ろで流れた「粒子は同じものでできている」って言葉がそれで際立っていていいなあって思いました。それは映画ならではの表現だなと思うので。

 
あの〜恋乃の信者の人?信者の人の最後のセリフがなんかやけにキマってて好きです。「王道からの脱出ーそれが恋乃の本質よ」みたいなやつ! こう、「ボロクソ言ってるけど本当に恋乃の本質を知ってるのはわたし、恋乃の良さを一番理解できるのもわたしなのよ」って感じが! なんか燃えました。恋乃も外側から見てるとだいぶわかりにくいキャラだからよかったのかもしれません。歪んだ信者のああいう愛情ってかなりメンドくさそうだけど、一番良い部分があそこででていた気がする。
男性的にはメジナってグッと来るのかなー。喋り方がわざとらしすぎてあんまり好きになれなかったな。一癖二癖あるなと思いきや十三癖くらいあったね。双子という謎の設定も面白かった。あの人こそ未消化の部分多すぎた。結局何で生計たててるんだ? 二期というか恋の門2あるならあの人の掘り下げくるよなあ。息子の方もいいキャラでしたね。いやそもそもそこにいると誰も思わなくない?一人で笑ってしまった。子役上手かった。憎たらしさが自然だったなあ。憎たらしいこと言いたい年頃だと思いきや普通に大人びてるのかなあとはっとさせられる。「子供の言うこと聞いてんじゃねーよ!」よかったな〜〜。門と一緒にいるの可愛かった。嫌ってると思いきや甘えてると思いきや叱咤して。いいキャラ。
片桐はいりカップル。天狗おもろかった。あのSMプレイ?の店主っぽい人もそうだけどちょいちょいインパクトのためか顔知れてる人使ってますね。良くも悪くも「ウケ」を計算して作られてるんだなと思いました。

個人的に、こういう映画で作中の人が創作してるシーンってすごい好きで。三人で頑張って漫画を描いてるシーンにすごく燃えました。ああいうバッバッバッて変わる感じツボです。カップ麺食べたりしながら頑張っている情景にロマンを感じる。音楽もアツくて楽しかった。同じ創作の部分が楽しかったのは『キル・ユア・ダーリン』かな。ノリにのってタイプライター叩いてるシーンがすごくテンション上がりました。 

 

hlowr4.hatenablog.com

 

ジャケット画像見て思ったんだけど『恋と未来を掛けた漫画バトル』っていうのはあるけど、それはストーリーで。なんかもっと奥にあるものって違うなあって。ガチで恋と未来が懸かってるわけでは一応ないじゃないですか。編集者謎の急死を遂げたりするし、結果の出方も何となくアッサリだし。この映画の本質ってそこではなくて…何て言うか門と恋乃それぞれの夢の追い方というか、夢との付き合い方、なのかなと感じます。付き合い方…"漫画をどう描いていってどう向き合っていくのか"。それは門の漫画が石→紙とペンに変わったことからも分かります。ていうかそもそも石っていうのが謎すぎるんだけど、でも何か門には門なりに石でしか表現できないものが自分の内側にあった。それが紙とペンで描くことで、他人にも読める・認められる形に変わっていく。石から紙に変わるってところがすごく大事なのかなと思っていて。他の漫画家目指す漫画でそういうの絶対ないじゃないですか。そこはすごくオリジナリティがあるし、『恋の門』の独自の主題だと思う。自分のもっているものを人に示す為に、何を通せばいいのか。闇雲なパッションしかない門が「漫画家志望」に変わっていくということが大事なことなんじゃないか。

にしのが見てきた映画で他にコスプレとかコミケが出て来るのって『ふがいない僕は空を見た』かな。あの衣装がすごく安っぽい感じがあって。まあ題材が題材というか、結局あの映画でのコスプレHって現実逃避だから、そういう扱われ方は全く違うんだけど、なんだか衣装がちゃんとしてるように見えました。単に役者さんに似合ってただけなのかなー。

松田龍平さんの映画で印象強いのは『羊の木』です。あの人物は凄く謎が多くて、不気味、気持ち悪い印象が終始あった。口では結構いいヤツぽいけど、実際目に何が映っていて、それをどう受け取っているのか全く理解ができない感じ。顔ものっぺりとして目も口もちょっとのっぺらぼうみたいな雰囲気があって。普段からこの人こういう感じなのだろうか………ってうっすら怖くなった。あと『まほろ駅前 〜』も見たことある。そのときは松田龍平って人って知らなかったけど、役柄の雰囲気的には『羊の木』と似ていたと思う。反面『恋の門』では喜怒哀楽豊かで、トーンが明るい役を自然にこなしていて、こう言う役もできるんだーってなった。いやお前松田龍平のなんなんだよって感じなんですけど。ぱっと見変だけど普通のトーンのツッコミが意外と面白かったりして、センスあるんだなーって思いました。一番笑ったのは安部セイキ?の「ちんぷんかんぷんだ」ですね。いやあの人何者なんだろう。なんなんだろうあの空間。宗教?