にしのひがしの

作家志望の23歳女が書評とか映画とかの感想・書評を書いてゆくブログ。

映画とイデオロギー〜『瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ』

  

 

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映画論めいたものを読みたいなと思ってたのと、表紙がクレーの絵で惹かれました。クレーが好きなので。

ちょっと自分でもどう書けばいいのかよくわからないですが、試行錯誤しながらやりたいと思います。

 

  

【章立て】

序章 喜劇の女王―“無声映画”の未完のプロジェクト

第1章 飛び散った瓦礫のなかを―「複製技術時代の芸術作品」と映画

第2章 パノプティコンの原光景―ミシェル·フーコーと視覚的無意識

第3章 重力の天使たち―ロイドとチャップリンにおける身体·視線·都市

第4章 逃げ去る都市―遊歩の凋落と初期映画

第5章 資本主義の道化―キング·ヴィダーの『群衆』(1928)

第6章 路上の“馬鹿息子”―バスター·キートンと「アマチュア映画」

終章 花摘む人に倣って

 

 

大まかな内容をまず。

巨視的な視野で「映画を見る」ことを論じているのが第一章の《飛び散った瓦礫の中で》、第二章では「視る」という概念の延長として視線について論じる《パノプティコンの原風景》です。残りの章では「映画と都市」というテーマにそって、チャップリンや古典無声映画に具体的な分析をしています。私は無声や白黒映画を見たことがないので、第3章以降のテーマには本質的な興味を持てなかったところがありました。第1章のみ、理解できた範囲で書かれていることをメモというか、噛み砕いて置いておきたいと思います。興味をそそられる方が一人でもいたら幸いです。

 

「見る」こと〜ゴダール「映画と歴史について」

ゴダール無声映画へのこだわりと、トーキーへの批判が引用されます。映画を「見る」ことの本質的な意味について考えられています。

 

 

映画の力は見せることにあり、それに対して観客がなすべきことは見ることにある。映画の誕生以来、映画の見せる力は精力的に追及されて来たが、トーキーへの意向によって決定的に見失われてしまった。そして、トーキーからテレビ以後のマスメディアは見せることをせずに話すだけのものになってしまった…。このような認識を執拗に語って来た映画作家がいる。無声映画の終焉からほぼ一世代も経過した後で映画を撮り始めたジャン=リュック·ゴダールである。(16)

 

ゴダールの考えを敷衍すれば、トーキー以後の映画は見せるよりも話す。映像の量的増大や技術革新はそれだけでは見せることへの促進には繋がらない。それらが言語野通念に隷属している限り、むしろ「観客の自由」は奪われる。人々はますます見ることなく。ただ聞くだけの存在になるからである。…聞くことから発して話すとは、要するに、聞いたことをおうむ返しに言うことに他ならない。つまり、みずから見ることがなくなるという事態は、みずからの考えを話すことがなくなるという事態に他ならない。(18)

 

ここで「見る」という行為は、なんだろう、既存の言語や通念に依らない、自分の感覚や認識のみで、ひとつの大きな何かーー問いかけであったり、テーマであったり、事象であったりを受け止める、という意味に翻訳されます。私は読む人間なので、この考え方は興味深かったです。通念やイデオロギーに裏打ちされた映像といえば、戦時中に国体が作ったようなやつですね。そういう映画の裏の意図を「話す」ことは伝えたと。

また、トーキーはあまりにも自由度が高く危険であるため、政府は急いで有声を導入した、というのもゴダールの考えらしいです。

声がついたほうが解釈はより広がると思われがちですが、実際は逆であると彼は考えます。声というのは解釈であり、一つの正解です。声がつくことで、物語や観客の思想を支配し、意図した方向に誘導することができる。無声はあらゆる動きや展開が観客の理解に委ねられ、映像への意味づけの資格が万人に与えられる。それは非常にまずいことである、と体制側は思ったという。著者もまあ、「陰謀論めいた」とは書いていますが、真理をついた考え方だと思います。ひとつの謎、現象として映像が提出されていた時代、それが無声映画だったということですね。大衆がそこまで理解して愉しんでいたかどうかはよくわからないですけど…。

(ただ著者は、この本をそのような無声映画と、都市生活を送る大衆との結びつきを分析するものとして書いたと述べています(15)。大衆の実感にまでは迫っていない印象ではありますが、サンドイッチマンやアメリカン·ドリームなど、具体的な当時の都市生活の片鱗を切り出しています。そのあたりに興味がある方は読んで見てもいいんじゃないかと思います。)

 

アウラについて〜ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」

 

また、題名でもある「瓦礫」の言葉を用いたベンヤミンの、「アウラ」という概念も用いられます。

簡単に言えば、アウラとは芸術作品の「素晴らしさ」ということなのかな。著者は「オリジナルの芸術の「真正さ」」と書いています。くどく書けば、「空間と時間から織り成された不可思議な織物」、「どれほど近くにあれ、ある遠さが一回的に現れて要るもの」、「夏の午後、静かに思いながら、地平に連なる山内を、あるいは憩っている者の上に影を投げかけて要る木の枝を、目で追うことーーこれが山々のアウラを、この枝のアウラを呼吸することである」ということだ、と。これ理解させる気ないでしょwって感じですが、噛み砕けば、「対象の物質的な存続力によって引き出される、歴史的証言力、権威、伝統的な重み」、云々、であるらしい。

そしてこのアウラは増加する大衆が芸術作品を複製し、自分たちに近づけようとするために、没落していっていると彼は言う。

このへんはわかりますよね。コピー、複製、云々のやつです。

だから大衆はけしからんのだプンプン、とか、そのへんのおっさんなら言い出しそうですけど、流石にベンヤミンの目的は懐古にはありません。彼はむしろその喪失がアウラの価値を担保しているといい、その最たる芸術表現を、写真ないし映画であるとしています。彼がこのように、アウラの存在を強調した理由は二つ。

 

1.「アウラの捏造」という事態 …これはここでは「歴史や真実の捏造」といったファシズム的傾向への警鐘という意味があります。

2. 映画による「芸術の機能転換」

 

そして著者はベンヤミンの「有名な一節」について分析します。以下がその引用です。

 

私たちの知っている酒場や大都市の街路、オフィスや家具付きの部屋、駅や工場は、私たちを絶望的に閉じ込めていると思われた。そこに映画がやって来て、この牢獄の世界を十分の一秒のダイナマイトで爆破してしまった。その結果私たちは今や、その遠くまで飛び散ってしまった瓦礫のあいだで、悠々と冒険旅行を行うのである。(33)

 

私の理解できた範囲でまとめれば、話は写真と映画についてです。

まず、写真は、いかにもそのイメージをそっくり写し取って提出するように思われるが、実は「アウラ」、実際にうつされた被写体と、写真との間の距離を大きくさせている。それは時間においても、距離においても、価値においてもそうである。

 

写真そのものが物としての持続性(それ自体が痕跡であること)を失い、むしろ痕跡のイメージになった。したがって画像の指示対象との関係は究極的には決定不能な者として見る主体の経験に裂け目を導入するようになった。写真に固有の言表というものがあるとすれば、「それはーかつてーあった」という断言=肯定よりも、むしろ「これはーいつーあったか?」という絶えざる疑問なのである。(30)

 

「裂け目」という言い回しはとてもいいと思います。わかりやすい。「確実にそこにあるもの」に「複製」のイメージがかぶり、判断や解釈、鑑定、疑心が必要になってくる。ここはファシズムへの疑いとも重なりますね。

 

そして、映画は、写真をさらに動かし、あらゆる時間と場所を「切り刻み」、編集し、あらゆるイメージを刷新し上書きしていくものです。しかしこれはアウラの単なる複製ではない。写真のように、「これはいつ撮られ、つくられたものか?」という不安よりも、その切り貼りによって新たな価値を創造し、積極的に一つのものを作り上げようとする。このような意味で、「私たちが今や、その遠くまで飛び散ってしまった瓦礫のあいだで、悠々と冒険旅行を行うのである」という一文は読むことができます。

 

しかし、先にゴダールが述べたとおり、声に始まるこのような切りはり、エディットは、恣意的な情報操作にもたやすく用いることができる。筆者は蓮實重彥という方の、ベンヤミンのこの時期に、世界のあらゆる国で「映画のイデオロギー的再編」が進行したという仮説を援用し、ベンヤミンのこの考えへの補強を行います。映画にストーリーが入り込み、画面ではなく理屈や物語で大衆の心をとらえることになったこと。これを蓮實は「映画の第二の誕生」と捉えることを提案している。

本来ベンヤミンが、ゴダールが、そしておそらく蓮實もこの本の筆者も、目指すのはそのようなイデオロギーを真に受けるという意味での映画観賞ではない。

54-55ページには、そのような「見る」練習として、ジャン=リュック·ゴダール、ジャン=マリー·ストローブ、ダニエル·ユレイの映画が紹介されます。写真から映画に至る転換を思い出しながら、「継ぎ接ぎ細工のアレゴリー形成物」として彼らの映画を見ること、「寓意家(アレゴリカー)としての観客、むしろ反=観客こそが、ベンヤミンの称揚するものではないかと筆者は導きます。これは、この叙述がわかりやすいのではないかと思います。

 

プロレタリアートが解放闘争を開始する瞬間、一見ひとまとまりであった大衆は、実はもうほぐれている。大衆は、単なる反作用(リアクション)に支配される状態を脱する。彼らは行動(アクション)する。(53)

 

映画を見て笑った、泣いた、怒った、面白かった、つまらなかった、感動した、そういうのは反作用ですね。ベンヤミンが志向するのは、「「メディア」としての映画が物語の納得へと観客を誘うとき、一篇の作品と一つの物語との自然な調和」をなぞるのではなく、映像の物質性と断片性を露呈させ、全体の「自然な調和」を乱すような言葉でフィルムをさかなでする」(53)見方である。結構ひねくれた見方ではありますけれど、それが「作られたもの」であり、「どのような意図をもってして」「何から成り立って」作られたかに思い及ぶというのは、一国民としても、一芸術家としても、一批評家としても、持っていていなければならないポジションではあると思います。

 

そしてそれは、ベンヤミンの著作中で「新しい天使」という美しい名前を持つものとして現れる。非常に詩的な文章です。

 

彼は顔を過去のほうへ向けており、私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局だけを見るのだ。その破却はひっきりなしに瓦礫の上に瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり死者たちを目覚めさせ、破棄されたものを寄せ集めてつなぎ合わせたいのだろう。(55)

 

これがこの本のタイトル「瓦礫の天使たち」の由来ですね。筆者はこの本のカバーに、決然と扉から立ち去る人というクレーによる絵を採用しています。それは、イデオロギーや進歩という名の恣意的な流れから、自発的に「立ち去っていく」天使のイメージを本全体に印象づけます。

 

書評として

この第一章と、第二章のパノプティコンについての説明は、どちらも「見る」ことについて、切迫した言説を引いて語ってくれて、大変興味深く読めました。それぞれの章が単独の場で発表した論文をまとめたものということなので、完成度というか、目的にばらつきが出ているのは当然のことなのかなと思います。もちろん一つの大きな流れが貫いているとは思うけど。白黒映画·無声映画と当時の人々と都市生活、って感じかな。小学生の自由研究の題名みたいになっちゃったけど。

まとめていて思いましたが、映画とファシズムあるいはイデオロギーって、結構内包されやすいテーマだったりするのかな。大学で日本映画の歴史をやったときも、戦争における国家体制に援用されたって言ってたし…。これが文学作品だとまたちょっと勝手が違ったりしますよね。映画史の疵というか、揺れ動きというか、抵抗、余波、みたいなものがありますね。

白黒映画だと、「ニーチェの馬」をみたことがあるけど、案の定途中でやめてしまったのですが…。実際ゴダールの映画を見れば、そういう瓦礫の天使的な立ち位置で、映画を見たりすることができるようになるのか気になるところですね。

 

原始の映画は、そもそもは「フィルムが動く」というものを見せるため、純粋にその感動を見せるためのものであった、というのも、興味深いところです。第一章では、その「動き」は「暴走する狂った機械」に委ねられることが多いと書かれています。ホースの荒ぶりや、制御できない機械装置などが描かれることが多い。個人的にはウォルト·ディズニーのアニメーションを連想しました。制御できなかったり、思い通りにならない、ユニークな動きが多いなあと。そして、本論では、この「狂った機械」のイメージは、映画それ自体のもつ「時間や空間を切り刻み、全く異なるものにつなぎ合わせていく」という表現形式と重ねあわせられています。

映画の本質的な意味として、このような「切り刻み」「構成される」という要素があること。それを逆手にとりつつ、寓意的な視点から、ストーリーと分裂した映像から「読み取る」ことをしていくこと。これは映像作品だけが成しうる表現であり、伝達形式なのだと思います。

 

ちょっとググってみたら、第一章の全文がjstageで読めましたので、全文読みたい方はこちらからどうぞ。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr/62/2/62_255/_article/-char/ja/

 

瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ

瓦礫の天使たち―ベンヤミンから“映画”の見果てぬ夢へ