にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

TOKYO FMサンデースペシャル 『人生に、文学を。』 第一回 桐野夏生・谷崎潤一郎感想

夏風邪でダウンしておりました(若干今も)、にしのです。
だんだん風邪が良くなってきたときに、自力で本を読むのも、映画や動画を見るのも、ちょっとキツいなっていうタイミングがありました。暇なんだけど視覚情報に集中するのが辛いっていうか。
なので、ネットラジオでも聞いてみようと思い立ち。お笑い芸人さんの大きな声とかはちょっとつらいから、落ち着いたトーンで、何か面白そうなのはないかなあと探して見たら、ちょうどタイムリーな番組を見つけました。

www.tfm.co.jp

(リンク先で全編聞けます)

日本文学研究者・ロバート・キャンベルをパーソナリティに迎え、直木賞作家・桐野夏生と、彼女が最新作『デンジャラス』で扱った、文豪・谷崎潤一郎について語らうという企画。
しっとりした雰囲気もちょうど気分に合ってたし、街頭で女子大生に谷崎の小説の一文を読ませ、感想を聞くようなところも工夫があって面白かったです。全体的に興味深かったのは、

1 「デンジャラス」で桐野夏江が見出した、谷崎の愛人たちの抱く悩みの普遍性
2 ロバート・キャンベルの的確で鋭利ながらも穏やかな語り口

の二つかなと思います。

1つめ。
番組の中盤でロバート・キャンベルがうまく纏めているのですが(ここは書きとめたくて、途中で一度再生を止めてました)
「谷崎が愛した女たちというのは、文豪が愛した女性という勲章を抱きつつも、それぞれがどこか確たる自信や居場所が、ない」ということ。
谷崎潤一郎という人は(私も短編を2つか3つ読んだくらいしかないかな?って感じなんですが)、耽美で官能的な小説世界を描く作家です。番組中でも、彼の小説で、老人が女性の足の裏を舐め、その指を吸って「悦に入る」シーンが読まれます。年かさの男が若い女性の「足の指を舐め」るシーンというのは、この間レビューを書いた「娚の一生」でも出てきたので、奇妙な符号を感じました(ポスターにもなっているシーン)。

hlowr4.hatenablog.com

足指を舐める。少しアブノーマルで、背徳的な行為、後ろ暗い情事を暗示する行為である。服従という要素も含まれてて、SMっぽいところもありますね。
谷崎は自分の愛する女性を幾人も家に集め、彼女たちを養いながら、共同生活を送らせていた。簡易大奥というか。谷崎という人は、しかし優しい男ということでしたから、例えばあえて争わせたり、表立ってランクづけして贔屓したり、そういうことはきっとしなかったと思います。それぞれの女性に敬意と愛情を尽くしながらも、自分の美学、ゆがんだ愛のかたちを追い求める。やさしいやさしい暴力、というか。番組中で谷崎邸は「谷崎の王国」であったと語られます。
そういう環境に置かれていたからか。それとも、もともと谷崎がそういう要素を孕む女に惹かれるからなのか。〝谷崎が愛した女たちは、彼に愛されること自体をアイデンティティとしようとしながら、「確たる居場所」や「自信」を持つことができないでいる。〟
なんとなく私は後者の要素も強い気がしますが。ただ、男(それも裕福で、名声がある)に愛されることをアイデンティティに置こうとする女というのは、今でも全然いるし、全く色褪せていないと思う。むしろ、社会的に別に強制されるものでなくなっただけ、擬似的に自分をそうやって囲い込もうとする女性が目立つ、ような。
桐野夏生は「昔は今みたいに仕事をしている女性も少なかったし、尚更」(ニュアンス)と言うのですが。想像すると少し息づまるものがある。無論谷崎邸の環境はとりわけ特異だったとは思いますが、「愛されることで、自分の価値や生活を担保される」生き方。社会的にそれが女の生き方として当然とされる。これはモーム「月と6ペンス」でも女性の生き方として言及されていたところですね。

hlowr4.hatenablog.com

私は別に専業主婦がどうのとか、面倒くさいことに切り込むつもりはないし、経済的その他の事情で、女性自身やそのパートナーが自分たちに向いてるほうを選べばいいと思っていますが。
選択できるということが何よりも大事という気がします。
谷崎邸の女性たちの状況を思うと、あたたかい部屋で徐々に傷んでいく、柔らかい果物のイメージが浮かびます。谷崎潤一郎は確かに優しくて、好い男だったんだろう。不義理もしないし、他の女に愛情が移ったからといって、前に熱中していた女を追い出すこともない。でも、だからこそ女は傷む。誰にも言えない傷や秘密が増えて、あたたかな愛情のなかで腐ってゆく。
豪華な豪邸があって。生垣や、障子とか、襖とか。そういうもので何重にも覆われている和室、みたいな感じがします。でも、それはそれで淫靡であるし、一種の世界、ロマンティシズムだと思う。谷崎潤一郎が憧れていた世界というのは女の私でも理解できるし、きっとだからこそ彼の文学は普遍たりえたんですよね。
少し話を戻して。
番組中で、桐野夏生は『デンジャラス』では女性たちの「居場所探し」というテーマを強く打ち出していると話していました。私にも覚えがあるんですけど、男の愛情って、女が自分の「居場所」とするにはあんまり不確定で結構きついんですよね。どうしても性欲の部分が大きいし、若さや奔放さは年を取っていけば失われるものだし。愛されなきゃと努力すればする分、気持ちが離れていかれたりする。そのへんは男女関係の永遠のテーマなんだろうと思う。あやうい均衡といいますか。欲しすぎてもいけない、全く求めなくてもいけない。だからこそ、特にこの時代の女は試行錯誤する。愛されるために、この文豪が満足のいく女になるために、どうすればいいのか。けれど彼は身勝手で、長らく付き合ってきた年増より、ふと現れた若くて気ままな女に関心を抱くようになったりする。

 

デンジャラス。ブック・ナビ評論家によるデンジャラス【桐野夏生】の書評とコメント

この書評が一番小説世界に踏み入った分析をされてました。え、谷崎潤一郎妻を佐藤春夫にあげたりしてたの…鬼畜…。

女性への思慕と妄想を創作の糧にする谷崎にとって、日常生活を共にする「妻」は常に現実の瑣事に足をすくわれ幻滅する恐れがあるのに対して、「妻の妹」はいつまでも妄想の対象として留めおくことができる文学的存在だったのかもしれない。  

ここは私が書いてきたのとちょっと呼応する部分なんじゃないかと思います。男のエゴ丸出しって感じだけど、でも、人間の中には確かに存在する欲望なんじゃないだろうか。「夢を見る」。現実に堕した女は、きっと男の「幻(ゆめ)」たる資格を失ってしまう。
ここから少し使わせていただいて、説明すると。『デンジャラス』中で、70代の谷崎は妻・松子やその妹・重子をさし置き(この時点でえ?って感じですが)、義理の息子の妻、20代の千萬子を愛するようになる。物語のラストに、語り手である重子は谷崎を咎め、「千萬子をとるか、あたしをとるか」と詰め寄る。谷崎は重子に深く土下座し、「あなたさまが私の創作の源泉です。あなた様ほど複雑で素晴らしい女人はおられません」と、重子への愛を白状する。しかしこのやりとりを松子が見ていた。重子は気配に気づき松子を見るが、松子は何も言わずに立ち去る。

ここは、ロバート・キャンベルも触れていました。松子のこの行為を蛇足だったかもしれないと語る桐野に対して、ロバート・キャンベルは、そんなことはない、谷崎の愛の不実さをも受け入れた松子に救われた、と言います。それすら呑み込むように松子は生きた。彼女の中にはあまり谷崎を責める気持ちもなかったような気はします。彼の必定であり、自分の宿命であり、創作世界であったと考えていたのではないか、と勝手に想像しました。

 

ロバート・キャンベルが出てきたところで、先にあげた要素の2つめに行きましょう。
彼は全体的にとても聡明で、すごく細やかな言葉のセンスを発揮しているんですが。なかでも私が印象深かったのは、彼が「冷酷」を「冷徹」と言い換えるシーンです。作家で日本人の桐野が使った「冷酷」に対して、「冷酷?」と聞き直し、彼女が「冷徹」と言い直すと、「ああ、冷徹」と納得する。こんな微細な日本語感覚を持ってる人って日本人でもほとんどいないですよね。いや、あまりに当然のことを言ってるかもしれないんですが。改めてちょっとこの人ってすごいんだなと思いました。

他にも、外国語まじりのイントネーションで発される「差し(向かい)」、「寸止め」、「ねたばれ」、「蛇足」、がいちいちなんかすごく新鮮な響きに聞こえる。彼の声で解体されることで、日本語の情緒が再現されるんですよね。ここはかなりびっくりしました。本当に日本文学の情緒に分け入って、その一粒一粒を膚で感じ取れる人なんだなって伝わってきて。今更こんなことを言うのもちょっと、あまりに当然で恥ずかしいことなのかもしれないけど。注目していきたい方だなあって思いました。この人がパーソナリティを務めているなら、この「人生に、文学を」シリーズ、あと三回あるらしいんですけど、全部聴きたいなって思います。聞いたら、また感想をあげたいな。

病み上がりということで、今日は短めです。『人生に、文学を。』お勧めです!