アンナ・カヴァン『氷』感想
読了しました。
薄い本だし、訳も自然でつっかえるところもなかった。
難しいようでいて単純な話なんだろうなと思う。
こういう話を読むときに、何かと何かがイコールだとか分析して、関係図とか、一覧表を作ろうとしたがる人がいる。たとえば芥川龍之介の『トロッコ』が不安の現れ、とか、メタファを=とか記号でつなごうとする。受験勉強や授業みたいに、わかりやすくまとめるときには便利だし、とっかかりやすくはなるのかもしれない。でも、すべてそういう図式で済んでしまうのであれば、何も小説って形にする必要ってないなってわたしは思う。図式で表せないものを書くために小説があるし、単純化によって作者の本当の気持ちみたいなものが、指の隙間からこぼれ落ちてしまう感じがする。そう考えると、読書って丹念に気持ちや心をなぞっていくことなのかもしれない。作者の心の、生のままの迷宮を、読みほどいて再現していくことかもしれない。
『氷』はそういう小説だ。だから、これを単なる図式に還元するのは少し違う気がする。
設定はわりと荒唐無稽である。
語り手である「わたし」と、「わたし」と奇妙な一体性を持つ「長官」、そして彼らから暴力を振るわれる「少女」がいる。「わたし」は「少女」を自分の一部と考え、愛しい彼女を追って氷に侵食されつつある世界を探し回る。その世界は核兵器と氷によって滅亡に瀕し、人々は絶望を抱えている。
「少女」は幼児期の母親からの虐待によって、自分を被害者だと見なし、暴力に対し常に怯えと恐れを抱えている。この世界は奇妙にも「わたし」の心と呼応しては離れる。氷の世界は「少女」を脅かし、「わたし」を責めさいなみ、その住民を暴力と死に閉じ込めていく。
「わたし」と「長官」はどちらも少女を求め、支配し、そして痛めつける。「彼女」を支配し虐めることは、「わたし」に薄暗い快感をもたらす。「わたし」は少女を狂おしく求めており、絶えずその美しさ、儚さを讃えるが、同時に彼女を殺すのは自分だけに許されていると考えている。
「氷の世界」とは、「少女」を苛む「長官」や「わたし」のメタファでもあるようだし、「少女」を自分の一部と思う「わたし」の、絶望しきった心象風景にもみえるし、また、ただの理不尽な超常現象であるようにも読める。確定的なことは最後まで示されない。
読んでいるうちに、なんとなく「長官」はより暴力的な「わたし」なのかもしれない、と思う。ふたりはときに分裂し、対面し対立しながら、支流の川が交わるように混ざっていく。それでは「少女」は、「わたし」の被虐的な部分、痛めつけられ、傷つき、すべてを恐れ、世界には絶望という答えしか存在しないような「わたし」だろうか。あるいはそうかもしれない。そうとも読める。そうでないとも、読める。ただそうした解釈を指向するように作品は流れている。
『氷』は錯綜している。組み入った入れ子構造というか、意味と意味が明確に区分されていない。ひとつの表式がひとつを飲み込んだり、支配されたり、囚われたりする。それを示す文章をいくつか見つけた。
外の世界の非現実性は、わたし自身の乱れた心の状態を延長したように思えてくる。
この世界の冷酷さは、少女の臆病さと脆弱さが誘発しているように思われた。
少女の内にある何かが、彼女を犠牲者にすることを要求する。今ではもう[彼女とわたしの]どちらが犠牲者なのか判然としない。多分互いが互いの犠牲者なのだろう。
『氷』には相矛盾する文章が多々あるのに、意外なほどに読みやすい。文章の平易さもあるのだろうが、視点や時間軸、場面を唐突に転換するのなら、難解と感じられてもおかしくない。けれどすらすらと読める。それはなぜか。登場人物や世界の構造が非常にシンプルだからだ。追いかけるもの、逃げるもの、攻撃するもの、傷つけられるもの。病んだ人間の心のなかの、シンプルな構造がそのまま反映されている。
冒頭で、わたしが「難しいようで単純な話」と書いたのはそういうわけだ。
そのシンプルな構造は、シンプルだからこそ、読者の心の構造と呼応する。
絶望に閉じた冷めた世界と、楽園としてのインドリ。その狭間で、少女と抱き合い世界の終末を見届けることを選ぶ「わたし」。単に無味乾燥な記号でくくるのではなくて、この世界の力ない民の一人になり、心細く彷徨うのが、この本にふさわしい読まれ方だと思う。
この版の序文として、クリストファー・プリーストという人の評が訳されている。この人は「スリップストリーム文学」として『氷』を紹介する。「スリップストリーム文学」とは、“本質的に定義不能な概念”であり、“あらゆるカテゴリーづけの外にある精神の一つの状態、あるいは特殊なアプローチ”というふうに説明される。 “読者の内に「異質性」の感覚を誘発”し、“歪んだ鏡に映ったものを見てしまうような、見慣れた光景や事物をいつもとは違う角度から眺めたような感覚”を誘発する。そして、“スリップストリームは、科学(とその所産)を無意識の領域に、メタファ、エモーション、シンボルの領域にシフトさせる”。
言葉にすると難しいが、こう、現実に関するカウンターというか、現実を小説の中で作者が「私物化」してしまうような、そういう作品をさすんじゃないかと感じる。『氷』は特にそういう形式に沿うものの気がする。
もっとそういう作品を読みたい。それは小説のなかでしかできないことだし、わたしにとっては、だからこそ小説を読む意味がある。現実には、わたしなんかが受け止めきれないことが多すぎる。