にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

大江健三郎『個人的な体験』『狩猟で暮した我らの先祖』『人生の親戚』『鳥』

 

最近わりと大江健三郎を読んでいました。個人的な感想メモを書き留めておきたいと思います。

個人的な体験(第11回新潮文学賞受賞作)

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大江健三郎の作品は彼独自の哲学や思索のシュミレーションというか、あるひとつの実験的な世界という側面が強い。こう、ある種研究室的というか、ラボというか、一つの舞台セットの上で、意に反した要素のものを埃ひとつも残さず排除し、構成要素を組み立てていく、ちょっと不健康的な感じの小説空間だと、個人的には感じる。その中で『個人的な体験』は小説として、読んだなかで一番面白かった。火見子の人物造形が好きだ。他にもデルチェフさん、オカマになっていた菊比古、堕胎医もキャラが立っていて、生き生きとしている。生身の人間のような現実感がある。血の通った感じがする。大江健三郎の小説の登場人物は、その語り口のある種のぎこちなさからなのか、どこまでも著作者・大江健三郎(メタ主人公)の傀儡というか、操作されているパペット…という印象が否めない。そこが(あるいは若さゆえか)打ち壊され、個性溢れる登場人物も、懊悩する主人公も、生きた新鮮さがある。終わり方も、それまでの鬱屈した自嘲・自罰・逃避というムードから想像出来ないほど晴れやかで、カタルシスがある。当時議論が巻き起こったというふたつのアスタリスク以降も、私は良いと感じた。

火見子の語る「多次元の自分」というのは、そのまま大江健三郎の作品群の特徴となっている。『人生の親戚』でも同様の趣旨が、同じく女性(まり子さん)の口から語られる。

逃避ゆえに強い酒を飲んで酔い潰れ、失敗を犯す、というのは『狩猟で暮した我らの先祖』に出てくる。

障害をおった実子、というテーマはいわずもがな。

 

狩猟で暮した我らの先祖

これは…正直あまり良いと思わなかった。読んでいて「山の人」「流浪する一家」に生理的な嫌悪が先立ってしまった。大江健三郎は、障害児や狂人など、正常でない存在、排除される存在をこれでもかというほど、その醜さや愚かさまでも貫いて描き、なにがしかの真理、尊厳、神性、のようなものを表現しようとしているのは、分かる。それでも、「流浪する一家」は露悪的な部分が多く立ちすぎた気がする。それに、終わり方もまた、途中で一度露出してきた直感を疑問に変えて投げかけているだけで、カタルシスがあまりない。今は一般市民のなかでは追放される存在へと変わってしまった「父祖」、「山の民」、原始の存在と、それに惹かれる自分を描く。この主人公も、あまり共感出来なかった。何しろ障害のある息子の世話をすべて妻に丸投げしているように読めてしまう(自分も精神薬やお酒などを飲んでいるから、苦しんでるんだろうな、というのは暗にわかるが結局逃避の一貫に見える)。「流浪する一家」に心惹かれ、ついていきたいとすら思いながら、自分の不在時に子供をさらわれ傷つけられる事件が起こり、結局擁護も憎みもできず、宙ぶらりんの位置に留まる、というのは。赤裸々な自分のあり方を綴ったというふうにも読めるが、うーん、モヤモヤするだけだった。

 

人生の親戚(第1回伊藤整文学賞受賞作)

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これは結構よかった。今回読んだ他の作品に較べて顕著だったのは、テープ音声や映像、あるいは手紙など、「資料」の情報を継ぎ合わせて、編集し、あとから主人公がそれを横断して書いているような、リポートみたいな書き方を採用しているということ。なんでだろうと考えてみると、読者にとってもこの小説を体験的なものにしたい、という意図があってのことだろうか、という気がする。フランシス・オコナーや聖書、バルザック等、作品の主要部に存在するサブテキスト群は、積み重ね、という印象がある。かさばった重たい歴史の産物。この作品はこの作品だけで完結するのではなく、様々な、千々な、歴史が生み出したものものの総体、その一欠片から、ようやく成り立つ、こもごもを孕んで立っている、といいたげのような。

まり子さんは火見子さんよりもさらに聖女めく、というか、はっきりと聖女的なものになっている。主人公は火見子と同様、まり子さんからもセクシャルな誘いを受けるのだが、もう老境に達しているため、『個人的な体験』のように受けて立ち、幾日もかけてそれに興ずるということはなく、あっさりと断っている。

ラストはさっぱりとしてカタルシスが得られる、と言うわけにはいかない。『狩猟で暮した我らの先祖』と同様、懊悩と自分への問いかけのなかで、煮え切らぬ閉じた終わりを迎えている。だけれど、『我らの〜』ほどのモヤモヤを感じないのは、テーマがさらに圧倒的だからなのかもしれない。もしくは、無宗教の日本人に共通の虚無感というか、ある感覚を指しているから、自分も共感しやすいのか。

作中でへえ、と思ったのは、教団に入ったまり子さんが、性欲を持て余し悩む女性信者に対して演説するシーン。

マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちには当てはまりません。(118)

これって本当なのだろうか。そうだとしたら、女性の禁欲を謳う現在の(欧米圏の)倫理がどこからきたのか気になる。

また、少女時代のまり子さんが間一髪で助かったという「落雷」というモチーフが面白い。これは『海辺のカフカ』にも出てきた。主人公の少年の父親が、雷にうたれて死んだ、その確率について、希少性について、思索をめぐらしている場面がある。雷というのは日本語では「神鳴り」で、神性と結び付けられて考えられていたけれど、キリスト教ではどういう意味あいになるのだろう。『海辺のカフカ』の父子像は「マクベス」を下敷きにしているらしいから、キリスト教的な意味あいの落雷だったのか。など個人的に愉しめた。フランシス・オコナーもまた掘り下げ甲斐があるのだろう。

また、フリーダ・カーロという人を初めて知った。あまりに凄絶な生き様すぎて、まり子さんが作中で、フリーダ・カーロと較べて自分は中途半端だと嘆くところがあるのだが、いやそこまでしなくてもいいのでは、、と思ってしまった。

(作中で言及されるのはこの絵:『ヘンリー・フォード病院』)

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主人公の呼び名が往々にしてバードという点でも、大江健三郎作品のなかで鳥というのは重要な位置をしめているのだろう。この作品は珍しくショートショートで、大江健三郎アルター・エゴともいえる主人公は(表面上)登場してこないし、バードと呼ばれているということもない。大学を辞めて自宅に引きこもっている青年の、鳥の妄想についての話だ。ちょっと星新一とか世にも奇妙みたいな皮肉っぽさがあって、現代的で好きだ。話のムードも、なんていうか、すごく直球で、社会とか共同体とかセックスとかの長編の廻りくどさがなくて良い。新鮮な大江健三郎。それと、大量の鳥群、というので、ちょっとヒッチコックの『鳥』を思い出した。デュ・モーリアと言う人の短編が元なんですよね。それも読みたいなあ。

 

(※『個人的な体験』以外は『日本文学全集』で読了)