東京と、孤独と、スマホ〜『リップヴァンウィンクルの花嫁』感想
見ました。※がっつりネタバレしてます
岩井俊二監督は『リリイ・シュシュ』と『四月物語』を見たことがあります。ただ、どちらもリアルタイムではなかったので、どうも古い感じがしてピンとこなかったんです。
『リリイ・シュシュ』は特にいじめの描写もきつかったので…。でも『リップヴァンウィンクルの花嫁』は「今」に合ったもので面白かったし、監督は「時代の色」を切り取る、感じるのがすごくうまいのだと思いました。三時間弱あるので、途中で飽きたり疲れたりすると思ってたんですが、ずっと惹きこまれて見てました。
黒木華ってこんなに演技が上手いんですね。地なの?ってぐらい自然すぎてびっくりでした。綾野剛も、出て来た瞬間は先入観がありすぎて、「綾野剛だ…!」って言っちゃったんですけど、自然で、しぐさとか喋り方にリアリティがあって良かったです。
CoccoはもうCoccoで良かったけど、それでも、偽家族と最初に喋るシーンなんか上手かったし、七海に自分の部屋(?)を紹介する際の「ちょっと秘密」にくすっときました。
私はずっとCoccoのファンで、KOTOKOも見たしゴミゼロのドキュメンタリーDVDも持ってるんですが、癖があるのに温かみがあって、動物的で、周囲になんだかんだ愛されていくところとかはまんま地だなと思いました。KOTOKOよりは狂気の影は全面には出て来てなくて、生きるイメージが表だっていたので、精神衛生上は良かったです。
というか、この『リップヴァンウィンクルの花嫁』全体が、「狂気(みたいなもの、≒、孤独?)を託ってそれなりに生きる」にフォーカスして作られていますよね。第一線だったのは結構前のCoccoを、「今」のかたまりのようなこの映画に起用したというのは、監督の時代精神への敏感さを示している気がする。Coccoは古びない種類のもの、孤独感や愛、生きる苦痛なんかを歌っており、それはむしろどんどん表面化しつつあるものな気がするから。
見た後1日くらいずっと見放された感じとか、寂しい感じが去ってくれなくてきつかったけど、それくらい質が高いということだろうなあと。
七海の設定とか性格とかが自分に近くてつらかったです。理屈よりも感情、感傷でみる映画なのかなって感じがします。 七海は弱くて、純粋で、不器用で、口下手で、傷つきやすくて、すぐ騙される。頭もそれほどよくないのかもしれないし、人と関わるのも下手で、精一杯の自己表現といえば、SNSの表層をうっすらと文字で引っ掻くみたいに、何行かの投稿することだけ。綺麗とか派手な感じではないし、どちらかといえば可愛「らしい」というか、「ああよくいるちょっと暗めなタイプね」っていう感じ。でも、肌がしろくて、ウェーブのある黒髪ロングがよく似合っていて、家事をするために髪をあげると、はっとするほど平凡で、没個性的で、「何でもない」ような女性に見える。伏し目がちで、小さな綺麗な声で喋って、自分に自信がなくて、少しおびえたように生きている。 中盤、姑に責められて、泣きそうになった弾みで(お酒のせいもあってか)しゃっくりが止まらなくなってしまって、「何ふざけているの?」と辛辣な言葉を浴びせられるシーンがあるんですけど、そこがすごく七海っぽいと思いました。綺麗に泣くこともできない、要領が悪くて、ちょっと見苦しい感じが。
Cocco演じる真白は、そういう七海の「自分を大事にしてください」という言葉に対して、「私この涙のためなら死んでもいい」と言う。真白自身もやはりいびつな精神を持つ女性であり、AV女優として生計をたてながら、毎日飲み歩いて、無茶な散財を繰り返している。ただ、不思議な存在感と包容力、鷹揚さがあり、そこが七海も一緒にいて楽なんだろうなと感じます。
真白の本質は、七海の純粋さ、計算のない思いやりのような言葉に、誇張でも何でもなく「死ねる」といえるところだという気がする。純粋なものへの底抜けの愛、というか。なんでもかんでも愛して、傷つけられて、まる裸のまま生きてる。ウェディングドレス姿で七海と横たわりながら、真白は言う。
「ねえ、私ね、この世は幸せだらけなんだと思うの。だって人ってみんな優しいんだよ? 運送屋のおじさんが、汗だくで家まで荷物を運んで来てくれたりするの。私ね、そういうことされるたびに、幸せすぎて耐えられなくて、壊れそうになるの。だから、せめてお金を使うの。人間って、他人の優しさとか、思いやりとかを直接受け取ると、眩しすぎてとても耐え切れないから、お金を発明したんじゃないのかな」(大意)
これはすごく「Coccoっぽい」セリフ。ある意味おめでたいと受け取られかねないけれど、でも見るべきなのはそこではなくて、真白というキャラクターが「普通の幸せ」にとても耐えられない心のうつわであること、とても「普通に幸せになる」なんてことを受け止め切れないもろい生き方をしていること。それほどに、彼女の人生は、冷たく、救いのない孤独なものだったということ。
綾野剛演じる安室のチンケな小悪党みたいな感じもよくて。彼自身も別に良い人でも悪い人でもない。良い人のように見せかけた悪い人のようにも、悪い人のように見せた平凡な人のようにも、何にでも見えるし、きっと彼も何でもない。ただの「何でもない」人。息をするように裏切れば、出来るのであれば息をするように助ける。安室も、彼自身彼の責を、本質的に負えるような存在でもない。ある意味狂言回しのようなポジションではあるのですが、等身大(すぎるくらい)のただの「人」でした。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、何本か軸があるように思えました。「東京」、「いびつな家族」、「SNS/スマホ」、そして「待つ」。整理してみたいと思います。
東京
この映画の一つに「東京」っていうのはコンセプトがあるのは確実といってもいいです。冒頭のSNSで知り合った男性と雑踏で待ち合わせるシーン、安室と会うカフェや、働く旅館、真白と行ったウェディングドレスショップとか、あえてどの場所を使ってるのがわかるようにしてあるし。また、ラストらへんに、ビデオ通話?で勉強を教えている生徒から「先生、東京ってどんなところ?」と聞かれて、「どんなところ……なんだろうねえ」と七海が答えるシーンがあり、単なる場所以上の意味を東京に求めているような気がする。
この映画を見ていると、東京は人がたくさんいるくせに、離れているかと思えば近づいて、近づいたかと思うと離れて、いなくなって、触れて、その繰り返しのような気がしてくる。人間同士の距離の酷薄さがより際立つというか。とくに七海と安室との関係は利害関係の一致でしかないし、彼はだいたい七海を利用することしか考えていない(七海はそれに全く気づいていず。最後まで安室に感謝している)。真白との別れはもっとも大きなファクターですし、人と人が会う、親しくなる。離れていく、傷つく、別れる。「その意味って何なの?」を考えさせられる町が、この映画の「東京」な気がします。
いびつな家族
見終わったあと反芻していて気づいたんですけど。この話一つとしてまともな家族が出てこないんですよね。
七海の家族は仮面夫婦で仲は冷え切っている。父親が七海に「お前は幸せになってほしい」と親らしいことを話したり、結婚式で涙ぐむところはあるんだけれど…なんか全然響いてこなくて、白ける感じがある。それは、そもそもその結婚式が、七海と夫の間にすれ違いがあること、偽の親戚を招いたものであるからなんでしょう。嘘の上に跨った、どこか白けた涙。 実際、七海が義母に浮気していると誤解され、「実家の岩手に帰りなさい」とタクシーに押し込められても、彼女は父と母どちらも頼ることなく(連絡をとる描写もなく)、都会の雑踏に揉まれ続けることを選びます。そして夫の実家は夫の実家で、母は息子を病的に愛しており、週に2回は上京し、ホテルに泊まって息子と食事をしている。
真白の家はといえば、AV女優になったことで徹底的に縁を切られており、母親に安室が連絡をとっても、「捨てた娘だから骨などいらない、川にでも撒いてくれ」と言い捨てられる。
七海や真白は、家族や家庭に戻れない。状況して、東京に揉まれ、他人同士に挟まれながら、偶発的な出会いに存在や人生を賭けていくしかない。考えてみれば、今の20代とかと親との感覚の断絶ってすごいんじゃないかな。七海が義母に罵られたように、真白が母親に「都会で金稼いで好き勝手に遊んで楽しいか」と吐き捨てられるように、なんというか、世代の生き方が断絶しすぎて、かけ離れ過ぎていて、通じ合えないことも多いような気がする。
スマホ
ちらほらSNSが出てくるんですけど、そこまで大きな存在感はありません。むしろもっと大きく、 スマホでの人との繋がりのほうが大きいかも。少し例をあげます。
七海が当てもなく、荷物を抱えてぼうっと町を彷徨っているタイミングで、偶然安室が電話をかけてくるところかなあ。我に返った七海が「あれ? ここ…ここどこなんでしょう…」と泣き、安室が「行きますから待っててください、今どこですか?」と尋ねるが、七海が場所を確認する前にバッテリーが切れてしまう。ただの筐体となったスマホを握りしめ、泣き崩れるというシーン。
また、七海が真白とアプリで連絡先を交換したのち、雑踏に紛れて真白がどこかに消えてしまうシーン。渋谷(だったかな?)の雑踏で一人で立ちすくんでから、携帯を取り出し、真白のアカウントにメッセージを送って微笑む七海は、一人だけれど、もう孤独ではない。真白とスマホで「繋がっている」から。これってすごく日常的な出来事でもある。見知らぬ街では特に、スマホの存在は大きい。目の前を通り過ぎる他人よりも、スマホアプリや、アプリを介して繋がる人たちのほうが大切で、かけがえがなくて、自分の生きるよすがになっている。
この映画でスマホ、SNS、ネットでの繋がりというのは、七海を首の皮一枚どうやってか食い止めて、生へと押しとどめるような役割を持っています。大きいのは安室という詐欺師の存在ですが、その安室だってどこにでもいる平凡で、卑怯な男でしかない。だから、その平凡で卑怯な男一人だけでも巡り会えることで救われる七海の生について考えてしまう。彼女を救ったのはやっぱり、安室ではなくて、スマホやアプリなんだろうなと。座間の事件でSNS規制が叫ばれていますが。たとえば七海からこの映画でスマホやSNSを取り上げたとして、彼女が救われるとは考えづらい。もともと孤独な人間の行き場を奪うことで、さらに生きづらくなり、たった一人で死へ向かってしまう可能性も十分に考えるべきだと思います。
待つ
この映画のAmazonのある人のレビューに『「〜を待ちながら」でもあるまいが…』という文章があるんですよね。そのレビューは結構的確な気がします。ラストシーンで、七海が一人でテーブルに座って、向かいの椅子を眺めるシーンがある。そして、立ち上がって向かいの椅子に歩いて行って、背もたれに少し触れる。そこを見て、私は七海は「もう一人」を待ってるんだなって感じました。かつて七海の向かいの席に座ったのは、夫であり、次には真白であったけれど、今はもういなくて、だらしがないみたいに、学習しないみたいに、まだ性懲りもなく、向かいの席に座ってくれる人を求めて、たった一人に戻って生きてる。それがこの映画に描かれた七海の生です。
映画の題名を少し分析すると、やはり「待つ」という要素が現れます。『リップヴァンウィンクル』とはそもそも19世紀のアメリカの作家アービングによる寓話らしい。(以下wikiより引用)
アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。 ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまった。
文字通り捉えると、この物語で「リップヴァンウィンクルの花嫁」(つまりリップヴァンウィンクルの妻)は、20年帰らぬ夫を待ち続けて死んだわけです。監督は「リップヴァンウィンクルの花嫁」という存在に焦点を当てることによって、「帰らぬ(来ぬ)人を待ちながら(…死ぬ?)」という側面を強調したかったのではないかと思います。
確かに映画で、七海は二回ウェディングドレスを着て、指輪を(真白とは架空の指輪ですが)交換しており、「花嫁」というに相応しい記号性を持っている。何と言っても真白のハンドルネームがリップヴァンウィンクルであり、七海は彼女と婚礼めいた儀式をしたわけですから、リップヴァンウィンクルの花嫁=七海は結構瞭然かもしれない。(ちなみに七海のハンドルネームは、夫と出会い結婚するまでは「クラムボン」、以降「カンパネルラ」。)
ただ、花嫁姿という点では真白もウェディングドレスを着ている。より積極的に着たがったという点では、七海よりもそこは強いのかもしれない。また「死ぬ」というのも、真白は死んだわけですから、より完成はされているということにはなります。ではその場合リップヴァンウィンクルとは? という問題にもなってきてしまいますが…。まあ、原作での「恐妻」という要素も削ぎ落とされているので、そこまで準拠する必要はなさそうだし、やはりここは七海を指していると考えていいと思います。
Coccoが好きという贔屓目で見ても、黒木華や綾野剛の演技は白眉だし、映画自体の現代性、孤独感なんかもすごく真に迫るところがあります。他のちょい役の方々もすごくいいです。個人的には、七海が一時期働いてた旅館の人たちが好きですね。あ、あと、野田洋次郎さんがちらっと出てるらしいです。真白と二人で行ったレストランでピアノ弾いてた人だろうか…。すごくしっとりして、きらきらしていて印象的なシーンです。Coccoも少しだけ歌うし。黒木華の歌声が綺麗で、本当に可愛い声なのでそれにびっくりしました。KOTOKOよりも激しくないしグロくもないので、Cocco見て見たいって人はこっちからのほうが入りやすそうです。
SEVEN感想 *短め
ブラピのちょっと単純で肉体派で、いかにも男って感じがいいし、モーガンフリーマンのちょっと頑固?だけど、優しくて鋭い感じとよく合ってました。バディものとしてもとってもいいバランスです。
映像美がとにかくすごかった! ワンシーンワンシーンもそうだし、オープニングやエンドロールのセンスも好きです。ホラーとかサスペンス映画って、何で光と影がこんなに綺麗なのか。冷えた白や青の色合いが好みでした。
カメラワークもよくて、、犯人を追ってるときのふっと下にそれてドキッとさせたり、変に広いところから撮って余白で不安にさせたり、犯人の自首シーンでの一瞬の違う角度からの挿入とか、とにかく凝ってる感じがしました。特に、最初は一部しか映さないけど、最後にパッと全体像、みたいな見せ方が好きだなと思います。街並みとか、空からの眺めとか。
脚本は何であんなふうにしたのか。。ラストシーンはあれでよかったんだろうか。結果の是非をいうつもりはないんだけど、ちょっと尻切れトンボ感があったような気がするんだけど、大丈夫だったのかな。バッドエンド自体は全然良いんだけど…。
ミルの家が地下鉄のそばで揺れる、という設定と描写は何だったのでしょう。何となくすごく好きでした。意味のなさみたいな、リアリティみたいなものが。あと、それで初めて笑うサマセットも良かったし、あそこでふわっと空気が打ち解ける感じの力がすごくあった。「四季」(だよね)に合わせて、失楽園とか地獄の挿絵などが挟まれていくのもいいし、やっぱ場面づくりが凝ってるなあと。
犯人役の人の、奇妙に柔らかくて、静かで、隙のない話し方も良かったですね。適度に人間みが感じられて。
コメディやアクションとかのテンションの高さに疲れるときがあるので、サスペンスやホラーのアンニュイな雰囲気が性にあうのかもしれないです。
セブンは最初はよくわからなくて「?」ってなったけど、静けさというか、少し冷えていて、哲学的?な雰囲気が良いなと思います。引き込み方もうまい。
WikiにはSEVENの画面作りやコンセプトに関しての記述がありました。
.フィンチャーは「フリードキンがエクソシストの後に作ったかもしれない種類の映画」としてセブンを製作した。彼は映画撮影技師のダリウス・コンジと仕事をし、「肩越しに後部座席から徐々に見えるようカメラを動かす」というような(全米警察24時 コップスの影響を受けた)単純な撮影技法を採用した[9]。銀残しという現像の手法を使い、コントラストの強い映像となっている。特に捜査官が用いるゴム手袋、図書館のライト、街頭で配られるクーポン券など、淡いグリーンの配色に執着している。
フィンチャーが示したかったように、騒々しい住人や常に降り続くように見える雨、込み合った都市の通りは本作の不可欠な要因である。「汚い、暴力、倫理の欠如といった、憂鬱にさせる表現。視覚的に、そして文体的に私たちはこの世界を描写したかった。できるだけ本物で、かつ生きるためには必要とされるものすべてを」。この目的のために、陰気で、しばしば不気味な世界を作るようデザイナーのアーサー・マックスは注文された。「私たちは、都市の中の人々のモラルの腐食を反映させるためセッティングした」とマックスは述べている。
これを読む限り、やっぱり私が印象的だった表現は、意図して演出されたものみたいですね。でも、グリーンは気づかなかったな。そういえばDVDジャケットも淡い緑が使われてます。どういう意図でこの色を選んだんだろう。苔とか、退廃の色…?
でもどれだけ監督が退廃的に映そうとしようとしても、街並みを美しいと感じてしまうのは日本人の感覚なのかな。最初の人が殺された部屋とか、犯人が潜んでいるアパートとか、そういうのは嫌な感じだったけど、街並みは、アンニュイさまで綺麗だったし、ヘリで飛ぶときに見えた、等間隔な四角いビルディングも綺麗だった。
雨の強さとか、雑にコーヒー渡す感じとか、そういうのまでオシャレだったですね。
日本の田舎のもの寂しさは画にならない殺伐さがあるから、そこでホラー映画撮ったらどうなるんだろう。でも、とうもろこし畑と田んぼじゃ話にならないですね。。比較で次は日本のホラー映画を見てみようかな。
今日は短めですけど、このへんで。
これから短めの記事を短めのスパンであげるというのも試してみようと思います。
お読みいただきありがとうございました。
ウルフ「灯台へ」感想
ご無沙汰してました、にしのです! 閲覧有難うございます。
先日ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」を読み終わりました。初ウルフ作品でした。
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本作は「英ガーディアン紙が選ぶ「死ぬまでに読むべき」必読小説1000冊」入りしてるらしいです。あと、早稲田大学院教授?の渡部直己さんの『私学的、あまりに私学的な 陽気で利発な若者へおくる 小説・批評・思想ガイド』でも必読書としてリスト入りしてました。yurilam.wordpress.com
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大学の授業で「意識の流れ」の人と教わったのですが、実際の文章は読んだことがなかったので、新鮮に読みました。女性の生き方、人の生き方、生きづらさ、人と人は分かり合えるのか、人の本質とは何か・どこにあるのか。哲学的な主題というよりは、日常的な疑問をつぶさに受け取って、丁寧に詰めていく、という方が近いような気がします。人と人が関わる上で焦点に入って来る瑣末な疑問・不思議な感覚を、実験的に一つ一つ、小説の中で追い求めて行こうとしているような感じ。
それと、はちょっと「ムーミン」みたいな雰囲気(?)があるような感じがしました。なんと言うか、どこかちょっとおとぎ話めいているというか、上品というか、寓話っぽいというか。海辺の大家族(8人の子供と、哲学者の父親、美しい母親)と客人たちの話、というのが浮世離れしていて。色は間違いなく青っぽい。いろんなトーンの青が混ざって、それにけぶりを掛けたような雰囲気です。そういえばトーベ・ヤンソンもウルフも同性愛者ですね。あ、ハイスミスもか…。
映画のカメラが横並びに人を映し出して、「この人は…一方この人は…」みたいなカメラワーク?描写?があると思うんですが、ウルフはそれを登場人物それぞれの意識のレベルでやってます。人間観察眼、というのも陳腐な言葉に思えるくらい、的確に・鋭く人間を描いており、実益と美しさを兼ね備えた比喩が登場します。さまざまな人が、お互いのことを同じように思ったり、違ったように思ったり、評価したり貶めたり、ある人物の行動と考えていることが全く違っているのに騙される人もいれば、それを見抜いて矛盾に思いをはせる人もいる。その情報量は筆舌に屈し難いものがある。その混沌が一同に介し、海辺の景色と綯い交ぜになりつつ、自然や人間に何がしかの真理を見出そうと常に伺っている。潮の満ち引きのように、理解や無理解、鈍感と敏感、拒絶と許容、愛と憎しみ…いろんなものが混ざり合っていきます。
一番内面が赤裸々に描かれ、作者の立場と近いように思われるのは、画家志望のオールド・ミス、リリー・ブリスコウです。彼女は美しいラムジー夫人を尊敬しつつも、彼女の内面にあるものや、周囲の人々の良い(美しい)面と、悪い(醜い・あまり良いとは言い難い)面について思いを馳せ、様々な感情や疑問を覚えます。
…では、これらをぜんぶ合わせると、どんな答えがでる? 人はどのように他人を評価し、判断をくだすのだろう? どうすれば、あれとこれを足して、好きとか嫌いとか言う結論を出せるのだろう? 結局のところ、そういうことばには、どんな意味がついてくるのだろう?(32)
…とはいえ、きっとご本人はあそこに見える完璧な姿形とは、実際には違う存在なのだろう。でも、どうして違うの? どう違うの? …奥さんは見た目とはどう違うのだろう? あの方の内なる精神とは、本質とは、どんなものなのだろう。ソファの隅で見つけた手袋が、その折れ曲がった指の形から、ぜったい奥さんのものだと断言できるような、あの方の本質とは?(64)
…まともにものを見るには、目が五十対くらい必要のようね。ーその中には、あの美貌がわからない目も一対ぐらい必要だ。なによりも欲しいのは、秘密の知覚機能とでも言おうか、空気のように薄くて、鍵穴をもくぐり抜け、たとえば、編みものをしたり、おしゃべりをしたり、独り黙り込んで窓辺に座っていたりする夫人を包み込んで感じ取ることができるような力。…ラムジー夫人にとって、あの生垣はどんな意味をもつか。庭はどんな意味をもつか。波は砕けたときにどんな意味をもつか?(253)
リリーはラムジー夫人に時折結婚のことを尋ねられて、彼女をうざったくも思いつつも、度々ラムジー夫人の美しさに打たれ、後半部においては彼女の突然の死について、その意味を考えつづけます。解説では「同性愛的」と指摘もされていますが、しかし、彼女の夫人への感情には性的対象に向ける即物的な欲望とは単純には置き換えられない敬意が読み込めます。いや、もっと言ってしまえば「不可思議なもの・神秘的なものへの驚嘆、崇拝」とでもいうような。そもそもラムジー夫人は単なるキャラクター以上の意味を「灯台へ」において持ち続けます。その人間離れした美しさもそうですし、途中で突然亡くなるという「欠けた」存在になるというのも意味深長な秘密を帯びます。彼女のみが屋敷のすべてを掌り、客人や家族というすべての人々を接げる役割をもっているため、夫人の存在は、密やかに、けれど唯一絶対の、物語を導く(抑制〔コントロール〕する)推進力となっています。自然や意識、その外か内にあり、人間の理解を超越した所で、着実にその調和を保ち続ける謎。秘密のかたまり・結晶というエッセンス。その「不可思議さ」は、地の文章の中でも表現されます。「灯台へ」では、意思がない風や波、自然、物が自分の意識を持って行動を起こしているように描かれている文が多く見られます。多分これがウルフのスタイルなんだろうと思います。それが思いっきり表出するのは物語の「連結部」とされる第2章「時は流る」。自然の圧倒的な力、時間の暴力、人間や生活の非力さが存分に表現されています。他にも、
山腹の狼狽ぶりを憐れんでか、面白がってかわからぬが、周囲を取り囲む丘たちが、曇り翳った斜面の運命をとっくりと考えている、といった風情だ。(216)
などといったような表現。ちょっと漱石の初期(「虞美人草」とか)に似た感じの文章のような(漱石は英文学者ですね)。確かに英語は日本語より無生物主語表現は多いけど、それでも独特な感じがあります。その意図はなんなのか。こういった表現に対して少しずつの「違和感」が結晶するのは終盤のリリーの独白です。
やはり、わたしはなんの不足を感じないながら、奥さんを求めて泣いているってことなのかしら? …だったら、これはなんなのでしょう。どういう意味なんでしょう? ものが手を突き上げて、人をつかんできたりしますか? 剣が人を切りつけたり、拳がつかみかかってきたりしますか? 安らぎはどこにもないのですか? いわゆる処世術を覚え込んでも、詮ないものですか? なんの導きもなく、身を寄せる隠れ蓑もなく、人生とはすべて奇蹟の賜物で、つねに高い塔の頂から宙に身を躍らせるようなものなのですか? どう年を重ねても、なお人生とはこんな、意外で、不測で、未知のものでしかないなんて、そんなことがあり得るものでしょうか? いまここでカーマイケル老人と自分が芝生にすっくと立ち上がり、なにものもこの目はごまかせんぞと万全の気迫で、なぜ人生はかくも短く、かくも不可解なのか説明していただきたいなどと烈しく詰め寄ったあr、放散した美がくるくるとその身をまとめあげて、あたりに充ちるのではないか、この虚しく伸びる曲線や唐草模様がなにか形をなすのではないか、もしふたりで声高く呼びかけたら、ラムジー夫人が帰って来るのでないか、そんな気がした。(231)
ウルフが哲学とか高尚ぶったところにいかず、目の前の瑣末な疑問・傷について考え続けたのではないかと私が思う理由がここです。なんていうか、日常的に感じるような、平易な、些細な想いを書いてる印象です。「死」について、というのはあまり紋切り型で、すこし陳腐な感じにもなってきてるかもしれないんですけど(特に文学では)、でも、「剣が人を切りつけたり~」という文には何か非常に切実さを感じます。またここでは明らかにラムジー夫人の死は人生の不可解の代表として数え上げられ、それ以外の世界全てに対する疑問、たとえば曲線、唐草模様の意味と連なるような、そんな神秘的なものに属しています。ウルフが度々「剣が~」のような表現を用いるのは、どうしようもない不可知の何か・なんらかによって、自分(人間・存在)がどうしようもなく左右される、あるいはある意味で「侵される」ような感覚を持ち続けていたためではないのかな。
さて、ウルフが自分の投影として用いたのは、次点ではなんとなくキャムのような気がします。キャムは第1章でラムジー家のおてんばな女の子としてちょっと登場しますが、第3章ではメインキャラとして出てきます。
えっと、ラムジー夫人ばかりフォーカスしてしまいましたが、夫のラムジー氏もだいぶ曲者です。哲学者で、今の言葉でいうならちょっとアスぺっぽいおじさんというか…。まず物語の冒頭で、息子が「明日灯台に行けるかな?」ってわくわくしているのに、お母さんが「いけるといいわね」って言うのに対して、「この雨じゃ行けんよ」って、ぶちこわしてがっかりしてべそをかかせちゃうような、一事が万事そういう感じの人なんですね。あとは、まあ時代とお国柄なのでしょうが、男尊女卑思想も結構強い。若くて快活でちょっとおバカな娘が好きで、その子が「わかんな~い」みたいに言うのをバカにするのが結構好き。このへんはどこの時代も誰でも同じなんだなあ…ってちょっと面白かったりします。夫人の言葉を借りれば、「うちの人はこういう若い娘たちが好みなのよ。こういう金朱色に輝く娘たちは、すっ飛んでいて、ちょっと手に負えなくて、そそっかしいところがあって、髪をひっつめにしたりしないし、主人に言わせればリリー・ブリスコウのように「貧相」でもない。こういう娘たちはことによれば、主人の髪を切ってあげたり、時計の鎖を編んだり、彼の仕事中に「ねえ、いらっしゃいよ、ラムジーさん。こんどはあたしたちがやっつける番よ」などと呼びつけて邪魔したりして、するとうちの人はテニスをしにほいほい出て行ったりするのだろう。」(126)。
だいたい自分の世界に入ってて、独り言をぶつぶつ言ったり、いきなり癇癪を起こしたりするくせに、妻がぼうっとしてたり、怒ってたりすると傍にきて構ってくれみたいなオーラを出す。妻の死後はもうフォローしてくれる人が誰もいなくなったので、「暴君で分からず屋の父親」として子供たちから憎まれてます。ちょっとびっくりしたのはすでに「抑圧」という言葉が使われていることですね。息子が母親に愛着がありその反面父親を憎んでいる感じとかはちょっとフロイトを思い出させて、影響を受けていたのかなと思いました。
不器用で、学者肌で、妻の死後は女たちに自分の惨めさをアピールするして同情してもらいたい気持ちでおかしくなりそうになってる。そんな人を克明に描けるのはやはりウルフの才なんだろうと思います。
…それにしても、さっきの朝食では、またもや少々かんしゃくを起こしてしまったなあ。さて、こうなるとーーそう、なんだかわからないうちに、とてつもない衝動に襲われ、だれでもいいから女に近づいてーーその才は手立てなど問わない、それくらい強烈な欲求だーー自分の求めるもの、つまりは同情を無理にでも引き出したくなるのだ。(195)
…それは老いの弱々しさと、疲弊と、哀しみが要求される役どころであり、そうしてこそ、女たちの降るような同情が得られよう。女たちに優しくなぐさめられ、同情されるようすを想像して、この夢のなかに、女たちの同情が極上の喜びを映し出すと、ラムジーはため息をついて、愁う声でそっと諳んじた。(214)
このように、周囲とうまく繋がれないやもめ男の心中を容赦なくありありと描きつつも、しかし、人の意識の中では全くそれは異なったものとして受け取られる。それがウルフの関心ですし、手法ですから、その評価も、作中の焦点を当てられる人ごとに全く異なったものになっている。
そ娘のキャムは結構父親のことを「鼻持ちならない」と思いながらも「美しい」と表現し、その不器用な接触の仕方に「応えてあげたい」と考えています。
…なにしろ、お父さんほど魅力的な人は他にいない。キャムにとっては父親の手までが美しく、その足も、声も、ことばも、あの癇性も、学問へのほとばしる情熱も、あたりはばかりなく「われわれは滅びぬ、おのおの独りにて」なんて言い出すところも、何もかもが美しいのだった。(218)
ラムジー氏は、公平にいっても、父親としても夫としても男としてもあんまり魅力的ではないんだけど、この書き方がすごく無条件的?で、ここにもウルフの私情が現れている…キャムに自分を投影しているような感じを受けました。ウルフの両親も文学的に造形が深い人だったようですし、また、彼女の家に幼少期様々な知識人がやってきたことを思うと、キャムが似たような環境の中に置かれて、彼らに非常に好感を持っていた、なんでも教えてくれるお爺さんたちといると落ち着いた、というようなことを考えるところがあるのもそうですね、
出て来る男性がポールっていうイケメン好青年以外はだいたい学者肌で頭はいいんだけどちょっと嫌な感じの人ばっかりで、この偏りも彼女が囲まれていた男性たちの特色によるものなのでしょうか…。
全体的に、男女観は確かにちょっと古いところはあるのですが、それでも、
人はみな結婚して子どもを持たねばだめよ、などと、お尻に火がついたみたいに言ってまわるなんて、自分もそこになにか逃げ道を求めているのだろうか。(78)
みたいに、ちょっとぎくっとさせる文章が出て来るところが、好きですね。
ではでは、今回も最後までお読み頂いて有難う御座いました!
(短くてすみません;無理していっぱい書こうとすると、重くなりすぎて書けなくなることに気づいて。アクセス履歴があったので、覗いてくれてる人がいるから、また短めでも書こうかなという気持ちになれました。有難うございます。読書録にもなるし、文章にして公開することは悪いことではないような気がします。ブログは自分にちょうどいい配分を見つけて続けていきたいです。)
最近借りた本と、聴いている音楽について
こんにちは。にしのです。前回の更新から間が空いてしまって…。のぞいてくれてる方にはすみません。ありがとうございます。近況報告として、最近読んだもの・見たものなどを。まず「太陽がいっぱい」の続編「贋作」を読み終わって、あと、昨日は友達と「静かなる情熱〜エミリー・ディキンソン」を見てきました。
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どちらもできれば後で感想を書きたいなと思います。『贋作』は『太陽がいっぱい』に引き続き、あーーートムだ!トム・リプリーだ!って感じで、続きがとても気になります。知性と衝動が同居している感じが、やはり危うげで惹かれました。
『静かなる情熱』はかなり大胆な、新しいエミリー・ディキンソン像という感じがしました。生々しくて、現代的で、女性的な苦悩。賛否両論あるのは頷けますが、好きか嫌いかと聞かれたら「好き」です。本とか好きで、ちょっと自分の世界に引きこもって生きがちな女性にはかなり刺さると思います。ディキンソンには、貞淑で、浮世離れして、つかみどころのないイメージがあったんですけど、かなり印象が変わりました。
あと、先日は図書館に行ってきて、興味のある本を色々借りてきました。
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津村 記久子 KADOKAWA 2017-01-25
売り上げランキング : 228517
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橋本 治 集英社 2008-02-20
売り上げランキング : 101804
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河合 隼雄 岩波書店 2009-11-13
売り上げランキング : 309822
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度会 好一 中央公論新社 1999-09
売り上げランキング : 586640
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「小説」「心理」「神話」って感じですね。心に残るものがあったら、この中からもレレビューを書きたいです。
橋本治は、以前「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」を読んで、凄く印象深かったので小説も読みたいなと思って借りました。初っ端からDQN親に生まれた放置子が亡くなる話で結構ダメージをくらいました…。鳥瞰的な書き方で生々しいです。日本の現代小説を最近ほとんど読めてないので、いろんな人の作品を一冊は読みたいですね。中村文則と、あと最近は全く伊坂幸太郎の本を読んで居ないので、文庫で出てたアイネクライネナハトムジークでも読んでみようかな。
あと、今回はちょっと音楽の話もしてみようかと思います。私はギャガギャガした音楽を聴くと疲れてしまうので、アコースティックとか、ピアノインストとか、静かめなものをよく聴きます。J-POPとかロックの情報ってかなり回ってくるけど、そういう静的な音楽ってあまり情報がないんですよね。Youtubeでひたすら掘ったりとか、くらいで。最近はSpotifyに課金して、だいぶそのへんが解消されてきました。Spotifyは本当にオススメなので、いつかそのことについても記事を書きたいですが。
Spotifyで見つけていいなーと思った、静かめなグループの音楽をいくつか貼って見ます。就寝前とかに聴くと捗るのかなと思います。あと、どうせなのでちょこちょこ(自分用もかねて)基本的な情報やレビューをまとめてみることにしました。
The band apart(naked)
the band apartは結構有名ですよね。nakedは基本はその曲のアコースティックカバーって感じなのかな(にわか知識なので違ってたらすみません)。この曲入ったアルバムはSpotifyでフルで聴けるんですが、どれもいいのでおすすめです。良い意味で刺激物がなくて、穏やかに、落ち着いて聞けます。私はジャズとかボサノバとかは跳ねすぎて、音色も鋭い感じがするのでちょっと苦手なんですけど、これは大丈夫でした。肉声もざわついてなくていい感じです。
レビューを書かれているブログがありました。「とても綺麗なクリーンサウンド」「いくら聴き続けても耳が疲れない」はその通りだと思います。
the band apart naked asian gothic label 2016-10-12
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(プライム会員(prime music)なら無料で全部聞けるぽいです)
beta radio
Beta Radioも落ち着いて聴ける弾き語りっぽさがあります。
公式サイト死ぬほど綺麗ですね。
Rooted in vocal harmonies, acoustic and electric guitar, piano, banjo and an eclectic range of additional instrumentation and soulful arrangements, Beta Radio’s Americana-folk sound is the result of a decade-long collaboration between Ben Mabry and Brent Holloman.
「ボーカルのハーモ二ー、アコースティック・エレクトリックギター、ピアノ、バンジョー、さらなる楽器具とソウルフルなアレンジの振り幅を源とするアメリカンフォークサウンド」…おお…よくわからない…。でも温故知新的なものを感じる…。
日本語で何かかいてくれてるサイトは見つからなかったです。
Beta Radio Beta Radio 2014-11-18
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Triosence
TrioSenceはシンプルな美メロで凄くいいなと思って聞いてます。これはインストバンド?かな。歌なしでここまで物語性というか、華やかかつ硬派?な曲を作れるのって凄いんじゃないかなとなんとなく思います。作曲とか洋楽に関しては門外漢なのでほとんど書けないんだけど、「良い」音楽を作る人たちだな〜と。調べて見たらドイツのグループらしいです。
70年代初頭のキース・ジャレットなどECMピアニスト達が表現していたサウンドを、現代ポスト・モダンのユーロ・ピアニズムの世界に再構築、透明感溢れるピアノと親しみやすく美しいメロディは日本でも多くのファンを魅了している。
ECMってなんだろう…。ポスト・モダンのユーロ・ピアニズムっていうジャンルがあるんですね。やっぱ音楽の世界は細分化していて根が深い。
Triosence MONS 2013-09-28
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Duke Garwood
Duke Garwoodもいいです。逃げ場がないというか。渋みがあって重いけど苦しくはない、重力がない海の底にいるみたいな感じ。漣みたいな程よいストレスがあって、抑制がきいてる考え抜かれた感じの重さがいいなあと思います。Sweet Wineはメロディアスでおしゃれですね。でも音の差し引きがよく計算されている感じがします。この音がなっているときはこの音は弾かない、みたいな主義が透ける感じ。指どりが凄く鋭い気がします。
DUKE GARWOOD / デューク・ガーウッド / HEAVY LOVE | diskunion.net ROCK / POPS / INDIE ONLINE SHOP
ブルース、フォーク、ロックをベースにした美しいギター・サウンドを展開しながら、ソウルフルで渋みのあるヴォーカルが響き渡る本作にはゲストとして盟友マーク・ラネガン、アラン・ヨハネス(クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジ)が参加し作品に華を添えている。2005年に『ホーリー・ウィーク』でアルバム・デビューから現在までに4枚のソロアルバム発表し、カート・ヴァイル&ザ・ヴァイオレーターズとのツアー、サヴェージズ『サイレンス・ユアセルフ』(13年)への参加、マーク・ラネガンとのコラボレーション作品『ブラック・プディング』(13年)の発表など活動の場を広げてきた。
「このレコードを聴くすべての国民はデューク・ガーウッドの音楽を知っているべきだ。知らないヤツはインチキ野郎だろう。彼は神秘的で、音楽的天才で、『へヴィ・ラヴ』は圧倒的な傑作だ。皆、乗り遅れるなよ!」 - マーク・ラネガン
「デューク・ガーウッドはホンモノだ。青空のように絶え間なく良いヴァイブをuni-vibeを通して放出する(例え暗いことを歌っていたとしても)。聡明で聖人だよ。」 - カート・ヴァイル
「俺のブラザーであるデュークは、知る限りで最も魂のこもった男だ。彼は常に自分で道を切り開いてきたし、何度も共に演奏させてもらったことが光栄だよ。」 - シーシック・スティーヴ
「何年もデュークを聴いてきたけど、『へヴィ・ラヴ』ほどパワフルで主導権を握った作品はない。彼のギターと歌声を聴くとまるでJ・J・ケイルの元気あふれる親族かと思う。めちゃくちゃ最高だよ。」 - グレッグ・デュリ(アフガン・ウィッグス)
「デュークとはザ・ルミネアで出会ったの。そこで彼はジャズっぽさを含んだスウィートなバラードを演奏していた。彼の歌声はか細くそれでいて豊かで、まるで狼に変身したチェット・ベイカーみたいだった。その瞬間“彼は誰なの?”って思ったわ。」 - ジェニー・ベス(サヴェージズ)
ちょっとカタカナ多くて目が滑るけど。ブルース・フォーク・ロックがベースなんですね。
Duke Garwood Pias America 2015-02-10
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Montt Mardie
中盤の、恋人からの電話にめっちゃ甘い声で話すところがイイです。はぁ〜〜Hi, baby,が可愛い…こんな甘い声で話されてみたい。明るいけどはしゃぎすぎない感じが落ち着いて聞けていいのかな。
The Daydream Club
The Daydream Clubも、白昼夢倶楽部ってくらいなので、どことなく幻想的で棘がないというか、でもしっかりリズムを刻んでくれる感じがついていきやすい。PVも綺麗ですね。夫婦でやってるデュオグループ。ちょっとここまでかいて疲れてきたのでレビューサイトでいいの引用して訳するのはまた後でします…。ジャンルとしてはオルタナティブ/インディーらしいです。
Milk Carton Kids
Milk Carton Kidsはわりとずっと好きです。淡々としてて綺麗で、でも何かしら出会いというか実りが曲調にあるので、安心しながらも興味を持って聞けます。飽きないですね。
Milk Carton Kids Junketboy 2011-11-22
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自分の好きな曲が「このジャンル!」って言えればいいんですけど、フォークとも、オルタナともポストロックともちょっと違う気がしていて。強いて言えばアコースティックがいいのかなと思うけど、明るいアコースティックは苦手だったりするし一口では言えないのが少しもどかしくて。今回ちょっとこうやってまとめることで、色々わかるかなあと思いつつやってみたんですけど。オルタナとかインディーって幅広すぎてあれですね。好きな音楽何?って聞かれてポストフォーク(?)とか言われてわかる人とかいないだろうし。静かな感じの音楽かな、としか言えないのがもどかしいな。
ちょいちょいこういう嗜好のものも書いてみたいと思います。聴覚はちょっと過敏なきらいがあるので(多分アスぺ系の発達障害からきてるとは思う。他過集中など)、同じ様な方のお役に立てたらなとも願いつつ。しっくりくる音楽探すのって本当に難しいですよね。あ、これならいいかも、と思って聴き始めても、途中で盛り上がったり、苦手な声に入ってこられると違うの探すことになって、凄く勿体無い。この人の紹介する音楽なら大丈夫、とかいう指標をある程度立てられたら、日常がちょっと楽しくて、楽になるような気がしています。
それでは、今夜はこのへんで。ここまで読んでくれてありがとうございます!音楽の好みは人それぞれですが、いいなと思ってもらえると嬉しいです。次の更新はなるたけ早めにしたいです。
「怪盗グルーの月泥棒」感想〜ミニオンとまっくろくろすけ・他
おはようございます。にしのです! 昨日ミニオンズを初めて見ました。感想を書いてきたいと思います。
えっと、まず、めちゃめちゃ面白くてびっくりしました。ちょっと非の打ち所が、ないレベルですね。
ディズニーのズートピアとかシュガーラッシュとか、ベイマックスより私はいいと思いました。
なんて言うか…バランスがいい。
キャラクターがいい。
動きがいい。
たとえば孤児院のおばさんとか、グルーのお母さんとか。遊園地のやる気ねー従業員とか、そういう人たちがすごくいい造形をしている。一目見ただけでこの人ってこういう人なんだろうなってわかっちゃう。しかも彼らが「動く(animate)ことで、喋り方、表情で、その第一印象をいい具合に裏打ちしたり、広げたりする。リアリティとデフォルメのバランスが良い。
ミニオンも、あれ、私、まともに喋らんと思ってなかったです。メインキャラの3匹が喧嘩したりシニカルなこと言ったりして、ちょっと人間関係の錯綜とかあって、恋物語とかあって、わちゃわちゃしてるもんだとばっかり思ってたら、違うんですね。いい意味で没個性的で、でもしっかりちゃんとそれぞれ人格とか人間関係とかあるぽいんだけど、話の進展を煩わすほどのものではない。いい意味でいたいけというか、無邪気というか。ミニキャラっていう範疇を崩すことなく、でもキャラクターとしての仕事はきちんとしてます。いや、凄いですね、この作品。あの子たちの言葉が無意味なものでも、彼らの考えてることとか、やりたいこととか、感じてることがわかるって、スタッフ達のアニメーションの可能性への挑戦ですよね。あの表現力のクオリティなら、声ついてなくてもわちゃわちゃやってるのをずっと見てられる。「動き」だけで、あらゆる可能性と物語を魅せられる。
思ったことをつらつらと。
まず「怪盗」がいいですね。しかも、ちょっとファンタジックな世界観なのに、銀行の融資とか転職活動とか履歴書とかそういう妙に現実的な言葉が出て来る。最高にイカしてるのは、ベクターがポップコーン食ってwiiやってるところ。えっなんかこいつYoutuberみたいな暮らししてる…って思って面白かった。あれが現代の成功者のあり方なんやなーと思って。非常に現代的な子供の感覚に立って作られている気がしました。「怪盗」もいろいろあるけど、グルーはちょっと「かいけつゾロリ」ですよね。
印象的なシーンは結構あります。なんていうか、仕草への執念を感じました。ひとつひとつの、本筋には関係ないし、特に意味もないような小さな仕草。「メアリと魔女の花」でも感じたんですけど、アニメーションってそういう小さな動きひとつが大事なんだなって。
プロデューサーのインタビュー記事を見ていたら、宮崎駿について人生で最初にみたアニメーション映画といっていて、ちょっと納得はしました。
でも、日本人向けのメディアのインタビューで日本のアニメのことについて聞かれて、宮崎駿の名前を出さないのも野暮って感じはするから、どれだけそうなのかとかはわからないけど。でも、なんて言うかちょっと思い出すところはあって。
私がすごく好きだなって思ったのは、グルーがテレビ(テレビ電話かな)をつける際に、リモコンが反応しなくて「アッ! アッ!」て言いながら何回か押し直してるところがあるんですよ。あれって本当に無意味というか。なくて済ませても別に誰も何も思わないシーンなんですけど。あれが出ることで、グルーがお父さんとか、親戚のおじさんとか、そういう男性と被って来て、グルーに対してもすごい親しみが持てるんですよね。いい意味でのデジャブ、追体験がある。
無意味だけど人間味が薫ってくる仕草ってジブリにも結構あって。最近「ハウルの動く城」を見直したので例に出させてもらうと。
ソフィーが飛行機の止め方がわからなくて、思いっきり城に突っ込んで来るシーン。マルクルがソフィーを見つけて思いっきり抱きついて、ソフィーがそれを抱きしめる。その仕草の過程に、マルクルを一旦抱きしめてから、持ったままの飛行機のハンドルに気づいて、一瞬それを見て、後ろに放り投げる。あの一瞬、なくてもよいもの、なくても別にどうということもない動作を入れる。そのことで、ソフィーがどんなに必死になってハンドルを握っていたか、駆け寄って来るマルクルを一も二もなく抱き止めようとしたかっていうのが言葉にするよりもわかる。他にもちょっと間が抜けた仕草への親しみも募りますし、後ろに放り投げるっていう豪胆さもそう。すごくいろんなものが無意識のうちに情報として伝わってくるんですよね。私たちがアニメキャラクターに対して抱く「親しみ」って、分解すると結局そういう無意味にも思えるような仕草から来てるんじゃないか。
あと、子供としてのリアルさも凄いなと思いました。序盤の方で、末っ子ちゃんがグルーに冷たくされて「あ、泣くかな?」ってとこがあるんですよね。多分普通だったら泣かせるんですよ、あそこ。それでグルーが困って、ああ泣きやめってなだめようとする。でもそこで彼女息を止める。お姉ちゃんが「息を止めて抗議してるの」って補足する。あそこがすごく印象的でした。私もああいうことやってた! と思ったし、今改めて見るとなんでそんなことしてんのwwwって思う。でも、自分を傷つけることが親とか大人への脅迫になる年齢だからするんですよ。あそこは凄いリアリティがあって、監督とか、身近な人の娘さんがよくやってたことなんじゃないかなって感じました。きっとそうだと思うんだけどな。ディズニーカートゥーンの女児って、たとえば「シュガーラッシュ」の女の子にも感じていたことなんですけど、なんかすごい婀娜めいてるところがあって、ちょっと落ち着かないんですよね。あの子は女児ってくくりでいい…んだよね。
ちょっと思ったんですけど、ミニオンズってまっくろくろすけ的ですね。没個性的で見分けはつかないし、言葉もわからないんだけど(でも彼らだけで通じる言葉はある)、でもよく見てればそれぞれの人格とか人間関係はありそう。目が大きいのもそうですね。
そう考えると、グルーがミニオンズを一人一人識別してるときのワクテカ感て、「千と千尋」でかまじいがまっくろくろすけを見分けてたときのワクテカ感と似てたかもしれない。「この子達見分けられるものなんだ…!」的な。「もののけ姫」の「こだま」ともちょっと似てるかもしれません。
「モンスターズインク」にもそういう有象無象のモブキャラはいたような気がするけど、やっぱちょっと感覚はアメリカンなところがある。それぞれ個性が強くて自己主張も激しくて、見た目とかで差別とかそういうの盛り込みがちっていうか。それは「ドラマ」ではあるかもしれないけど、「なんかわちゃわちゃしてて癒される」って感覚とはまたちょっと違うところがあると思う。「悪役」とか「友達」「摩擦」「軋轢」「和解」みたいな、シナリオに食傷してるところを癒してくれますね。
この記事ではミニオン誕生の経緯について色々書かれてて興味深いです。「サイレント映画の遺産」っていうのは理解できる。私が冒頭で書いてた部分もそれかなあと思います。あと「デリケートなキュートさ」、って言葉がちょっと面白いですね。単なるキュートさではないということ。ここではミニオンの前身として「トイ・ストーリー2」の「緑色のエイリアン人形」があげられていますね。
感想に戻ります。
この映画のあえて説明されてない感も好きです。ミニオンズがシリーズものってことはなんとなく知ってたから、私これ続編のほうなのかな…第1作目ではグルーとミニオンが出会った過程とか、よくわかんないこの犬?を飼うようになった理由とか、グルーの一族末裔としての苦悩とか、そういうのが描かれてるのかな…って思いながら見てたんですよね。いや、それにしても2作目から見た人にもわかるようにうまく表現してるなー、すごいなー、みたいな。見終わったあと調べてこれが一作目って知ってびっくりしました。
「既成設定の海」に投げ込まれる楽しさって、人間あると思ってて。例えば壮大なファンタジーものとかそうですよね。こういう伝説があって、こういう地域間の対立があって、こういう人間関係とか組合があって、みたいな。でも最近の作品って結構一から説明しがちじゃないですか。「おめでとう、君が勇者だ!」とかやって、キュウべえ的な水先案内人がきて、いろいろ説明してくれて、一人この世界をよく知ってる仲間が現れて…みたいな感じの。ああいうの、いいんだけど、ちょっとだるさもあります。でも「規制設定の海」に視聴者をついていかせるためには、やっぱ絶妙な差し引きのセンスが必要です。ナレーション挟んでいちいちやってもいいけど、やっぱそれだと冗長になりがちだし、やりすぎたって意味わからんって言われちゃうし。それを児童向けのアニメーション作品でやるとなると尚更そうなんじゃないかと思う。だからやっぱりバランス感覚がすごくいい人が作ってるんだなって思った。
他気になったところとしては。クッキーマシーンが映画泥棒感すごかった。あれは…確信犯じゃないよね。たまたまだよねきっと。後続のやつは違う制服だったし。劇場で映画泥棒のくだり見てからの人絶対笑ったんじゃないかな。
あとジェットコースターのVR感やばいね! 子供あれ絶対喜ぶよね。ジェットコースター乗りたいときにミニオンみたーいとか言いそう。普通にノートパソコンで見てたけど、浮遊感にちょっとおえってなったし。いいですね、ああいう遊び心は。
あとは、感じの悪い孤児院のおばさん、って鉄板テーマなのかもしれないんだけど、すごくいいなあと思った。彼女もほとんど説明はされてないのに、きっとこうでこうでこういう人なんやろな…って思う。絶対なんか…ああいう系ですよね。こういう「ふまえてる感」は心地いいところがありました。個人的には(全然系統は違うけど)、ティム・バートンの「Stain Boy 」を思い出したりしました。
映画見てるときは可愛い可愛い言って見てたんですけど、それだけじゃあんまり読みがいがない記事になっちゃいそうなので、少し掘り下げて考えてみました。ミニオン≒まっくろくろすけはわりといい線いってそうな気がします。
あ、それと、前にあげた「人生に、文学を。」の記事をツイッターで公式アカウントさんにRTしていただけました!
記念のスクショ。
昨日とかも更新してないのにアクセス数があったので、きっとこのおかげなのかなと思います。公式アカウントの中の方ありがとうございます…!
ぼちぼち風邪も治ったので、また近いうち更新したいと思います。よろしくお願いいたしますー。
TOKYO FMサンデースペシャル 『人生に、文学を。』 第一回 桐野夏生・谷崎潤一郎感想
夏風邪でダウンしておりました(若干今も)、にしのです。
だんだん風邪が良くなってきたときに、自力で本を読むのも、映画や動画を見るのも、ちょっとキツいなっていうタイミングがありました。暇なんだけど視覚情報に集中するのが辛いっていうか。
なので、ネットラジオでも聞いてみようと思い立ち。お笑い芸人さんの大きな声とかはちょっとつらいから、落ち着いたトーンで、何か面白そうなのはないかなあと探して見たら、ちょうどタイムリーな番組を見つけました。
(リンク先で全編聞けます)
日本文学研究者・ロバート・キャンベルをパーソナリティに迎え、直木賞作家・桐野夏生と、彼女が最新作『デンジャラス』で扱った、文豪・谷崎潤一郎について語らうという企画。
しっとりした雰囲気もちょうど気分に合ってたし、街頭で女子大生に谷崎の小説の一文を読ませ、感想を聞くようなところも工夫があって面白かったです。全体的に興味深かったのは、
1 「デンジャラス」で桐野夏江が見出した、谷崎の愛人たちの抱く悩みの普遍性
2 ロバート・キャンベルの的確で鋭利ながらも穏やかな語り口
の二つかなと思います。
1つめ。
番組の中盤でロバート・キャンベルがうまく纏めているのですが(ここは書きとめたくて、途中で一度再生を止めてました)
「谷崎が愛した女たちというのは、文豪が愛した女性という勲章を抱きつつも、それぞれがどこか確たる自信や居場所が、ない」ということ。
谷崎潤一郎という人は(私も短編を2つか3つ読んだくらいしかないかな?って感じなんですが)、耽美で官能的な小説世界を描く作家です。番組中でも、彼の小説で、老人が女性の足の裏を舐め、その指を吸って「悦に入る」シーンが読まれます。年かさの男が若い女性の「足の指を舐め」るシーンというのは、この間レビューを書いた「娚の一生」でも出てきたので、奇妙な符号を感じました(ポスターにもなっているシーン)。
足指を舐める。少しアブノーマルで、背徳的な行為、後ろ暗い情事を暗示する行為である。服従という要素も含まれてて、SMっぽいところもありますね。
谷崎は自分の愛する女性を幾人も家に集め、彼女たちを養いながら、共同生活を送らせていた。簡易大奥というか。谷崎という人は、しかし優しい男ということでしたから、例えばあえて争わせたり、表立ってランクづけして贔屓したり、そういうことはきっとしなかったと思います。それぞれの女性に敬意と愛情を尽くしながらも、自分の美学、ゆがんだ愛のかたちを追い求める。やさしいやさしい暴力、というか。番組中で谷崎邸は「谷崎の王国」であったと語られます。
そういう環境に置かれていたからか。それとも、もともと谷崎がそういう要素を孕む女に惹かれるからなのか。〝谷崎が愛した女たちは、彼に愛されること自体をアイデンティティとしようとしながら、「確たる居場所」や「自信」を持つことができないでいる。〟
なんとなく私は後者の要素も強い気がしますが。ただ、男(それも裕福で、名声がある)に愛されることをアイデンティティに置こうとする女というのは、今でも全然いるし、全く色褪せていないと思う。むしろ、社会的に別に強制されるものでなくなっただけ、擬似的に自分をそうやって囲い込もうとする女性が目立つ、ような。
桐野夏生は「昔は今みたいに仕事をしている女性も少なかったし、尚更」(ニュアンス)と言うのですが。想像すると少し息づまるものがある。無論谷崎邸の環境はとりわけ特異だったとは思いますが、「愛されることで、自分の価値や生活を担保される」生き方。社会的にそれが女の生き方として当然とされる。これはモーム「月と6ペンス」でも女性の生き方として言及されていたところですね。
私は別に専業主婦がどうのとか、面倒くさいことに切り込むつもりはないし、経済的その他の事情で、女性自身やそのパートナーが自分たちに向いてるほうを選べばいいと思っていますが。
選択できるということが何よりも大事という気がします。
谷崎邸の女性たちの状況を思うと、あたたかい部屋で徐々に傷んでいく、柔らかい果物のイメージが浮かびます。谷崎潤一郎は確かに優しくて、好い男だったんだろう。不義理もしないし、他の女に愛情が移ったからといって、前に熱中していた女を追い出すこともない。でも、だからこそ女は傷む。誰にも言えない傷や秘密が増えて、あたたかな愛情のなかで腐ってゆく。
豪華な豪邸があって。生垣や、障子とか、襖とか。そういうもので何重にも覆われている和室、みたいな感じがします。でも、それはそれで淫靡であるし、一種の世界、ロマンティシズムだと思う。谷崎潤一郎が憧れていた世界というのは女の私でも理解できるし、きっとだからこそ彼の文学は普遍たりえたんですよね。
少し話を戻して。
番組中で、桐野夏生は『デンジャラス』では女性たちの「居場所探し」というテーマを強く打ち出していると話していました。私にも覚えがあるんですけど、男の愛情って、女が自分の「居場所」とするにはあんまり不確定で結構きついんですよね。どうしても性欲の部分が大きいし、若さや奔放さは年を取っていけば失われるものだし。愛されなきゃと努力すればする分、気持ちが離れていかれたりする。そのへんは男女関係の永遠のテーマなんだろうと思う。あやうい均衡といいますか。欲しすぎてもいけない、全く求めなくてもいけない。だからこそ、特にこの時代の女は試行錯誤する。愛されるために、この文豪が満足のいく女になるために、どうすればいいのか。けれど彼は身勝手で、長らく付き合ってきた年増より、ふと現れた若くて気ままな女に関心を抱くようになったりする。
デンジャラス。ブック・ナビ評論家によるデンジャラス【桐野夏生】の書評とコメント
この書評が一番小説世界に踏み入った分析をされてました。え、谷崎潤一郎妻を佐藤春夫にあげたりしてたの…鬼畜…。
女性への思慕と妄想を創作の糧にする谷崎にとって、日常生活を共にする「妻」は常に現実の瑣事に足をすくわれ幻滅する恐れがあるのに対して、「妻の妹」はいつまでも妄想の対象として留めおくことができる文学的存在だったのかもしれない。
ここは私が書いてきたのとちょっと呼応する部分なんじゃないかと思います。男のエゴ丸出しって感じだけど、でも、人間の中には確かに存在する欲望なんじゃないだろうか。「夢を見る」。現実に堕した女は、きっと男の「幻(ゆめ)」たる資格を失ってしまう。
ここから少し使わせていただいて、説明すると。『デンジャラス』中で、70代の谷崎は妻・松子やその妹・重子をさし置き(この時点でえ?って感じですが)、義理の息子の妻、20代の千萬子を愛するようになる。物語のラストに、語り手である重子は谷崎を咎め、「千萬子をとるか、あたしをとるか」と詰め寄る。谷崎は重子に深く土下座し、「あなたさまが私の創作の源泉です。あなた様ほど複雑で素晴らしい女人はおられません」と、重子への愛を白状する。しかしこのやりとりを松子が見ていた。重子は気配に気づき松子を見るが、松子は何も言わずに立ち去る。
ここは、ロバート・キャンベルも触れていました。松子のこの行為を蛇足だったかもしれないと語る桐野に対して、ロバート・キャンベルは、そんなことはない、谷崎の愛の不実さをも受け入れた松子に救われた、と言います。それすら呑み込むように松子は生きた。彼女の中にはあまり谷崎を責める気持ちもなかったような気はします。彼の必定であり、自分の宿命であり、創作世界であったと考えていたのではないか、と勝手に想像しました。
ロバート・キャンベルが出てきたところで、先にあげた要素の2つめに行きましょう。
彼は全体的にとても聡明で、すごく細やかな言葉のセンスを発揮しているんですが。なかでも私が印象深かったのは、彼が「冷酷」を「冷徹」と言い換えるシーンです。作家で日本人の桐野が使った「冷酷」に対して、「冷酷?」と聞き直し、彼女が「冷徹」と言い直すと、「ああ、冷徹」と納得する。こんな微細な日本語感覚を持ってる人って日本人でもほとんどいないですよね。いや、あまりに当然のことを言ってるかもしれないんですが。改めてちょっとこの人ってすごいんだなと思いました。
他にも、外国語まじりのイントネーションで発される「差し(向かい)」、「寸止め」、「ねたばれ」、「蛇足」、がいちいちなんかすごく新鮮な響きに聞こえる。彼の声で解体されることで、日本語の情緒が再現されるんですよね。ここはかなりびっくりしました。本当に日本文学の情緒に分け入って、その一粒一粒を膚で感じ取れる人なんだなって伝わってきて。今更こんなことを言うのもちょっと、あまりに当然で恥ずかしいことなのかもしれないけど。注目していきたい方だなあって思いました。この人がパーソナリティを務めているなら、この「人生に、文学を」シリーズ、あと三回あるらしいんですけど、全部聴きたいなって思います。聞いたら、また感想をあげたいな。
病み上がりということで、今日は短めです。『人生に、文学を。』お勧めです!
メンヘラ女とダメ男〜「地下街の人々」ジャック・ケルアック
お久しぶりです。こないだ人生で初めて財布を盗られました。にしのです。しんどいです。
今日は「地下街の人びと」のレビューを書いていきます。古本屋で100円で書いました。
一言で言うと、メンヘラ黒人美女・マージと、ヒッピー三十路男・レオが共感し合ったり気まずくなったりしつつ、案の定二ヶ月で別れました、っていう話ですね。マージの浮気が原因っぽくなってるけど、より正確に言えばレオの嫉妬や猜疑心からじゃないかな。
んー、意外な展開とかはあんまり、ないですね。「意識の流れ」と文体のリズムを重視した作品なので、ストーリー自体は朴訥というか、ひねりはないです。レオの一人称、意識の流れがずっと続く。ヤンキーカップルが付き合い始めてから別れるまでを見ている感じです。
レオがあまりにどうしようもなくて、終盤「バッファロー66」を思い出しました。徹頭徹尾自分のことしか考えてなくて、後悔はするけど反省はしない感じっていうのかなー。私は女なので、結構マージに寄り添って読んでしまいましたね。マージは信頼できるキャラクターでした。最後にきっぱり「私は私でいたいの」って言って、自分からレオを振るのもいいですね。ちゃんとしてる。それで「そして彼女の愛を失った僕は家に帰る。/そして小説を書く。」で終わるっていうのも、ほんと変わんねえなこいつ、って感じが出ててアリだなと思いました。途中のグダグダに比べるとよかったですね。
これ読む人によって感想は全然変わるんじゃないかなあ。「バッファロー66」が、主人公に共感した男性に支持されているように。
こちらのブログで、カポーティはケルアックを徹底的に批判したと書かれていました。私カポーティはすごい好きなんですよね。合わなかった理由がわかった気がして、ちょっと納得しました。好き嫌いが別れる作風なのかもしれません。この記事の執筆者さんは「地下街の人びと」が好きみたいです。
「いずれにせよ三十代半ばのケルアックが、幻想を抱き過ぎたがゆえ失恋を味わい、簡素な台所で独りタイプライターを打ちまくっている姿がありありと目に浮かぶ。このような男によって書かれた文学が、どうしようもなく孤独な夜、仮にも僕たちの枕元にあったならば、少しの慰めにはなるのではないか?」
女に救いを求めて、結果夢破れた、孤独な男たちの夜の彷徨。その傍らにあるべきバイブルとしての「地下街の人びと」。
レオは幻想を抱き過ぎたのかな、どうなんだろう。それはこの後ちょっと考えていきたいところです。
この作品。もっとストーリー重視であれば、ある程度平均水準っていうのが出てくると思うんです。あんまり好きじゃないかもって人でも、まあここは最低限評価できる、例えば終盤のどんでん返しや、意外な展開、みたいな。基礎点数っていうのかな。それをまるっと放棄しちゃってる感じがケルアックらしいというか、ビート文学っぽいなと思ったりします。訳者の真崎義博さんによれば、彼は書いたものをエディットすることを「最大の屈辱」とまで捉えていたみたいだし。
ケルアックは意識によることばの検閲を排除し、無意識の領域を掘り起こそうとする。ものすごい速度でタイプを叩きながら精神から湧き上がることばの泉を汲み取る。そしていったん記録されたものを決して推敲しようとしない。このような創作姿勢はビート作家に共通して見られるが、そのスピードにおいてケルアックは抜きん出ていた。作品を刊行する際に出版社から削除と書き直しを命じられたことは、彼にとって最大の屈辱だったに違いない。(194)
ビート派は、小説を書いている間に閃く一瞬の感情とか、表現とか、真理とか。そういうものを大事にしていた人たちだったと。それで、私生活もヒッピーしてドラッグやって呑んだくれて~って感じ。書き方も生き方も全体的に捨て身な感じですね。捨て身だからこそ一途さみたいなのも伺えます。主人公のレオもそうだけど、根本的に不器用で純粋ではあります。「トレインスポッティング」とかも少し似てますね。最近2やってましたね。
マードゥにはきっとモデルがいるんじゃないかな。彼女の少女性というのか…ある意味での純粋さっていうのが清冽で、べったり「(自分の)男の肉体」に依拠して生きてるレオ(≒ケルアック)に創れる感じがちょっとしないかなあ。表現がいいんですよね。マードゥ。本性的(?)に女性というか、少女だな、って感じがする。
「みんなと会ったころの私って、何も知らない女の子だったの。他人に頼ったりしなかったけど、とくに幸せとかなんとかいうこともなく、何かすべきことがあるわという感じだった。夜学に通いたかったし、いくつか仕事もしたわ。オルスタッドの店やハリソン通りのあたりの小さな店でも働いたのよ。学校の歳をとった先生はいつも、私なら偉大な彫刻家になれると言ってくれていたの。いろいろなルームメイトといっしょに暮らして、着るものを買ったりしてうまくやっていたのよ」(42)
この「着るものを買ったりしてうまくやっていたのよ」ってすごくいいと思いません? ああ、女の子なんだな、って感じがします。「うまくやっていた」中で特筆するものがお洋服なんだなあって。でも確かに女の子が洋服買えてたらそこそこうまくいってる感じはあるよね。「他人に頼りなんかしなかったけど、とくに幸せとかなんとかいうこともなく、何かすべきことがある感じ」っていうのもすごいいい。この絶妙な回りくどさ、とりあえず色々拾い集めている感じってすごく女子っぽい気がする。
マージはレオ曰く「生まれながらに健康的で風通しのいいところから愛を求めてやってきた」女性。彼女は都市部にやって来ますが、ある男性と寝た後、ふと「自分が何なのかわからなくなった」といいます。彼女は「自分が自分でなくなる」恐怖に、裸のまま男の家を飛び出して、雨降る夜に辺りをさ迷う。彼女はそこである種の「天啓」を得て、自分が充足してゆくのを感じたのだと語る。
「私、決心したの、何かは建てたわ。それは……でも、私にはできないーー」新しい出発、雨の中の肉体からの出発、「私の小さな心臓、足、小さな手、神様が温めようと私を包んでくれている皮膚、つま先、こうしたものをなぜみんなは傷つけようとするの?ーー神様はどうしてこういうものを衰えたり、死んだり、傷つけたりするように造って、私に気づかせて悲鳴をあげさせるの?ーー野生の大地や肉体はどうして壊れるものなの? ーー神様が恍惚としたとき、父が金切り声を上げたとき、母が夢を見たとき、私は身震いしたわーーはじめは小さかった私もいまでは大きくなり、また裸の子どもになって泣いたり恐れたりするばかりなのよ。ーーねえーー自分の身を守って。あなたは害のない天使、害を与えたことなどなく、そんなことは絶対にできず、清らかな殻を破ったり薄い膜のかかった苦痛を与えたりすることもできないあなたーーローブを纏って、優しい仔羊ーーまたパパがやって来て、ママがその月の谷間にあなたを抱いて温めてくれるまで、雨から身を守って待つの、忍耐の時という織機ではたを織るのよ。毎朝を幸せに暮らしなさい」
ここは名文だと、個人的には思います。なんていうか、ある少女時代…恵まれてなく、周りには何もなくて、むやみに周囲から傷つけられていたような少女時代を送った人なら「読める」んだと思います。逆に、あんまり苦痛を感じず生きてこれた人には、「この女やばっ」ってなるような感じがする。
マードゥは精神科のセラピーに通っているいわゆるメンヘラで、生きづらさを抱えています。インターネットにはそう言う女性っていっぱいいるんじゃないかな。
…彼女は借りた二ドルを手に通りを走り、閉店よりずっとまえに店に着いた。カフェテリアでひとりテーブルについてコーヒーを飲み、ついに世界や、陰鬱な帽子や、濡れて光る歩道や、焼いたカレイがあることを示す張り紙や、窓ガラスや柱にかかる鏡に映る雨や、冷たいご馳走やドーナッツやコーヒー・ポットの湯気が見えるカウンターの美しさを理解したのだった。ーー「世の中はほんとうにあたたかいわ、小さなシンボリックなコインを手に入れさえすればいいんですものーーそれさえあれば温かい店に入れてくれるし、食べたいものを出してくれるのよーー裏通りで皮を剥ぐ必要も、骨をしゃぶる必要もないのーーそういうの店は袋をかついだ慰めを求める人々が心地好くなれるようにあるんだもの」
コインで何もかも手に入るなんて、なんて優しいんだろうと彼女は感動する。自分の心身を引き裂いても得られぬ「何か」があって、それは絶対的なものだと思っていたのに、世の中にはお店とかがあって、雑貨とか、コーヒーとか、そういうささやかな慰めをもらうことができる。それが社会的に許されて、あまつさえ「普通」とされているなんて、優しくてかけがえがないことだと打ち震える。
この後マージは、「マリアナやベンゼンドリンでハイになる注射をされたような気分になり、ハイな気分のまま通りを歩いてい他人と電気接触をしているのを感じる」「そういうときは誰かがひそかに彼女に注射し、通りを歩く彼女を尾行するから…感電するような感覚はそいつのせいで、そいつは宇宙の自然法則からは独立している」(52)みたいなことを言い出して(レオ視点なのでちょっと人称がおかしいですが)ちょっとヤバい感じなのがわかるんですけど。「雨の中、素直で美しく、正気を失っている」(62)は純粋な子供そのものだとレオは感じ取る。
「日差しが柔らかくて花が咲いていたわ。私、通りを歩きながら考えていたの、『これまでどうして退屈に身を任せていたのかしら?』ってね。その埋め合わせにハイになったり、お酒を飲んだり、怒ったり、誰もがやるようなごまかしをしていたのよ。なぜそうなるかっていうと、みんな、今あることを静かに理解する以外のことならなんでもしたがるからかもしれないわ。これって、たいへんなことだから。それで腹の立つ社会的な取引のことやーー腹の立つーー刺激的なことを考えたりーー社会問題や人種問題について口論していたのかもしれない。ほとんど意味がないことなのに。最後には大きな自信や朝の黄金いるの光も消えてしまうような気がしていたの。私はもうはじめていたのよーー私は、純粋な理解やずっと生きていこうとする意志のちからで、自分の人生をそういう朝みたいにすることもできたのに。そうなっていたら、どんなことより素敵だったでしょうねーーでも、何もかもが嫌なことばかりだった」(58)
言ってることも結構まともっぽかったりするんですよね。自分が生まれ変わったように思える朝、瞬間。全てのものがフレッシュで、自分の存在も、他人の存在も祝福されて、自分が見るものすべて、人間すべてが神様が定めた宿命であり、神聖なもののように思える。そういう朝を彼女は体験して、レオはそれを「あばたの地面にあいた穴から不安げで純粋無垢な精神が立ち昇り、砕けた自分の両手で安全な救いの場へと這い出してきたことがはっきりとわかった」と描写する。
狂人の純粋無垢性って私はすごく惹かれるテーマだったりするので、興味深いと感じます。マージ自身結構頭が良い子で、性格も真面目な感じがするんですよね。レオはマージのこの話を聞いて彼女を唯一無二の女の子だと感じます。
ーー灰色の日、赤い電球、僕は若い頃に知っていた偉大な人々、仲の良かったアメリカの偉大なヒーローたち、いっしょに無理をして刑務所に行き、みすぼらしい朝を迎えた人々、あふれそうな排水溝のなかにシンボルを見ながら歩道を歩いた少年たち、タイムズ・スクウェアにいるアメリカのランボーやヴェルレーヌたち、こういう人々以外の口からこんな話を聞いたことは一度もなかったーー精神の苦悩を語ってぼくを感動させる女の子など一人もいなかったし、地獄を彷徨う天使のような輝きを見せる魂を見たこともなかった。かつてぼくは、その地獄とまったく同じ通りをぶらつきながら彼女のような人間を探し求めていたが、暗黒も、謎も、永遠の中でのこうした出会いも、夢想だにしていなかった。…ーーもはやそれは愛にも似ていて、ぼくは困惑したーーぼくらはリビングルームで、椅子のうえで、ベッドルームで愛を交わし、からだを絡ませあって充足感にひたって眠ったーー今度はぼくのもっと強い性衝動を見せてやろうーー(63)
最後は結局性欲かよ!!って思うんですけど。それはまあ置いといて。最初はヤリ目だったけど、話聞いてると結構色々悩んで苦しんでるんだなってことがわかって、それって実は俺もすごい悩んでたことだったんだよね。なんかこの子いいな、ちょっとヤバいけど。みたいな感じですかね。「もはやそれは愛にも似ていて、困惑した」っていうのが無責任さを際立たせているな〜〜〜〜。
レオはマージのこうした話の中に、彼女のルーツである黒人の歴史を読み取り、原始の力を持つはずの人々であった彼らが、奴隷制によって何もかも奪い去られ、すっかり力を失いながら生きるさまを重ね合わせています。このへんが結構難解で読むのに苦労しました。そして、多分これは後々また強調されて使われていくモチーフなんだろうなと思ってたら、最初だけぶつけてきて後にはほとんど出ないのもびっくりしました。書きなぐっている感じがしますね。
レオはマージ自身顔を合わせたこともない彼女の父親を夢想し、「ハンサムな彼はアメリカの片隅の寒々とした薄暗い明かりの中で誇り高く直立している。誰も彼の名前など知らず、気にも止めていないーー」と考える。レオにとってこの「薄暗い中で〜誰にも名前を知られず、気にも止められず〜誇り高く生きる」っていうのがポイントっぽいんですよね。題名にもなっている「地下街の人びと」に惹かれる理由も根本的にはそれのような気がする。貧しく暗い中で、生に対して絶望を抱えながら、ひっそり生きる。うわべはどうでも、中身には傷つきやすい心とか、繊細な魂を抱えている。無数にいる人間の中に没して飲み込まれそうになりながら、自分なりの正しさや生き方を追い求めていく。そういう姿を彼は「地下街の人びと」見出して、惹かれているような気がします。
で、だからさぞかしスケールの大きいロマンスになるんだろうなーって思って読んでたんですよね。マージという女性を介して黒人全体の歴史を視る、そんなことができるのかなーって。あとはあまりにどうしようもないカップルだから、どうしていくんだろうか、みたいな。「僕らは深い愛と、敬意と恥辱の身のうえにたってロマンスをはじめた。ーーというのも、勇気への最大の鍵は恥辱だからだ。」ってなんかかっこいいこと書いてるし。
でも、結局後半が、レオはマージが止めるのに毎日呑んだくれて、小説書くからって言ってウザくなってマージの家に行かなくなったり、たまにムラッとしてヤりにいったり、(さんざんゲイこきおろしてたのに、酔ったはずみでなのか)美青年と寝てマージを嫉妬させてみたりする。話のターニングポイントは、レオがマージが浮気している夢を見たこと。その夢にだんだん縛られてって、マージがユーゴスラビア人のイケメン・ユーリと話してると色目を使ってるだの、楽しそうだの、やっぱり彼女は若者がいいんだ、とか考えたりする。「おまえは年寄りだ、歳をとったろくでなしなんだ、こんなに若くて可愛い女を手に入れるなんて幸福なんだぞ」って自分に言い聞かせながら、同時に「彼女に気づかれずに彼女と別れる方法はないか」とか考えたり。途中月を見て唐突にお母さんのことを想って号泣したりします。時々マージからいい表現が書かれた手紙を受け取って、「彼女を誠心誠意愛さなければ」って思い直すんだけど、結局酔いつぶれてベロベロで会いにいったりする。マージが実家出て一人暮らししたらって言っても、お母さんが大事だからとか、お母さんに嫉妬してるんだろみたいなこと言ってとりあわなかったり。で結局マージが「ユーリと寝ました」って言って、「私は私でいたいの」って言って、愛想つかされて家に帰る。みたいな感じ。でも実際「ユーリと寝た」っていうのも実際嘘か本当かわからないみたいな書かれ方をしている。その上レオは結構関係末期になっても「女は殴れば言うこと聞く」みたいなこと言うし。
こんだけダメの役満だと、逆にダメを売りにしてる感じもする。一番ダメな男像を提示して、共感を集めているのかな。それにしても約10歳年上の男がこんな器狭かったら私嫌だなあ…。
ブログをここまで書くにあたって軽く読み直しまして。
最初のほうに書いた「レオは幻想を抱いていたか」っていうのは、ああ、抱いてたんだな、ってわかりました。でもそれは身勝手な幻想だとも思った。マージはいい子ですよ。レオが見出したような純粋さとか、狂気とか、そういうのはあるし、同情を買おうとしたわけでもなんでもない。自分が自分でい続けるために、ダメ男を切るくらいの決断力も、賢さもある。普通メンヘラって男に依存するのに、そこは偉いと思います。単純にレオがそこまで幻想を見て惚れ込んだ女の子と結局一緒にいれないくらいダメだっただけです。裏切られた!所詮女ってこんなもん!みたいな感じの書き方ですね。でも終わり方的に、その自分のどうしようもなさもなんとなーく分かってそうなところがまだ救いかな。
でも「こんな彼氏ヤダ」みたいなところでレオを責めたところできっとナンセンスなんですよね。きっと話のキモはそこではなくて、この話の魅力は男にしかわからない男のダメさみたいなところにあるんじゃないかなと思う。
でも、ダメじゃない男だっているのに、こういう本をもってきて男ってダメな生き物だから、とか言ってるダメ男は違うと思うよ!