『南極料理人』感想
『南極料理人』(2009)
監督・脚本:沖田修一 原作:西村淳 主演:堺雅人
評価:★★★☆☆
Amazonプライムビデオでみました。
最初のシーンの「中国文化研究会」っていう幕と麻雀やってるところだけ前見たことがあって。大学のやる気ないサークルがなんやかんやで北極目指す話なのかな…って思ってたら全然違ってました。部屋自体が北極にありました。。
おじさんたちのわちゃわちゃを愛でる映画。思春期の女の子なら「きっも」て思って終わりそうな感じのありのままさ。。
くすっとくるところがたくさんあり、ゆるいんだけどすごい計算されて撮られているのかなと思います。ビデオを見ながらの体操が、最初はヨッタヨタだったのがシャキッとしていくところが面白かった。あとは伊勢エビフライを食べるときに、みんなが同時にでっかい伊勢海老の頭を皿からどけるとことか。南極の節を祝って(名前忘れた)、みんなで正装してまでフレンチを食べるところとか。
映画自体はほとんど内容がないんだけどよくわからない緊張感があって、不思議な感じ。ドラマっぽい喧嘩とか友情とか成長とかそういうのがないのがいいのかもしれない。まあ…オッサン同士だしな…みたいな。肩の力が抜けてるのがいい感じ。
個人的には豊原功補さんの白衣+眼鏡が色っぽくて素敵でした。ドクター役似合うね…。生瀬勝久さんも若々しくて格好よかった。この人のツッコミは笑えてしまう。堺雅人もあどけない感じで、にこにこ笑って可愛かった。
以下雑感。
・バターまるかじりは怖いよ。ホラーだよ。
・何故か母親と娘が可愛いと思えなかった…。どっちもなんか苦手な感じ。
・ラーメン食べれてよかったねえぇ。若干自業自得なのもゆるふわおじさんだと許せてしまうのはなぜ…。ずるい。
・人間って生まれたからにはなにはなくとも生きていかなきゃいけないし、だとするとなにはなくとも食べなきゃいけなくて、だとするとなにはなくとも料理って必要。「食べ物をつくる」(料理人)っていう、人間全部をふわっと包み込むようなポジションが、主人公の空気とよく合っていました。
追記
今回からカテゴリに「ゆる感」(ゆるい感想)枠を設けてみました。がっつり考察はいらない、映画とか本とかについてはここに書いて行こうかなと思います。
前は目標高すぎて放置しちゃってたので、3日に一度くらいで何らかの感想や分析を続けていきたいです。
アンナ・カヴァン『氷』感想
読了しました。
薄い本だし、訳も自然でつっかえるところもなかった。
難しいようでいて単純な話なんだろうなと思う。
こういう話を読むときに、何かと何かがイコールだとか分析して、関係図とか、一覧表を作ろうとしたがる人がいる。たとえば芥川龍之介の『トロッコ』が不安の現れ、とか、メタファを=とか記号でつなごうとする。受験勉強や授業みたいに、わかりやすくまとめるときには便利だし、とっかかりやすくはなるのかもしれない。でも、すべてそういう図式で済んでしまうのであれば、何も小説って形にする必要ってないなってわたしは思う。図式で表せないものを書くために小説があるし、単純化によって作者の本当の気持ちみたいなものが、指の隙間からこぼれ落ちてしまう感じがする。そう考えると、読書って丹念に気持ちや心をなぞっていくことなのかもしれない。作者の心の、生のままの迷宮を、読みほどいて再現していくことかもしれない。
『氷』はそういう小説だ。だから、これを単なる図式に還元するのは少し違う気がする。
設定はわりと荒唐無稽である。
語り手である「わたし」と、「わたし」と奇妙な一体性を持つ「長官」、そして彼らから暴力を振るわれる「少女」がいる。「わたし」は「少女」を自分の一部と考え、愛しい彼女を追って氷に侵食されつつある世界を探し回る。その世界は核兵器と氷によって滅亡に瀕し、人々は絶望を抱えている。
「少女」は幼児期の母親からの虐待によって、自分を被害者だと見なし、暴力に対し常に怯えと恐れを抱えている。この世界は奇妙にも「わたし」の心と呼応しては離れる。氷の世界は「少女」を脅かし、「わたし」を責めさいなみ、その住民を暴力と死に閉じ込めていく。
「わたし」と「長官」はどちらも少女を求め、支配し、そして痛めつける。「彼女」を支配し虐めることは、「わたし」に薄暗い快感をもたらす。「わたし」は少女を狂おしく求めており、絶えずその美しさ、儚さを讃えるが、同時に彼女を殺すのは自分だけに許されていると考えている。
「氷の世界」とは、「少女」を苛む「長官」や「わたし」のメタファでもあるようだし、「少女」を自分の一部と思う「わたし」の、絶望しきった心象風景にもみえるし、また、ただの理不尽な超常現象であるようにも読める。確定的なことは最後まで示されない。
読んでいるうちに、なんとなく「長官」はより暴力的な「わたし」なのかもしれない、と思う。ふたりはときに分裂し、対面し対立しながら、支流の川が交わるように混ざっていく。それでは「少女」は、「わたし」の被虐的な部分、痛めつけられ、傷つき、すべてを恐れ、世界には絶望という答えしか存在しないような「わたし」だろうか。あるいはそうかもしれない。そうとも読める。そうでないとも、読める。ただそうした解釈を指向するように作品は流れている。
『氷』は錯綜している。組み入った入れ子構造というか、意味と意味が明確に区分されていない。ひとつの表式がひとつを飲み込んだり、支配されたり、囚われたりする。それを示す文章をいくつか見つけた。
外の世界の非現実性は、わたし自身の乱れた心の状態を延長したように思えてくる。
この世界の冷酷さは、少女の臆病さと脆弱さが誘発しているように思われた。
少女の内にある何かが、彼女を犠牲者にすることを要求する。今ではもう[彼女とわたしの]どちらが犠牲者なのか判然としない。多分互いが互いの犠牲者なのだろう。
『氷』には相矛盾する文章が多々あるのに、意外なほどに読みやすい。文章の平易さもあるのだろうが、視点や時間軸、場面を唐突に転換するのなら、難解と感じられてもおかしくない。けれどすらすらと読める。それはなぜか。登場人物や世界の構造が非常にシンプルだからだ。追いかけるもの、逃げるもの、攻撃するもの、傷つけられるもの。病んだ人間の心のなかの、シンプルな構造がそのまま反映されている。
冒頭で、わたしが「難しいようで単純な話」と書いたのはそういうわけだ。
そのシンプルな構造は、シンプルだからこそ、読者の心の構造と呼応する。
絶望に閉じた冷めた世界と、楽園としてのインドリ。その狭間で、少女と抱き合い世界の終末を見届けることを選ぶ「わたし」。単に無味乾燥な記号でくくるのではなくて、この世界の力ない民の一人になり、心細く彷徨うのが、この本にふさわしい読まれ方だと思う。
この版の序文として、クリストファー・プリーストという人の評が訳されている。この人は「スリップストリーム文学」として『氷』を紹介する。「スリップストリーム文学」とは、“本質的に定義不能な概念”であり、“あらゆるカテゴリーづけの外にある精神の一つの状態、あるいは特殊なアプローチ”というふうに説明される。 “読者の内に「異質性」の感覚を誘発”し、“歪んだ鏡に映ったものを見てしまうような、見慣れた光景や事物をいつもとは違う角度から眺めたような感覚”を誘発する。そして、“スリップストリームは、科学(とその所産)を無意識の領域に、メタファ、エモーション、シンボルの領域にシフトさせる”。
言葉にすると難しいが、こう、現実に関するカウンターというか、現実を小説の中で作者が「私物化」してしまうような、そういう作品をさすんじゃないかと感じる。『氷』は特にそういう形式に沿うものの気がする。
もっとそういう作品を読みたい。それは小説のなかでしかできないことだし、わたしにとっては、だからこそ小説を読む意味がある。現実には、わたしなんかが受け止めきれないことが多すぎる。
2017見た映画・本一覧
覚えている範囲で書いていこうかと。。
映画
- ムーンライズ・キングダム(ウェス・アンダ―ソン、米)2012
- ミザリー(ロブ・ライナー、スティーブン・キング、米)1990
- トゥルーマン・ショー (ピーター・ウィアー、米)1998
- シャイニング(スタンリー・キューブリック、英)1980
- 悪魔のいけにえ(トピー・フーパー、米) 1974
- 天才スピヴェット(ジャン・ピエール・ジュネ、仏)2014
- 時計じかけのオレンジ(スタンリー・キューブリック、英)1971
- アメリ(ジャン・ピエール・ジュネ、仏)2001
- ジャッジ 裁かれる判事(デヴィット・トプキン、米)2014
- アンフレンデッド(レヴァン・ガブリアーゼ、米)2016
- わたしはロランス(グザヴィエ・ドラン、仏・加)2013
- ばしゃうまさんとビッグマウス(吉田恵輔、日)2013
- 味園ユニヴァース(山下敦弘、日)2015
- この世界の片隅に(片渕須直・こうのふみよ、日)2016
- 桐島、部活やめるってよ(吉田大八・朝井リョウ、日)2012
- ラ・ラ・ランド(デイミアン・チャゼル、米)2016
- サガンー悲しみよ、こんにちはー(ディアーヌ・キュリス、仏)2008
- 東京ゴッドファーザーズ(今敏、日)2003
- リリーのすべて(トム・フーパー、米)2015
- ふがいない僕は空を見た(タナダユキ・窪美澄、日)2012
- ムーンライト(バリー・ジェンキンス、米)2017
- 作家、本当のJ.T.リロイ(ジェフ・フォイヤージーク、米)2016
- ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ (マイケル・グランデージ、米)2016
- 苦役列車(山下敦弘、日)2012 ※記事あり
- メアリと魔女の花(米林宏昌、日)2017 ※記事あり
- 静かなる情熱 エミリー・ディキンスン(シンシア・ニクソン、米)2017
- 娚の一生(廣木隆一、日)2014 ※記事あり
- 怪盗グルーの月泥棒 (クリス・ルノー、米)2010 ※記事あり
- かいじゅうたちのいるところ(スパイク・ジョーンズ、米)2009
- 告白(中島哲也、日)2010 ※記事あり
- ブロークバック・マウンテン(アン・リー、米)2005
- SEVEN(デヴィッド・フィンチャー、米)1995 ※記事あり
- マイ・ブルーベリー・ナイツ(ウォン・カーウァイ、香中仏)2007
- リップヴァンウィンクルの花嫁(岩井俊二、日)2016 ※記事あり
- キャロル(トッド・ヘインズ、米)2015
- バードマン(あるいは無知がよたらす予期せぬ奇跡)(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ、米)2014
- ニューイヤーズ・イブ(ゲイリー・マーシャル、米)2011
- メイドインアビス [アニメ] (小島正幸、つくしあきひと、日)2017
本
- 灯台へ ヴァージニア・ウルフ ※記事あり
- 劇場 又吉直樹
- 瓦礫の天使たちーベンヤミンから映画の『見果てぬ夢』へー ※記事あり
- 太陽がいっぱい パトリアシア・ハイスミス ※記事あり
- アメリカの友人 〃
- 贋作 〃
- 月と6ペンス モーム ※記事あり
- 地下街の人びと ジャック・ケルアック ※記事あり
- まなざしの記憶 鷲田清一・植田正治
- 木島日記 大塚英志
- ヴァリス P.K.ディック
- ...
こんな感じでしょうか。
特に本は上京したばっかりで、狭い部屋から逃げ出して、カフェや図書館や喫茶店でずっと読んでた時期に稼いだ感があります。映画は年初映画好きの人と付き合ってたので結構見たな…。思い出が溢れ出ますね、やっぱり。。
今年はNETFLIXも契約したし、家も引っ越したし、この倍くらいは伸ばしたいところです。
2018見た映画と本一覧
更新あんまりしていなかったのですが、今月のPVが100行ってました。来てくださってる方本当にありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
にしのの2018年の目標は、映画100本、本100冊読む!というものです。
ずっと小説家ワナビでいないためにも、たくさん物語を消化して、触れていかなきゃと思います。「小説を書こう」と思っても、長く二次創作を書いてたためか、物語の構成が全くわからない感があるので…。
本当は見た映画すべて、読んだ本すべてについて記事がかければいいのですが、合わないやつや書きづらいものも出てきてしまって。無理やりも苦痛になってしまうし、このブログにはグッときたものの感想だけしたためていければいいのかなと。なので、今年は見たものリストを作ることにしました。順次書いていければ…いいな…。
映画
- 怒り (李正日・吉田修一、2016) ※記事あり
- オートマタ (ガベ・イバニェス、2014)
- アメリカンホラーストーリー S1
- きいろいゾウ ※見直し (廣木隆一、2012)
- 百円の恋 (武正晴、2014)
- FARGO (コーエン兄弟、1996)
- ストロベリーショートケイクス
- 真珠の耳飾りの少女
アニメ
・DEVIL MAN CRYBABY S1-6話まで
・甲殻機動隊 S1-22話まで
・墓場鬼太郎 S1-5話まで
書籍
1月
- 人間仮免中 (卯月妙子、2012)
- 人生仮免中つづき (〃、2016)
- 人間の土地 (サン・テグジュペリ、1939)
- 凪のおいとま 1ー3巻
- アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(P.K.ディック、1968)
読みかけ
・嵐が丘
・夜間飛行
・この人を見よ
・Flowers for Algernon(原書)Daniel Keyes, 1966
とりあえず今月はこんな感じです。続きものの漫画やアニメ・ドラマの処理をどうするのか悩みますが…。とりあえずシリーズやシーズンの最新の話で見たら一作品としてカウントしようかな。そんな厳密じゃなくてもいいとは思いますが。
映画一本でも、途中で見るのをやめるのが結構多いんですよね。今月だけでも、パルプフィクション、インセプション、インターステラー、トム・アット・ザ・ファーム、帰ってきたヒトラー、ぼくのエリ 200歳の少女…が途中になってる。。うー…。でも全部見ないでカウントするのは不純だしな。。
一応このページには通年の一覧を書いて、月ごとにも、新しい記事で、Twitter等にあげた感想をつけてまとめなおしていこうと思います。
あんまりキッチリしようとすると続かないので、ゆるゆるとやっていけたらいいです。続けるためには、ゆるゆる大事ですよね。でも、今月はもう1本くらい映画見ときたいところだなー、足りないや…。見途中のを一本でも見終えられればいいな。時間をおくと億劫になってきてしまうけども。
『怒り』感想
『怒り』Netflixで見れたので見ました。飽きないで見れました。どちらかというと「え、もう終わり?」って感じで、充実した時間でした。
1. 森山未来やばい
2. 宮﨑あおい幸せになってね
3. 妻夫木ゲイゲイしすぎ&綾野剛演技の幅広い
まとめるとこんな感じでした。。でも良かった気がする。映像の説得力とか、音や場面の転換とか、きれいさはさすがだなと。端正な感じの表現をする監督だと感じました。李相日監督の映画は「悪人」を見たことがあります。当時の感想はこんな感じ。(2016/09/23付でした)↓↓
60点くらいかなあ。原作は傑作なようなので、原作を読んだほうが良かったのかなと思った。
演出とか雰囲気は好きだし、抑制された感じからの動の緩急の付け方も、場面転換の切り口も良かったと思う。キャスティングも良い。脇の満島ひかりと樹木希林も凄い。ただテーマである『悪人』の掘り下げ方が足りない、浅い。紙の月見た後だから余計そう思っちゃったのかもしれないけど…。間違って人を殺しちゃった不器用なチンピラ男と、偶然出会った美女のつかの間の逃避行…みたいな昭和のメロドラマ感から抜け出せない。目指したのであろう、祐一や佳乃を取り巻く人々の善悪の交錯が立ち上がってはこなかった印象。
田舎の閉塞感も、出合い系サイトで出合いを求めて出会っちゃったり、そういうのは凄い分かる。わかる。光代は健気で良い子で、純朴な女性。祐一は、不器用で愛想がなくて頭があまり良くなくて、でも根は優しい傷つきやすい人、というのも伝わってくる。でも、中心がない。ふたりの関係が愛なのか、そうじゃないのか、がわからない。
衝撃だったのはラストの展開。そこで、あなた、絞め殺すの?って。愛を信じられなかったのか、離れ離れになることが辛かったのか、彼女を逃亡幇助者として巻き込みたくなかったのか、彼女に愛想を尽かせられたかったのか、それとも警察に対する演技だったのか。そして、首を締めあげられたとき光代はどういう思いだったのか。
それまでの2人の恋愛の経過が薄かったために答えが得られず苦しい。
映画だと結構ブレているというか、惜しい印象だった。
↑↑
「動の緩急の付け方」「演出」「雰囲気」「場面転換の切り口」はやっぱりこの時も好きだった。群像的演出は「悪人」もそうだったな。。
『悪人』より『怒り』は良かったです。簡潔になってたし、更に緊迫感が増していた。
1.森山未來やばすぎ
考えてみると『怒り』は『悪人』より「悪人」に徹底的な説得力をもたせたせいで、わかりやすくなっていたのかもしれません。森山未來は『苦役列車』で見てたのでまだ「あああ…」で済んだけど、これが初森山未來だったら軽くトラウマになっていたかもしれない。
森山未來の破壊力の凄さなんなの。文字通り何かをぶっ壊すときの勢いがすごすぎる。見ながら思わず「やめなよお〜〜〜ああああ〜〜〜〜…」って言ってしまう。あのやみくもな鬱憤をぶつけるみたいな破壊の仕方はすごい。「あっこいつヤバイ、なんとなく分かってたけど、やっぱヤバイ」っていう説得力すごい。あれは呆然として見つめるしかできないわ。
あと辰也くんに襲い掛かるときに「怒」をめっちゃ刻みなおしてから行ったのすごい。あれは漫画だったらわかるけど実写であの勢いであれやれるのは…。ちょっとでもダレたら「え、何今のw」ってなりそう…。身のこなしや気迫というか勢いというかが頭のネジ外れた人のそれでしかない。
彼の「絶対悪」感はすごいよね、本当。「これしか知らない」って感じ。それなりに本当それなり〜〜〜に社会に適合しつつもヤバさが抑えきれないのがにじみ出ている。そりゃ役柄なんだろうけど本人はちゃんと社会生活できているのだろうか…できてるんだろうけど…。
落ちとしてはまあこの人になるよなーって感じ。
広瀬すずは、レイプ後の終始逆光と海と共にある美しい描かれ方に忖度を感じました。
辰也くん役の子の生々しい田舎の高校生感は良かったです。
(『苦役列車』の感想はこちら。初記事でした)
2.宮﨑あおい
この女の子ちょっと知的障害入ってますよね。本人の「私なんかといてくれる人なんかいない」って思いと、父親の「娘が幸せになれるわけがない」って思いが呼応して現れ、殺人事件とは別の重いテーマになってました。
渡辺謙がいいお父さんですね…。倒れないでほしい。松ケンの不幸で不器用で、朴訥な青年って感じの演技も良かった。愛子と田代君でこじんまりと幸せに生きていってほしい。愛子の純粋で難しいことがわからない感じが、きっと田代君には居心地が良くて、無二の存在になれたんだろうな。原作上下巻ということでかなり端折ってるんでしょうけど、演技に説得力があって、二人の愛情がひしひしと伝わってきました。
吉田修一は『女たちが二度遊ぶ』を読んだことがあって、その女性の書きかたが活きてる感じする。ちょっと欠けてる女の子を生々しく、でも愛情を持って書いている。
3 妻夫木&綾野剛
妻夫木ゲイにしか見えなかった。最後男泣きだけどシャツの襟めっちゃあいてるのがちょっとおかしかった。ごめん。
綾野剛は『リップ・ヴァン・ウィンクルの花嫁』で胡散臭いなんでも屋役で出てて、そのイメージだったけど、カメレオンみたいに役で変われるんだなあってびっくりしました。ちょっと儚げな青年の役でしたね。ぱっと見胡散臭いけど、蓋を開けてみればなんてことない、不幸で浮世離れした男の人だった。サナトリウムでお母さんと話してるシーンが一番自然で、合ってるように見えた。
あと、愛子のお姉さん役でちょっと池脇千鶴さんが出てたんですね。妻夫木と池脇千鶴さんといえば『ジョゼと虎と魚たち』。すごく思い入れのある作品なので、ちょっと嬉しかったです。宮﨑あおいと顔似てる気がして姉妹っぽかったです。ジョゼみたいなぼんやりした身勝手な役から、チャキチャキお姉さんまでやれちゃうのがすごいっすね。
告白(映画)感想・批評比較・分析
原作未読です。ざっくり言うと、あまり良いとは思えませんでした。引き込まれはしなかった。
ディープラブとか山田悠介を支持してた小学生高学年〜中学生がメイン客層な気がします。もっと本格ミステリかと思ってたので意外でした。
映画全体としては「リリイ・シュシュのすべて」(2001)と「女王の教室」(2005)を足して2で割って劣化させたような感じ。
(「女王の教室」のメインビジュアル、冷たい雰囲気の女性教師が一人で大写しになっているところが似てますね)
これ2010年公開らしいんですが、7年前って高校生とかまだガラケーだったのか…じ、時代を感じる…。
学生たちの群像劇で、クラス内でのカーストとか、いじめとか、「桐島、部活やめるってよ。」(2012)みたいなものをめざしたけど作れなかった印象がすごいです(私は「桐島〜」はすごく好きです。吉田大八監督の作品はどれも傑作だと思います)。原作がポンコツすぎるせいじゃないかとは思うのですが。
映像作品としての質は高いなと感じます。特に橋本愛がいいです。本当に綺麗で存在感がある子で、お肌もツヤツヤ目も迫力があって美しい。芦田愛菜も可愛くて天使みたいだ。音楽も良いし(ダウナー系の女性歌手の歌とか使っててリリイ・シュシュの既視感はあります)、毒殺犯に憧れる女の子と天才の男の子との戯れ合いのシーンとかすごくいいなと。爆破シーンの逆モーションとかも、教室の硬質な光なんかも、もっといい映画なら痺れたのかもしれない。
諸批評
見終わった後ざっと評判をググってみたんですけど、賛否両論だったんですね。知らんかったわ。
この映画は実は賛否両論あって、評価が割れている。公開された年の興行収入では第7位を記録して、日本アカデミー賞では4冠を達成しているのだが、映画雑誌「映画芸術」では2010年に公開された映画のワーストワンの映画であるという位置づけであった。
このワーストワンの理由とは、松たか子が淡々と語る長いセリフの部分が映画的ではないというところだそうだ。確かにこの映画は松たか子始めキャラクターが、BGMをバックに淡々とセリフを語っていき、また映像もテレビのコマーシャルの様な映像を流す手法がとられている。(これは実際に見ていただければ納得いただけるだろう)それが始めから最後まで貫かれている。斬新ではあるのだが、そこが評価されなくてのワーストワンという事らしい。
公開当時の2ちゃんのログなんですけど、ここでもだいぶ評価が割れてることがわかり、興味深いです。
10 : エビ男(西日本)[sage] 投稿日:2011/01/23(日) 01:23:57.54 ID:Bsd697qo0 [1/1回(PC)]すごい痛快だったけどな
これぞダークヒーローっつう感じだった
14 : リョーちゃん(dion軍) 投稿日:2011/01/23(日) 01:26:19.31 ID:GSuGLu2SP [1/1回(p2.2ch.net)]評論家()は取りあえず話題になった物は叩く。
それによって「一般人とは違う」というのをアピールする。
40 : ばら子ちゃん(不明なsoftbank)[sage] 投稿日:2011/01/23(日) 01:47:37.79 ID:BfxWHRr60 [1/1回(PC)]俺は凄く面白かった。
後々ワースト1に選んだ雑誌や批評家の方に逆に傷が付くし汚点が残るよコレ。
ぱ悪には悪で対抗するしかなく、DQNは何処まで行ってもDQNってのを実感させられる映画。
42 : 雪ちゃん(東京都)[sage] 投稿日:2011/01/23(日) 01:48:05.29 ID:QpElOv7V0 [1/1回(PC)]・言うことを聞かないくせに、牛乳は温和しく飲む中学生たち
・エイズ感染してるもしれない殺人者を、不気味がらずにいじめの対象にできる中学生たち
・エイズ感染してるもしれない殺人者を、当局に通報しない中学生たち
・そんな殺人者にエイズウイルスを飲ませて殺害しようとした教師も通報しない中学生たち
・クラス全開でイジメてるのに、全く気づかない教師たち
・チャックに触れただけで電流が流れる意味不明な防犯グッズ
・そんなものが発明コンクールで優勝して、あまつさえ大事件が起こった日の新聞の社会面に掲載
・モザイクが外れるAVのDVDと、いまどきそんなものを有り難がる中学生たち
・いまどき大学で電子工学wを研究してる優秀な女博士
・ブログに実写動画で犯行動機UPしてるのに、松以外誰も見てない件
・そんな美味しそうなブログを、早速祭らないν即民たち
・爆弾作りで一番難しい、ビルが吹っ飛ぶくらいの強力な爆薬をあっさり調達する中学生
・足元の爆弾をわざわざ携帯で起爆させる必要性
・母親が死んだと電話で告げられたら、確認もせずに号泣して鼻出血
72 : ハッチー(関東・甲信越) 投稿日:2011/01/23(日) 02:29:01.29 ID:y+LKFz4NO [1/2回(携帯)]つうか「告白」を褒めちぎってるのはまともに映画とか読書とかでカタルシスを得たことがない文化的情弱。「告白」っていう映画は、中島哲也のリトマス紙的な映画で観るものによって評価が代わるという意見がある。
シネフィル的な人達には評価が低い、ベタ誉めしてるの普段まったく映画も本も読まない連中がセンセーショナルな内容に騒いでるだけ。
84 : DD坊や(千葉県)[] 投稿日:2011/01/23(日) 08:12:39.24 ID:IIB2UkJL0 [1/1回(PC)]悪い意味で日本的な映画
まるで土曜21時の安いドラマを見てるような感覚
中高生やライト層に受けそう
世界からの評価は得られないだろう
褒めてるブログ
「そうしたら、スゴク良く出来ているというか、映像とか素晴らしいし、斬新な感じだし、話もスゴク面白い。というか興味深い。それでなんというのかな…映画を観ているとき、自分の思う『こういう風にしちゃうと、別の意味になっちゃうじゃん』『話がまとまんないじゃん』『ここオカシイじゃん』とか、『この撮り方ないじゃん』『ご都合主義じゃん』とかが無いんです」
「すごく良く出来ているし、出てくる人の性格とかも『こういうヤツなんだ』『腹立つわ』とか思うんだけど、あまりに出てくるヤツが全員腹立ってくる、キライというか…だから、すごい正しいことだと思うんです。要するに、『清々しいほどこの映画に出てくるヤツ、全員キライ』って思うし、嫌なヤツがいっぱい出てくるストーリーだから、それで良いんだけどね。狙い通りなんですよ」「『告白』って映画が、俺は嫌いでしたね。ダメ、とかツマンナイとかじゃないんです。すごい面白かったし、すごい興味深かったんだけど、俺がとてもキライだったもの、みたいなものがあまりにキチンと描けているから、ホントに最後まで観て、『うわ~ぁ…もう観たくない』って思いましたね」
82点
(中略)
でも、まぁ、良いんですよ。僕的には自警団モノの亜流というか、ジャンル映画だと思ってるので、勢いがあって面白いから全然OK。
貶してるブログ
ぼくは「告白」という映画が嫌いです。2010年のワーストだと思ってます。そのくらい嫌いです。(ちなみに封切作品は年間6,70本ほど見てます)アバターも酷かったでけど、あれは害のないつまらなさだと思うんで別にどーでもいいんです(見終わった直後には金返せと思ったけど)。告白はアバターとは全く異なる次元で嫌いなんです。害悪とすら思ってます。
さて、今回は本当は、中島哲也「監督」の「映画」というふれこみの『告白』という、CMもどきの単なるかっこよさげで意味を欠いた薄汚い映像の羅列について語るつもりだったが、もう面倒くさくなったからやめる。
私なりの分析
レビューに目を通していくと、褒めている人・貶している人のざっくりした傾向が見えてきます。褒めているレビューで取り上げられるのは映像表現の美しさ、松たか子を始めとした俳優陣の演技、原作や映画のテーマ性を褒めている。一方、貶しているものでは設定・脚本のお粗末さが指摘されていたり、また、これ見よがしの映像表現が鼻につくんじゃというものもありました。
私は賛否でいうと否より、です。映像表現の目新しさ、美しさはあるのかもしれないけど、私は映像畑の人間じゃないから専門的なことはよくわからない。公開から七年も経つと、このくらいの綺麗さって結構いろんな映画で見れるようになってきている感じもする。学校で「命」について考えるということをテーマにした作品は結構作られてるので、題材にそこまでセンセーショナルと思えなかったというのはあるかも。(例:「先生を流産させる会」(2012)、「ブタがいた教室」(2008))
他洋画だと、私が見たことあるのだと、「エレファント」(2003)には、米コロンバイン高校で起きた実際の銃乱射事件に基づいて、犯人の少年の視点から高校生活を描かれています。血しぶきなども描写していることからR15指定を受けていたり、心象的な映像表現が多く見られるなど、「告白」と似た点があります(「告白」も血液などの暴力的表現からR15指定)。また、どちらにおいても主人公に共犯者となる同性・同年代の少年がいたこと、犯人の少年が、異性・同性双方とキスするシーンがあること、クラスでもあまり目立った存在ではないこと、なども、共通点です。私は「エレファント」はすごく好きです。
湊かなえが「エレファント」を参照して小説を書いたかはわかりませんが(多分偶然かな)、見比べてみると面白いかもしれません。どちらかというと、湊かなえ自身が少年犯罪について調べた中で、無意識に断片的な情報が紛れこんでしまったというのが近いのかも。本当に資料として参照していたなら、もう少し作品自体が作り込まれたものになった感じがします。特に橋本愛の存在とか、もっと違ったものになったような気がするんですよね。
映画「告白」における私があまり良いと思えなかったところを、思いつく範囲で書いて見ます。
- 「母親の愛に飢えた命の価値を知らない少年が殺人を犯す」という設定の安直さ。
- 展開があまりに安直であること。(「少年犯罪だから大丈夫」・「HIV患者の血液を飲んだら感染して絶対に死ぬ」のような「公式」が未熟)
- 「バカ」という言葉が軽々しく使われることが厨二感を掻き立てている。
- 全ての人間の精神年齢・思考回路があまりに同列・似通っており、登場人物がガワだけのハリボテであるような感じがすること。
- 最後の「なーんてね」等「読める」セリフが多い。
- 大人(親・教師)が役立たずすぎる。
- 全体的に人命が軽々しく扱われすぎ。
いくら映像表現がいいと言っても、やはりこのへんのところが解消されなければ、映画として素晴らしいとはいえないように思います。個人的には「告白」はやっぱり、映像表現としては満点なのかもしれないけど、脚本としてはお粗末である、という感じの結論を出したいですね。
とある記事では、「告白」が受けたのは時流にあっていたからというのがあり、それは結構あるのかもしれません。「デスノート」の残滓がまだ残っていたり、「悪人」が同年公開しているなど、犯罪者視点の表現が受けていた頃なのな。(「悪人」のコピーが「なぜ、殺したのか。なぜ、愛したのか。」というのも考えさせられるものがあります、「告白」とコンセプトが似てるのかも)
短めにしようと思ったんですけど、思いのほか掘り下げ甲斐があり、結構長めの記事になってしまいました。良い傾向である。
今回もお読みいただきありがとうございました。
東京と、孤独と、スマホ〜『リップヴァンウィンクルの花嫁』感想
見ました。※がっつりネタバレしてます
岩井俊二監督は『リリイ・シュシュ』と『四月物語』を見たことがあります。ただ、どちらもリアルタイムではなかったので、どうも古い感じがしてピンとこなかったんです。
『リリイ・シュシュ』は特にいじめの描写もきつかったので…。でも『リップヴァンウィンクルの花嫁』は「今」に合ったもので面白かったし、監督は「時代の色」を切り取る、感じるのがすごくうまいのだと思いました。三時間弱あるので、途中で飽きたり疲れたりすると思ってたんですが、ずっと惹きこまれて見てました。
黒木華ってこんなに演技が上手いんですね。地なの?ってぐらい自然すぎてびっくりでした。綾野剛も、出て来た瞬間は先入観がありすぎて、「綾野剛だ…!」って言っちゃったんですけど、自然で、しぐさとか喋り方にリアリティがあって良かったです。
CoccoはもうCoccoで良かったけど、それでも、偽家族と最初に喋るシーンなんか上手かったし、七海に自分の部屋(?)を紹介する際の「ちょっと秘密」にくすっときました。
私はずっとCoccoのファンで、KOTOKOも見たしゴミゼロのドキュメンタリーDVDも持ってるんですが、癖があるのに温かみがあって、動物的で、周囲になんだかんだ愛されていくところとかはまんま地だなと思いました。KOTOKOよりは狂気の影は全面には出て来てなくて、生きるイメージが表だっていたので、精神衛生上は良かったです。
というか、この『リップヴァンウィンクルの花嫁』全体が、「狂気(みたいなもの、≒、孤独?)を託ってそれなりに生きる」にフォーカスして作られていますよね。第一線だったのは結構前のCoccoを、「今」のかたまりのようなこの映画に起用したというのは、監督の時代精神への敏感さを示している気がする。Coccoは古びない種類のもの、孤独感や愛、生きる苦痛なんかを歌っており、それはむしろどんどん表面化しつつあるものな気がするから。
見た後1日くらいずっと見放された感じとか、寂しい感じが去ってくれなくてきつかったけど、それくらい質が高いということだろうなあと。
七海の設定とか性格とかが自分に近くてつらかったです。理屈よりも感情、感傷でみる映画なのかなって感じがします。 七海は弱くて、純粋で、不器用で、口下手で、傷つきやすくて、すぐ騙される。頭もそれほどよくないのかもしれないし、人と関わるのも下手で、精一杯の自己表現といえば、SNSの表層をうっすらと文字で引っ掻くみたいに、何行かの投稿することだけ。綺麗とか派手な感じではないし、どちらかといえば可愛「らしい」というか、「ああよくいるちょっと暗めなタイプね」っていう感じ。でも、肌がしろくて、ウェーブのある黒髪ロングがよく似合っていて、家事をするために髪をあげると、はっとするほど平凡で、没個性的で、「何でもない」ような女性に見える。伏し目がちで、小さな綺麗な声で喋って、自分に自信がなくて、少しおびえたように生きている。 中盤、姑に責められて、泣きそうになった弾みで(お酒のせいもあってか)しゃっくりが止まらなくなってしまって、「何ふざけているの?」と辛辣な言葉を浴びせられるシーンがあるんですけど、そこがすごく七海っぽいと思いました。綺麗に泣くこともできない、要領が悪くて、ちょっと見苦しい感じが。
Cocco演じる真白は、そういう七海の「自分を大事にしてください」という言葉に対して、「私この涙のためなら死んでもいい」と言う。真白自身もやはりいびつな精神を持つ女性であり、AV女優として生計をたてながら、毎日飲み歩いて、無茶な散財を繰り返している。ただ、不思議な存在感と包容力、鷹揚さがあり、そこが七海も一緒にいて楽なんだろうなと感じます。
真白の本質は、七海の純粋さ、計算のない思いやりのような言葉に、誇張でも何でもなく「死ねる」といえるところだという気がする。純粋なものへの底抜けの愛、というか。なんでもかんでも愛して、傷つけられて、まる裸のまま生きてる。ウェディングドレス姿で七海と横たわりながら、真白は言う。
「ねえ、私ね、この世は幸せだらけなんだと思うの。だって人ってみんな優しいんだよ? 運送屋のおじさんが、汗だくで家まで荷物を運んで来てくれたりするの。私ね、そういうことされるたびに、幸せすぎて耐えられなくて、壊れそうになるの。だから、せめてお金を使うの。人間って、他人の優しさとか、思いやりとかを直接受け取ると、眩しすぎてとても耐え切れないから、お金を発明したんじゃないのかな」(大意)
これはすごく「Coccoっぽい」セリフ。ある意味おめでたいと受け取られかねないけれど、でも見るべきなのはそこではなくて、真白というキャラクターが「普通の幸せ」にとても耐えられない心のうつわであること、とても「普通に幸せになる」なんてことを受け止め切れないもろい生き方をしていること。それほどに、彼女の人生は、冷たく、救いのない孤独なものだったということ。
綾野剛演じる安室のチンケな小悪党みたいな感じもよくて。彼自身も別に良い人でも悪い人でもない。良い人のように見せかけた悪い人のようにも、悪い人のように見せた平凡な人のようにも、何にでも見えるし、きっと彼も何でもない。ただの「何でもない」人。息をするように裏切れば、出来るのであれば息をするように助ける。安室も、彼自身彼の責を、本質的に負えるような存在でもない。ある意味狂言回しのようなポジションではあるのですが、等身大(すぎるくらい)のただの「人」でした。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、何本か軸があるように思えました。「東京」、「いびつな家族」、「SNS/スマホ」、そして「待つ」。整理してみたいと思います。
東京
この映画の一つに「東京」っていうのはコンセプトがあるのは確実といってもいいです。冒頭のSNSで知り合った男性と雑踏で待ち合わせるシーン、安室と会うカフェや、働く旅館、真白と行ったウェディングドレスショップとか、あえてどの場所を使ってるのがわかるようにしてあるし。また、ラストらへんに、ビデオ通話?で勉強を教えている生徒から「先生、東京ってどんなところ?」と聞かれて、「どんなところ……なんだろうねえ」と七海が答えるシーンがあり、単なる場所以上の意味を東京に求めているような気がする。
この映画を見ていると、東京は人がたくさんいるくせに、離れているかと思えば近づいて、近づいたかと思うと離れて、いなくなって、触れて、その繰り返しのような気がしてくる。人間同士の距離の酷薄さがより際立つというか。とくに七海と安室との関係は利害関係の一致でしかないし、彼はだいたい七海を利用することしか考えていない(七海はそれに全く気づいていず。最後まで安室に感謝している)。真白との別れはもっとも大きなファクターですし、人と人が会う、親しくなる。離れていく、傷つく、別れる。「その意味って何なの?」を考えさせられる町が、この映画の「東京」な気がします。
いびつな家族
見終わったあと反芻していて気づいたんですけど。この話一つとしてまともな家族が出てこないんですよね。
七海の家族は仮面夫婦で仲は冷え切っている。父親が七海に「お前は幸せになってほしい」と親らしいことを話したり、結婚式で涙ぐむところはあるんだけれど…なんか全然響いてこなくて、白ける感じがある。それは、そもそもその結婚式が、七海と夫の間にすれ違いがあること、偽の親戚を招いたものであるからなんでしょう。嘘の上に跨った、どこか白けた涙。 実際、七海が義母に浮気していると誤解され、「実家の岩手に帰りなさい」とタクシーに押し込められても、彼女は父と母どちらも頼ることなく(連絡をとる描写もなく)、都会の雑踏に揉まれ続けることを選びます。そして夫の実家は夫の実家で、母は息子を病的に愛しており、週に2回は上京し、ホテルに泊まって息子と食事をしている。
真白の家はといえば、AV女優になったことで徹底的に縁を切られており、母親に安室が連絡をとっても、「捨てた娘だから骨などいらない、川にでも撒いてくれ」と言い捨てられる。
七海や真白は、家族や家庭に戻れない。状況して、東京に揉まれ、他人同士に挟まれながら、偶発的な出会いに存在や人生を賭けていくしかない。考えてみれば、今の20代とかと親との感覚の断絶ってすごいんじゃないかな。七海が義母に罵られたように、真白が母親に「都会で金稼いで好き勝手に遊んで楽しいか」と吐き捨てられるように、なんというか、世代の生き方が断絶しすぎて、かけ離れ過ぎていて、通じ合えないことも多いような気がする。
スマホ
ちらほらSNSが出てくるんですけど、そこまで大きな存在感はありません。むしろもっと大きく、 スマホでの人との繋がりのほうが大きいかも。少し例をあげます。
七海が当てもなく、荷物を抱えてぼうっと町を彷徨っているタイミングで、偶然安室が電話をかけてくるところかなあ。我に返った七海が「あれ? ここ…ここどこなんでしょう…」と泣き、安室が「行きますから待っててください、今どこですか?」と尋ねるが、七海が場所を確認する前にバッテリーが切れてしまう。ただの筐体となったスマホを握りしめ、泣き崩れるというシーン。
また、七海が真白とアプリで連絡先を交換したのち、雑踏に紛れて真白がどこかに消えてしまうシーン。渋谷(だったかな?)の雑踏で一人で立ちすくんでから、携帯を取り出し、真白のアカウントにメッセージを送って微笑む七海は、一人だけれど、もう孤独ではない。真白とスマホで「繋がっている」から。これってすごく日常的な出来事でもある。見知らぬ街では特に、スマホの存在は大きい。目の前を通り過ぎる他人よりも、スマホアプリや、アプリを介して繋がる人たちのほうが大切で、かけがえがなくて、自分の生きるよすがになっている。
この映画でスマホ、SNS、ネットでの繋がりというのは、七海を首の皮一枚どうやってか食い止めて、生へと押しとどめるような役割を持っています。大きいのは安室という詐欺師の存在ですが、その安室だってどこにでもいる平凡で、卑怯な男でしかない。だから、その平凡で卑怯な男一人だけでも巡り会えることで救われる七海の生について考えてしまう。彼女を救ったのはやっぱり、安室ではなくて、スマホやアプリなんだろうなと。座間の事件でSNS規制が叫ばれていますが。たとえば七海からこの映画でスマホやSNSを取り上げたとして、彼女が救われるとは考えづらい。もともと孤独な人間の行き場を奪うことで、さらに生きづらくなり、たった一人で死へ向かってしまう可能性も十分に考えるべきだと思います。
待つ
この映画のAmazonのある人のレビューに『「〜を待ちながら」でもあるまいが…』という文章があるんですよね。そのレビューは結構的確な気がします。ラストシーンで、七海が一人でテーブルに座って、向かいの椅子を眺めるシーンがある。そして、立ち上がって向かいの椅子に歩いて行って、背もたれに少し触れる。そこを見て、私は七海は「もう一人」を待ってるんだなって感じました。かつて七海の向かいの席に座ったのは、夫であり、次には真白であったけれど、今はもういなくて、だらしがないみたいに、学習しないみたいに、まだ性懲りもなく、向かいの席に座ってくれる人を求めて、たった一人に戻って生きてる。それがこの映画に描かれた七海の生です。
映画の題名を少し分析すると、やはり「待つ」という要素が現れます。『リップヴァンウィンクル』とはそもそも19世紀のアメリカの作家アービングによる寓話らしい。(以下wikiより引用)
アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していた。ある日、愛犬と共に猟へと出て行くが、深い森の奥の方に入り込んでしまった。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきた。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であった。その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着いた。そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じていた。ウィンクルは彼らにまじって愉快に酒盛りするが、酔っ払ってぐっすり眠り込んでしまう。 ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していた。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知る。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまった。
文字通り捉えると、この物語で「リップヴァンウィンクルの花嫁」(つまりリップヴァンウィンクルの妻)は、20年帰らぬ夫を待ち続けて死んだわけです。監督は「リップヴァンウィンクルの花嫁」という存在に焦点を当てることによって、「帰らぬ(来ぬ)人を待ちながら(…死ぬ?)」という側面を強調したかったのではないかと思います。
確かに映画で、七海は二回ウェディングドレスを着て、指輪を(真白とは架空の指輪ですが)交換しており、「花嫁」というに相応しい記号性を持っている。何と言っても真白のハンドルネームがリップヴァンウィンクルであり、七海は彼女と婚礼めいた儀式をしたわけですから、リップヴァンウィンクルの花嫁=七海は結構瞭然かもしれない。(ちなみに七海のハンドルネームは、夫と出会い結婚するまでは「クラムボン」、以降「カンパネルラ」。)
ただ、花嫁姿という点では真白もウェディングドレスを着ている。より積極的に着たがったという点では、七海よりもそこは強いのかもしれない。また「死ぬ」というのも、真白は死んだわけですから、より完成はされているということにはなります。ではその場合リップヴァンウィンクルとは? という問題にもなってきてしまいますが…。まあ、原作での「恐妻」という要素も削ぎ落とされているので、そこまで準拠する必要はなさそうだし、やはりここは七海を指していると考えていいと思います。
Coccoが好きという贔屓目で見ても、黒木華や綾野剛の演技は白眉だし、映画自体の現代性、孤独感なんかもすごく真に迫るところがあります。他のちょい役の方々もすごくいいです。個人的には、七海が一時期働いてた旅館の人たちが好きですね。あ、あと、野田洋次郎さんがちらっと出てるらしいです。真白と二人で行ったレストランでピアノ弾いてた人だろうか…。すごくしっとりして、きらきらしていて印象的なシーンです。Coccoも少しだけ歌うし。黒木華の歌声が綺麗で、本当に可愛い声なのでそれにびっくりしました。KOTOKOよりも激しくないしグロくもないので、Cocco見て見たいって人はこっちからのほうが入りやすそうです。