にしのひがしの

小説家志望の女が本の感想を書いてゆくブログ。

2018年7月〜8月に読んだ本

 7月〜8月に読んだ本で、記事を書いていなかったものをまとめました。

(案の定)長くなりましたが…。一冊あたりは短いので読んでみてください。

 

優しい鬼 レアード・ハント

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奴隷制があった時代の、中西部(ケンタッキー州シャーロット郡…『パラダイス』)で起きた悲劇。

悲惨な物語は、生々しく開いた傷口を連想させる。ノーベル文学賞作家かつ、黒人女性であるトニ・モリスンの『ビラブド』『青い目がほしい』の痛々しさを思い出させるところがあった。彼女も、黒人たちの苦痛、恨み、憎悪、破壊され尽くした心と体を、克明に、鋭利に描いている。形式自体も少し似ている気がした。寄せてるのか定型があるのか。太古の語り部のようなものを感じさせる。

主な語り手である白人女性・スーは14歳で従兄弟である白人男性に嫁ぐ。スーは、次第に彼らの娘であり奴隷である黒人姉妹に暴行を加えるようになる。だがある日、夫は死に、スーは彼女たちから、粛々と優しく、復讐を始められることになる。根幹に奴隷制の問題があるのだが、スーの視点ではあまり人種に触れられていないので混乱した。巻末の訳者後書きに「自分が奴隷所有者だとわからなくなった白人女性」のエピソードが元とあり、それが意図的に暈されていたことが判る。「鬼」(原作は"One")ってそういう……「優しい鬼」って、あー…って思った。白人女性の罪の塗りつぶしであり、狂気であり、そういうものが「鬼」という表現で為されているのかな。Oneよりも日本語独特の「鬼」表現はいいと思う。「ひと」でもなく「もの」でもなく、「何か」。英語で「鬼」だとまた宗教的な意味合いを帯びてきて、違うものになる気がするから、邦訳ならでは、日本人ならではのニュアンスだと思う。

そういう仕掛けも含め、2度3度読み返さないとなかなか整理できない書き方がされている。改めて見返すと、この本の表紙からしてそうだ、暈されている。それはスーの白濁した意識であり、黒人がもう二度と想起したくない過去であり、消えかける歴史でもある。作中で、黒人奴隷アルフフィブラスが語る『タマネギの話』の重みが良かった。良いというだけでは、違うような気がするのだが、なんと言えばいいのかわからない。凄みがある。口語伝承と黒人、というのはひどく強く繋がっているものだとわかる。それのみが綱のように黒人と黒人の歴史、被虐、血を結んでいる。

アルコフィブラスがいうには、ライナス・ランカスターの道具小屋にあるみたいな鉄を足首につけられてこの国に来たあるコフィブラスのおばあさんはひとの足にクギをつきとおすような話ができたそうだ。(74)

 (読書期間:7/18~20)

 

 

現代世界の十大小説 池澤夏樹

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本好きな方は 池澤夏樹さん編集の『現代世界文学全集』『現代日本文学全集』をご存知だと思う。作家を目指す上で古典や名作を改めて読もうと、自分も何冊か挑戦している。その中で手引きになるかと思い読んだ。一作一作の選考基準、評価はさておき、現代世界文学の潮流、傾向を知る上でよい本と思う。以前記事に書いた『書いて、訳して、語り合う』を併せて読むとなお有意義ではないだろうか。

hlowr4.hatenablog.com

 

全体的に今は民話、口語、素朴な物語の状態に立ち返っている感じがあるのだろうか。複雑に凝った物語ではなく、もっと粗野で原始的、しかし根源的である、物語の始まり、発生現場のようなものに関心が高まっているのかも。

アゴタ・クリストフの『悪童物語』の章では、

固有名や時を特定しない民話的な枠組みの中で、救いのない物語を毅然と容赦無く書くことを通じて、象徴性を帯びた寓話に消化させる。(69)

と指摘される。
 また、先ほどの『優しい鬼』とも繋がるところなのだが、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』の章では、ガルシア・マルケスが、この作品の語り口を「祖母の話し方」に決めた際の話がひかれている。

…ところがあるとき、「祖母が話を語って聞かせてくれたように語ればいい」とひらめいた。つまり、「身の毛もよだつほど恐ろしいことを、今そこで見て来たように、しれっと話す」のです(「グアバの香り」)。そして完成した「百年の孤独」には、たしかに、文章なのに『民話の語り』がある。(55)

他にも、『悶え神』の話などは非常に惹かれるものがあった。文字を持たなかった人たちがそれでもなお残した強烈な物語、その動機は心に迫る。それは石牟礼道子の『苦海浄土』にまで繋がるものだ。

 

 (読書期間:7/19〜7/20)

 

 

マダム・エドワルダ/眼球譚 バタイユ

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この一冊を読んだんだけど正直『マダム・エドワルダ』はよくわからなかった…。収録順は逆のほうがいいと思う。『眼球譚』ならまだ普通の小説っぽくて分かったから。なんか結構考え方自体は理解できるな、と思ってたら遠い昔に澁澤龍彦を読んだことがあったからだったかもしれない。眼球と卵というイメージの重なりは圧巻かつ白眉。「銀河、大空、太陽、すべてを穢し尽くすこと」でしか興奮を得られないこと、つまりは発狂に至る、世界から明らかに背を背けてしか欲情が得られぬ、そして、その欲情なしでは生きていけないこと。それは世界への不信や鬱憤を背景に、ひどく自己破壊的で、虚無的で、自殺的、自爆的な癖(へき)だといえる。それはある種の悲劇だと思うし、同情もした。最後に収録された討論はとても興味深かったし、羞じ知らずと罵られることも厭わず、堂々とこういう口弁ができたバタイユはやっぱり常人じゃない。ゼロから一人で文学でありエロティシズムである、立派なひとつの哲学である、と昇華出来たのは、やはり爆発的な衝動と文才によるものだろう。

シモーヌはいろんな意味で業が深すぎて、「ええ…」ってなったけど、死に様まで一本貫いててむしろ清々しくさえある。

バタイユに従えば、人間が動物と異なる点は、性と死について不幸な自覚を抱いていることである。快楽(生)も苦痛(死)も等しく禁制の烙印を印されている。 それらは、宗教に類する、神聖な領域を形作る」。苦痛と死に直面して覚える不安感を、快楽と性を前にしても感じるのだ。(262)

こういうふうに、性(や死)の快楽自体を抜きに形骸化した「かたち」だけを、ボソボソはずかしそうに語る人間の姿はバタイユには「去勢された」ものと映り、ごまかしと軽蔑の対象なのだろう。

 (読書期間:7/21〜22)

 

 

 

読書の方法―なにをどう読むか 吉本隆明

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「読書の方法」はちょうど知りたいところだった。著者については吉本ばななのお父さんということだけは知っていた。読んでみると、軽妙な感じでいい。少女漫画から資本論まで読み漁る、非常に見識の深い方だったとわかった。『何を、どう読むか』という表題だったが、それについては最初の何十ページかで明快に書かれている。つまりは、子供のときのように、一心に読みたいものを、放埓に読む、ということ。それが理想の読書の姿であること。だが、すでに自分はなかなかできないこと。これまでの自分を振り返って、敗戦を経験してがらりと見識が変わった、というくだりからは、古き日本の知識人といった趣がある。女性作家についての話も興味深い(中澤新一、荒俣宏との対談)。たとえば、女性漫画家は煌めくようなものを短期間で書いて、さっと消える、というところなど。

ニーチェの影響を深く受けていたらしい折口信夫を読んでみたくなった。
 
 (読書期間:わすれた)

 

  

南方熊楠/柳田國男/折口信夫/宮本常一 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集14)

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南方熊楠折口信夫が読みたくて借りた。 四者四様といったかんじでよかった。 読んで見て、特に南方熊楠折口信夫は文章になれるのに時間がかかった。。音読したり書き写したりでなんとか消化できた。
熊楠が神社合祀の意見を出してからたった100年しか経ってないと言う事実に驚愕する。心の拠り所を失った田舎の人々の嘆く様が手に取るようだった。どこまでも縦横無尽な知識に溺れそうになる。文章は濃密で、文机に向かい、全身で憤りながら書いている姿が目に浮かぶ。

死者の書』は本当に素晴らしい。折口信夫の文は絢爛でドロドロ渦巻いてて執念を感じる。平安時代の郎女(お姫様)の生活は本当に、暇だったんだなあと思う。ずっと部屋にこもりきりで、人間としてどうなのかと思う。一方でそれは甘美で…ある意味蕩けるような生活だとも感じる。

屋敷から一歩はおろか、女部屋を膝行り出ることすら、たまさかにもせぬ、郎女のことである。…家に居ては、男を寄せず、耳に男の声も聞かず、男の目を避けて、仄暗い女部屋に起き臥ししている人である。世間のことは、何一つ聞き知りも、見知りもせぬように、おおしたてられてきた。(219)

また、書き出しの「彼の人は〜」の凄み。怪物が闇のなかに、長年の放逐から起き上がり、形なくどろどろと泥のように蠢く感じがよくわかる。半端じゃない。

他収録、柳田国男の文は名前の通り柳のように力まず、さらっと風通しが良い。『妣が国・常世へ』は『木島日記』(大塚英志)で知っていたので、読めてよかった。

初めて読んだ宮本常一の『土佐源氏』は、終盤でうるっと来た。人の心も、男と女も全然変わらないんだな。

 

 (読書期間:7/23〜8/1) 

 

 

小説禁止令に賛同する いとうせいこう

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すばる誌上にて読んだ。面白い。小説の不確実さ、不健全さを指摘し、禁止されて然るべきという体で綴られる、元小説家である「私」の文芸論。執筆者は第三次世界大戦後(?)、分裂した日本で、体制の監視下、収容牢の機関紙への連載というかたちでこの論を書いていく。検閲のために伏せ字にされたと思われる箇所(どうやら東・京、日・本、その他諸々が×になる様子)や、毎回の記事の末尾につく「処罰」報告など、全体にきなくさい臭いがつきまとっている。

「私」の小説禁止令への賛同、つまり小説は危険で不健全で規制されるべきものですよという証明が、逆に小説の面白さ、奥深さを徐々に浮き彫りにしていく。彼がひく作家や小説家は実在する大作家であったり、今も文壇に登場する人物だったりする。そして、その人たちも、彼と同じように収監され監視下に置かれているらしい。どこからが創作でどこからが実在するなのかわからなくなる、そういう騙りが多く使われていて、錯綜する。彼の主張も、彼自身の知識や来歴とは食い違うものである。そもそも、こんなに本が好きで、本に詳しい人間が、小説禁止令に賛同している、わけがないのだ。そうやって様々な箇所に齟齬が産まれてゆく。淡々とした文章の涯てのラストは凄まじい。根本的な読む愉しさに満ちた作品だと思う。

いとうせいこう、ビットワールドのおじさんって思ってたけど実は凄い人なんだな。ひいてくる人物や作品に太刀打ちできなかった。。

(読書期間:8/4〜6) 

 

それから 夏目漱石

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三四郎」の続編的な内容であるといわれる。「三四郎」は何年か前に読んだことがあったので、これを読んでみた。おもしろい。作中に「三四年前」として、三四郎っぽいことが書いてあって、これはそういう意味なのかなと思ったりした。

…その時分は親爺が金(きん)に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金(めっき)が辛かった。早く金になりたいと焦ってみた。ところが、他のものの地金へ、自分の眼光がじかに打つかる様になって以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思われ出した。(83)

前よりも世間を知って、少し賢くなって、それがゆえに、世界をしなに見るようになった青年の話である。

解説にある「悲劇は狂気に至るまでの自己認識の劇」ということばが深い。 三千代さんが藍色の印象の女性。静かで繊細な女性で、感じやすい質の代助が彼女を好きになるのもわかる気がした。漱石の小説の女性は、レイかアスカのような感じの人が多いと思う。

行き着くところが情熱的で、切烈で、わりと序盤は飄々としていた代助がこうなるのが意外だった。

漱石って固そうなイメージがあるんだけれど、実はすごくお茶目な人だと思う。ちょっとしらばっくれたような、知らんぷりしてて空とぼけてるような、そういう日本語の使い方が気持ちよくて笑ってしまう。小気味がいい。なのに時々豹変して、翻るように美しい言葉を使うからどきっとする。

百合の遣い方、三角関係などがわりとストレートだと読んでわかった。漱石の小説世界をわかりやすく把める作品なんじゃないだろうか。労働とお金について懊悩する代助の姿は全然古く感じない。金に遣われる人間であってはならないが、金がなければ生活は成り立たぬ。代助はこの悩みに一生涯苦しめられていくのだろう。それでも、三千代を取った選択は好かった。一途で心惹かれた。

 (読書期間:8/7〜8)

 

それから

それから

 

 

読書について 小林秀雄
 

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小林秀雄は前に硬めの、美学についての本を読んだ。だがこれにはもっとやわらかく、自然なことばで、同じことが書いてあってわかりやすかった。入門にいいかもしれない。『カヤの平』が本当に面白くて、落語のようで普通に笑える。これは柳田邦男の推薦?で教科書にも載ったらしい。小林秀雄自身も『カヤの平』を気に入っていたらしく、選ばれて嬉しいということを書いている。一読の価値有りだと思う。

(読書期間:8/14)

 

エコー・メイカー    リチャード・パワーズ

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 最近処女作『舞踏会に向かう三人の農夫』が文庫化して話題のパワーズ。これはその彼の全米図書賞受賞作品。交通事故に遭い「カプグラ症候群」という脳障害を患った弟と、その姉カリンの奮闘の話。そうはいっても単なる脳障害の闘病記に終わるはずはなく、ネブラスカ州に毎年降り立つ大量の鶴や9.11以降のアメリカ、自我というものへの根源的な問いかけなど、本書のなかでは種々の要素が入り乱れている。「カプグラ症候群」とは極めて珍しい症例で、それまで患者が親しかったものがすべて偽物に見えるというもの。オリヴァー・サックスを彷彿とさせる、神経科医にして患者の症例を本にして発表してきた小説家(?)・ウェーバーの人物像が興味深い。精神科医に直接受診した人の大抵は抱くであろう不信や落胆も精密に描かれている。利己的な部分も身勝手な部分も。自らが長年身につけてきた欺瞞を剥ぎ取られて、ウェーバーが変質していく様は、何というか憐れでもあるし、原始に戻っていく人間を見る気持ちにもさせられる。

彼の自我、「かつて自分がそういう人間であったところのもの」はどんどん瓦解し、細分化し、彼は医師としても男としてもほとんど生まれ更(か)わったようになる。この「細分化し、還元し、(交わる)」という動きは作中の様々な場所で使われる。

心臓が一拍打つ間にその体はウェーバー本人にとって異質なものになる。そこに住んでいる幽霊たちはバーバラの目には見えない。バーバラはこの身体でしかウェーバーを見たことがないのだ。

やがて身体はさらに異質なものとなる。バーバラからどう見られようと構わない。掛け値無しに本当の自分以外のものに見られたいとは思わない。虚ろでみっともない、権威をはぎとられたもの。誰もと同じで境界線がない。(597)

私個人としては、この「バーバラ」が超人的な存在すぎてあまり共感を抱けなかった。元々カリンの視点から始まった物語なのだが…カリンの清算もあまり済んでいないような感じがある。私が汲み取れなかっただけかもしれないが。ただ伝えたいもののスケールの大きさと構想は評価できると思う。巨きなもの。それがミクロに繋がっていく。それは人と人が結びつこうとする動きとなんら変わらない。私たちは分断され孤絶しているが、連帯し繋がりあうことだけが、成り立ちとして志向されている。たぶん。

(読書期間:8/1〜8/11)

 

お疲れ様でした。一冊でも気になる本を見つけていただけたら嬉しいです。最後までお読みいただきありがとうございました。

『すばる』2017年11月号感想走り書き(第41回すばる文学賞受賞作品+佳作感想)

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読みました。うーん。。どっちも微妙でした。賞ごとの傾向はあるんでしょうが、完成度においても文章のレベルにおいても『蛇沼』(新潮新人賞)『青が破れる』(文芸賞)のほうがよかったと思います。 

(それぞれの感想ページはこちら↓)

 

 
山岡ミヤ『交点』第41回すばる文学賞受賞

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内容は、つらい。ひたすらつらい。ずっと気になるのは文章の違和感。語り手の女性のキャラの印象と地の文がマッチしていない。そこに詩人であるという作者の顔が透けている。「『ぺちっと・ぴえ・あぷれ』と英語で書かれた袋の〜」というところは英語じゃなくてアルファベットのとすべきだろうと思ったし、他にもいろいろとはみ出しているところがある。「ペール・ブルー」という言い方にも違和感がある。この子はペール・ブルーなんて言葉がすらっと出てきそうではない。東直子の小説の処女作を読んだときもそうだったが、詩人の方が小説を書くと一人称の視点にわりと粗があって甘い。

あと季節が冬というのに最後まで馴染めなかった。小説世界とあってないという気がする。夏のほうが良い気がした。そっちの方が自分の血液の脈動も、土の中の冷たさも、冷蔵庫で働くというカムオのエピソードも、体感的に映えるだろう。臭いについての描写が多いので、それも夏の方が自然な効果があったと思う。

好きな男と結婚するためだけに子供をつくった母親とその娘。「受け入れてしまう」ということの底のなさ、業、理不尽さ、恐ろしさ、宿命、というのがひしひしと身に迫る。母親の語り口が生々しすぎて強烈で、彼女だけが邪悪な力にもとづいて小説の中で活きている感じがする。彼女は家庭だけでなくこの小説を担い、支配している。その恐ろしい力はありありと描かれている。

このヒロインとだいぶ似ている女の子を知っているので、読んでいて本当につらかった。田舎の閉塞感と毒母のダブルパンチはきつい。終わりもない。親が死ぬまで。それまでこの子は、薄ぼんやりした闇にぽつんと蛍より弱い光を浮かべて居て、ずっと独身かあんまり心が通い合わない男性と一緒になるかするんだろう。。。

内容にとかく救いがなくて、救いがないこと自体がテーマというか、作品世界が暗示していることで、だから、読んだ!いい小説だね!とは私には言えない。この絶望的な世界を小説で提示するにはまだ文章が未熟な感じがある。ちがうテーマでもうちょっと文章を小説になじませて書いてみてほしい。

 

兎束まいこ『遊ぶ幽霊』(佳作)

うーん。。いや漱石好きなんだろうな…って思った。あとは長野まゆみとか。でも話に起伏がないし、内容は浅くてだいぶだらだらしていると思った。弟が女性的に描かれすぎていて、これを一般文芸で出すならせめて妹の設定にしてほしかった。ただ作者はそう言うの好きな人なんだと思う。読んでいて百年とか吾輩は猫であるとか明け透けすぎじゃないか。婀娜っぽいとか、果敢ないとか使いたいだけなんじゃないの? って気がしてきてしまう。PixivにこれよりうまいニアBL耽美純文学風の小説を書く人はたくさんいることを知ってしまっているので、これが佳作かあ、ってなっちゃった。

出だしは良かったので期待した。あと蟹男のくだりはちょっと面白かった。ここから面白くなるかなあ、でもちょっと遅いな、って思った。獣男とか、埃で時間の歪みを描くとかも、ほうほうと思ったけど、『百年泥』の奇想には質量ともに遠く及ばない。どっちかといえばこの作品は純文というよりはラノベ寄りのものなのかもしれない。ビブリア古書堂の事件簿とか。だとすると私の好みとは路線が違うなあ、でも、この人の本を読むなら、長野まゆみを読むよなあ。これから次第かな、という感じでした。

大江健三郎『個人的な体験』『狩猟で暮した我らの先祖』『人生の親戚』『鳥』

 

最近わりと大江健三郎を読んでいました。個人的な感想メモを書き留めておきたいと思います。

個人的な体験(第11回新潮文学賞受賞作)

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大江健三郎の作品は彼独自の哲学や思索のシュミレーションというか、あるひとつの実験的な世界という側面が強い。こう、ある種研究室的というか、ラボというか、一つの舞台セットの上で、意に反した要素のものを埃ひとつも残さず排除し、構成要素を組み立てていく、ちょっと不健康的な感じの小説空間だと、個人的には感じる。その中で『個人的な体験』は小説として、読んだなかで一番面白かった。火見子の人物造形が好きだ。他にもデルチェフさん、オカマになっていた菊比古、堕胎医もキャラが立っていて、生き生きとしている。生身の人間のような現実感がある。血の通った感じがする。大江健三郎の小説の登場人物は、その語り口のある種のぎこちなさからなのか、どこまでも著作者・大江健三郎(メタ主人公)の傀儡というか、操作されているパペット…という印象が否めない。そこが(あるいは若さゆえか)打ち壊され、個性溢れる登場人物も、懊悩する主人公も、生きた新鮮さがある。終わり方も、それまでの鬱屈した自嘲・自罰・逃避というムードから想像出来ないほど晴れやかで、カタルシスがある。当時議論が巻き起こったというふたつのアスタリスク以降も、私は良いと感じた。

火見子の語る「多次元の自分」というのは、そのまま大江健三郎の作品群の特徴となっている。『人生の親戚』でも同様の趣旨が、同じく女性(まり子さん)の口から語られる。

逃避ゆえに強い酒を飲んで酔い潰れ、失敗を犯す、というのは『狩猟で暮した我らの先祖』に出てくる。

障害をおった実子、というテーマはいわずもがな。

 

狩猟で暮した我らの先祖

これは…正直あまり良いと思わなかった。読んでいて「山の人」「流浪する一家」に生理的な嫌悪が先立ってしまった。大江健三郎は、障害児や狂人など、正常でない存在、排除される存在をこれでもかというほど、その醜さや愚かさまでも貫いて描き、なにがしかの真理、尊厳、神性、のようなものを表現しようとしているのは、分かる。それでも、「流浪する一家」は露悪的な部分が多く立ちすぎた気がする。それに、終わり方もまた、途中で一度露出してきた直感を疑問に変えて投げかけているだけで、カタルシスがあまりない。今は一般市民のなかでは追放される存在へと変わってしまった「父祖」、「山の民」、原始の存在と、それに惹かれる自分を描く。この主人公も、あまり共感出来なかった。何しろ障害のある息子の世話をすべて妻に丸投げしているように読めてしまう(自分も精神薬やお酒などを飲んでいるから、苦しんでるんだろうな、というのは暗にわかるが結局逃避の一貫に見える)。「流浪する一家」に心惹かれ、ついていきたいとすら思いながら、自分の不在時に子供をさらわれ傷つけられる事件が起こり、結局擁護も憎みもできず、宙ぶらりんの位置に留まる、というのは。赤裸々な自分のあり方を綴ったというふうにも読めるが、うーん、モヤモヤするだけだった。

 

人生の親戚(第1回伊藤整文学賞受賞作)

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これは結構よかった。今回読んだ他の作品に較べて顕著だったのは、テープ音声や映像、あるいは手紙など、「資料」の情報を継ぎ合わせて、編集し、あとから主人公がそれを横断して書いているような、リポートみたいな書き方を採用しているということ。なんでだろうと考えてみると、読者にとってもこの小説を体験的なものにしたい、という意図があってのことだろうか、という気がする。フランシス・オコナーや聖書、バルザック等、作品の主要部に存在するサブテキスト群は、積み重ね、という印象がある。かさばった重たい歴史の産物。この作品はこの作品だけで完結するのではなく、様々な、千々な、歴史が生み出したものものの総体、その一欠片から、ようやく成り立つ、こもごもを孕んで立っている、といいたげのような。

まり子さんは火見子さんよりもさらに聖女めく、というか、はっきりと聖女的なものになっている。主人公は火見子と同様、まり子さんからもセクシャルな誘いを受けるのだが、もう老境に達しているため、『個人的な体験』のように受けて立ち、幾日もかけてそれに興ずるということはなく、あっさりと断っている。

ラストはさっぱりとしてカタルシスが得られる、と言うわけにはいかない。『狩猟で暮した我らの先祖』と同様、懊悩と自分への問いかけのなかで、煮え切らぬ閉じた終わりを迎えている。だけれど、『我らの〜』ほどのモヤモヤを感じないのは、テーマがさらに圧倒的だからなのかもしれない。もしくは、無宗教の日本人に共通の虚無感というか、ある感覚を指しているから、自分も共感しやすいのか。

作中でへえ、と思ったのは、教団に入ったまり子さんが、性欲を持て余し悩む女性信者に対して演説するシーン。

マスターベイションについて、倫理的な反感をいだくよう私たちは教育されていますが、聖書で批判的に描かれているのは、男性の場合です。子孫繁栄のための精子を、地面に洩らしたということが、批判の眼目なのであって、女性の私たちには当てはまりません。(118)

これって本当なのだろうか。そうだとしたら、女性の禁欲を謳う現在の(欧米圏の)倫理がどこからきたのか気になる。

また、少女時代のまり子さんが間一髪で助かったという「落雷」というモチーフが面白い。これは『海辺のカフカ』にも出てきた。主人公の少年の父親が、雷にうたれて死んだ、その確率について、希少性について、思索をめぐらしている場面がある。雷というのは日本語では「神鳴り」で、神性と結び付けられて考えられていたけれど、キリスト教ではどういう意味あいになるのだろう。『海辺のカフカ』の父子像は「マクベス」を下敷きにしているらしいから、キリスト教的な意味あいの落雷だったのか。など個人的に愉しめた。フランシス・オコナーもまた掘り下げ甲斐があるのだろう。

また、フリーダ・カーロという人を初めて知った。あまりに凄絶な生き様すぎて、まり子さんが作中で、フリーダ・カーロと較べて自分は中途半端だと嘆くところがあるのだが、いやそこまでしなくてもいいのでは、、と思ってしまった。

(作中で言及されるのはこの絵:『ヘンリー・フォード病院』)

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主人公の呼び名が往々にしてバードという点でも、大江健三郎作品のなかで鳥というのは重要な位置をしめているのだろう。この作品は珍しくショートショートで、大江健三郎アルター・エゴともいえる主人公は(表面上)登場してこないし、バードと呼ばれているということもない。大学を辞めて自宅に引きこもっている青年の、鳥の妄想についての話だ。ちょっと星新一とか世にも奇妙みたいな皮肉っぽさがあって、現代的で好きだ。話のムードも、なんていうか、すごく直球で、社会とか共同体とかセックスとかの長編の廻りくどさがなくて良い。新鮮な大江健三郎。それと、大量の鳥群、というので、ちょっとヒッチコックの『鳥』を思い出した。デュ・モーリアと言う人の短編が元なんですよね。それも読みたいなあ。

 

(※『個人的な体験』以外は『日本文学全集』で読了) 

 

『ストーナー』ジョン・ウィリアムズ 感想

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読みました。

 

なんか、すごーーくモヤモヤしました。これはダンサー・イン・ザ・ダークを見た時の感想に似てる。

レビューを見るとみんな褒めてるのも似てる。

 

まず、ストーナーにはもっとやれることもやるべきことも、あると思った。

周囲を幸せにする努力をしていないと思う。

小説の文章は綺麗だし、表現は美麗だし、雰囲気は静謐だけど、でも、内容にどうしても納得がいかない。「自分には何もできない」と言う前に、まずはどう見たって精神に異常をきたしてる妻を、なぜ精神病院に連れてかないの?  自分で心理学の本を読んで見たりしないの?

彼はすべてを受け入れ過ぎていると思う。それを諦観の妙味とか、あるいは老境の美学とか、弱い男の悲哀とかいう人もいるのかもしれないけど。

時代柄精神病に対する知識も乏しかったのかもしれないし、ましてや毒親なんていう考え方も、なかったのだと思う。親子間の虐待についての『魂の殺人』を描いたアリス・ミラーも、最初の著作を発表したのは1978年だという(wikipedia)。第一次世界大戦第二次世界大戦後を舞台としたこの小説には、遅すぎる。すれ違いのように、ストーナーは逝ってしまった。

けれど、それにしたって。

ストーナーは妻になるイーディスと初めて深く話したときに、「彼女は救いを求めている」と感じ、そこにも惹きつけられている。なのに、結婚以後、ストーナーは妻の異常性に飲み込まれ、また文学への探求心、大学教授の雑務などに追い立てられ、「救おう」と思ったことなんかあっという間に消え去ってしまったように読める。ストーナーは妻が自分や娘を前にして三人称で話しはじめても、娘に明らかに、娘の自我を損なう干渉をしていても、自分の書斎を勝手に妻のアトリエや物置として使われても、妻を怒りも叱りもしない。「君にとって結婚生活は失敗だったと思うけれど」と「優しく」宥和し、自分の失望や落胆を棚にあげ、直接生身の体や心でぶつかることを、試みたことも一度もない。

娘にはせめて救いを与えてあげてほしかった。娘は幼児期はストーナーに世話され、精神的にも安定した幼年期を送っていたが、イーディスが突如、娘への無関心から過干渉へと子育ての姿勢を切り替え、彼女を「女らしく」「社交的に」させようと、おそろしいほどの過干渉を行った。その後も度重なる、母から娘へのある意味で「典型的な」精神的な搾取によって、娘盛りには、自分が家を出るか一人暮らしをするかという問いに対し、「どうだっていいの」と言う言葉をつぶやくだけになってしまう。

 

 

ストーナーは娘が…その言葉どおり、絶望に寄り添いながら、幸せに近い生活を行っていることを受け入れた。この先も、年々少しずつ酒量を増しながら、穏やかな気持ちでがらんどうの人生に沈み込んでいくことだろう。父親として、少なくともグレースがその道にたどり着いたことを喜び、娘が酒を飲めると言う事実をことほいだ。

 

この話は祖母〜母〜娘の三世代に渡る毒親の悲劇の典型例として見ることができる。ここまで主人公が何もしないのに、ここまで克明に、はっきりと、三世代の女たちが自我を損ない、精神を病み、「がらんどうの人生」を生きていることが描かれるのも珍しい。ジョン・ウィリアムズはどこまでそれを意図していたのかはわからないが、これ以上ないほど克明に、はっきりと、鋭利に、女たちの心の状態、精神の荒涼さが刻まれている。

 その意味での記録は優れたもの、といえなくもない。けれど、そういう角度でこの小説を見ている書評が、目に着く限りほとんどないのがすごく気になった。

 

 

ストーナー

ストーナー

 

 

 

読んで、訳して、語り合う。 都甲幸治対談集

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読みました。おもしろかったです。

喋ってる内容は結構難しいことなんだけど、話し言葉だからするっと読めて、わかりやすいです。

作家さんとか思想家?さんの対談ならよくあるけど、翻訳者さんの視点からの対談って初めて読みました。海外文学を中心に、現在の世界的な文学の潮流…とか、村上春樹作品の意味…とかが話題にあがっています。

柴田元幸さんなら、多少本を読む人なら大体知ってるんじゃないでしょうか。2000年代の翻訳本の、少なくとも三分の一はこの人が訳している気がする。。都甲さんは、この柴田元幸さんのゼミ生(教え子)だったらしいです。小野正嗣さんとの対談で、都甲さんはよく出来る学生だった、みたいな裏話が交わされています。

 

村上春樹作品の分析が(主に『1Q84』、『海辺のカフカ』、『色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年』)多くウェイトを占めているので(紹介や表紙には書いてないのですが)ハルキストは必読の本じゃないかなと思います。

私は『海辺のカフカ』はとても好きです。それに、父殺しとか、そういうテーマに関心があって、惹かれる小説にもそういうエッセンスがあるものが多い。だから『海辺のカフカ』や「父権」について話されているところが興味深かったし、楽しめました。

「父」「王」「神」という大きな概念の連なりであるとか。村上作品における「父」の不在であるとか。文学史における「父」の扱いの変化であるとか。そういうテーマが刺激的だし面白かった。

 

それと、好感をもてたというか、シンパシーを感じたのが、まえがきの、都甲さんによる各対談を貫いて流れているものについての記述。

本書を読み返してみると、話題は不思議なほど少数のテーマを巡っていることに気づく。自分の置かれた立場に安住しないこと、境界を越えること、そして辛い立場の人に寄り添うこと。経歴も年代も性別も違う語り手が、同じことを大切に考えているのに驚いてしまう。

「辛い立場の人に寄り添う」「立場に安住しない」、「境界を越える」というのは、どれも誰かへと手をのばす、という行為が根底にある。やさしさを伴わない理屈はどれも間違いだと思う。だから、ここを読んだだけで、いい内容だろうなと思ったし、実際いい内容でした。

また、星野智幸さんとの対談では「マイノリティ」について深く掘り下げられていました。(題名も「世界とマイノリティ」)

ざっくりいうと、マイノリティ側に一度立った人間と、そうでない人間とは「認識の形」がまったく違う。自分以外の人たちが共有している前提に対して、苦痛や齟齬をおぼえた人たちが詩や小説のかたちにしたものこそを「文学」と呼ぶ。星野さんはそういう自分の文学観を語っています。

都甲さんも、アメリカの大学院へ留学していたとき、自分がマイノリティであると感じ、辛い感情を覚えていた、ということを話しています。

文学を読むということは、「やさしさ」である、ということが、ざっくりいうと話されている。人の傷への考慮である。個人的には、救いがあって、こういうことを考えてやってる人がたくさんいるなら、日本の文学界もなかなか捨てたものじゃないなあとか、思いました。

読書初心者の方にも読みやすい。現在の世界的な文学シーン、文学の傾向を掘り下げたいという上級者の方も読み応えがある、ハルキストの方にも、英語や翻訳に興味があるという方でも楽しいと思う。万人におすすめできる本でした。

 

 

 

 

 

 

 

町屋良平『青が破れる』〜第53回文藝賞受賞作 感想

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 (文藝2016 冬号誌上で読みました)

 

 

 「気持ちのよい違和感」

 

口語と文語、漢字とひらがな、文学と会話が入り混じってくる文章が新鮮だった。所々詩のような、所々コントのような。形式張ったなにかを描こうとしていない。とことん感覚的で。あまりかっちり小説とか読まないけれど、言葉に対してすごく敏感なかんじが伝わってきた。
ボクサーと文学、というのは結構相容れない処にあるんじゃないかと思う。そのはじまりからして違和感があって面白かった。
流れる青のような雰囲気だ。
このスタイルの文章が評価されるのは、イマっぽいと思う。評価もそうだし、それ以前に、生まれてくるのは、というか。最果タヒとか、「時代につながる」感覚の文体みたいだ。
もちろん文体だけではだめで、形式だけではだめで。かわいたまま、欠けたまま寄り集まって、散会する。癒やし合うとかじゃなく、表層を舐めて、どうしようもなくなってやっぱ終わり、でも続く。そういう感じの水流がある。

流れる青、水みたいな文体に、ごつごつっと氷のように違和感がころがっている。それが読んでいて快かった。
男性新人作家によって書かれた鬱屈した男たちの話、という点では、新潮新人賞を受賞した『蛇沼』とすこし似ている。だが、『蛇沼』が淀み沈み、穢れきった重たい泥水の話だとすれば、『青が破れる』は氷を孕んだ流水のような流麗さ、透明感がある。作家の資質や書くものの選択の話であって、決して優劣や好悪の話じゃない。その差はとても面白い。

 

hlowr4.hatenablog.com

 

作者の町屋氏自身がこの「違和感」を自分の作品の長所であり、印象というか、特色というか、持ち味と捉えているとわかるのが、話のラスト付近に再登場する陽というキャラクター。
この陽の性別や個性について、作者は唐突に、しかし氷のように透徹に違和感をつけくわえる。最初はただの少年として出てきた陽は、この場面においてはまるで結晶のように純粋で「果てしなく甘えられる恋人みたい」な存在に変貌(かわ)る。

町屋氏は、意図的に違和感を周到に使いこなし、配置し、ことば遣いを精査し、自分の作品を書いていっている。それが顕著な文章を少し引用してみる。

あいたいなら、あいにいけばいい。でももうそれは、「おれの夏澄さんへの恋情」ではなかった。あいにいったら、それはおれの欲情であり、夏澄さんの孤独であり、それは情熱を装うけれど、しんじつは空しい。シャワーを浴びてジムにへいった。(26)

怒りというおれのよくしっていることばと概念と感情は、おれのよくしってるやつとじつはちがうものだろうか? とう子さんが危篤になったり、とう子さんが生還したり、そういう奇跡をくりかえすうちに、ふへん的な感情やきもちの交換の基礎みたいなものが一枚一枚剥がされて、一秒ずつはじめましてをいうような、きもちの探りあいをいま、あらためてしているのだろうか。(31)

唐突にひらかれる漢字の数々がわかる。「しんじつ」、「よくしってるやつとじつはちがう」、「ふへん」、「くりかえす」「あらためて」。読者がすらっとこれに目を透したときに覚えるのは「違和感」だし、「立ち止まる」感覚でもある。詩を読んでいる気持ちにも近いと思う。この漢字のひらき方が『青が破れる』の独特の読み味につながっている。文字の(物理的な)密度という点でも、意味のひらきという点でも、随所に光が入っているような感覚を私は覚える。ステンドグラスのように、採光する働きというか。もしくは、漢字で書かれるより、なんとなく透徹した概念といった印象。
無論なんの思惟もない濫用は避けたいところだ。「やさしさ」とかは特に陳腐になりやすいと思う。大事なのは、意図と選択だろう。

また、とう子さんが「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」(28)と歓声を上げるシーンなどは、全文がひらがなだ。
このセリフがひらがなで書かれる意味とはなんだろうか。
ひらがなに開かれることで、日本語の文字は「意味」から「ひびき」に変わるのではないだろうか。英語だと表音文字だから、「音を読む」という感覚が比較的平易なのだろうが、漢字の場合表意文字なので、「意味を読む」(どちらかといえば)「解読する」という感覚となる。
「わたし、とおくにいくのほんとひさびさ!」からは、本当に少し遠くへと、大きな声で、宛てもなく発された歓声を聞くような、そういう臨場感が伝わる。「聞く」というのは「読む」よりもっと即物的というか、生々しい体験だ。それによって、小説世界がリアルに周囲に立ち上がっている感じが強められている。
従来に比べ、より感覚的な日本語の書かれ方といえるのかもしれない。

 

講評のなかで、斎藤美奈子氏は、『青が破れる』を「難病モノ」という括りに入れてしまったせいで、構えて評価できない部分があった、と書いていた。
難病モノ。たしかに、難病の女性(とう子)が出てくるから、難病モノなのかもしれない。ただ、その悲劇性を必要以上に強調したり、死期に至るまでの道筋を克明に描いたり、「いっしょに海を見ようね…」みたいなセリフはない。その点で、これは流行っていた「難病モノ」とは一線を引く作品なんじゃないかと思う。どちらかといえば、とう子の難病は、ある種予定調和というか、生から逃げを打った安穏、という角度から描かれるところがある。物語の主眼は「闘病」ではなく、主人公がボクサーであるように、「闘争」(生・自分への)、あるいは「難病」という理不尽に巻き込まれ、抵抗できなくなった周囲の人々のほうにあるように見える。斉藤氏がいうのは、物語に「難病」というエッセンスを入れること自体を、避ける(あるいは避けたい)ということなのだろうか、と疑問が湧いた。

 

 

〜一言まとめ〜

個人的にはすごくいいなと思いました。比喩が本当にあるような、とか、なるべく自分のことばで、という作者の執筆上の注意にも共感できた。今後注目していきたい作家の一人だと思います!

石井遊佳『百年泥』(第49回新潮新人文学賞・第158回芥川賞受賞作)感想

 

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(新潮2017.11月号誌上で読みました)

 

※ネタバレ注意


最近の芥川賞って、こういう、ちょっとべらんめい感ある女性の一人称小説が好きな気がする。絲井秋子さんとか村田沙也加さんとか。
正直そこまで良い小説とは思わなかった。「わたしのインドで日本語教師体験記+ちょっと小説」、みたいな感じがした。
ラストの盛り上がりがあんまりなかった。主人公の語り口も、設定のぶっ飛び具合もあんまり面白いと思えなかった。
夢オチで済んじゃってもいいような、そんな話だから、主人公と現実との関わりが切迫してこない感じがした。
ファンタジックというには即物的で、ガチャガチャというわりには、ちょっと乙女チック。私だったら、どっちかを削るかなあ。混沌としていて、溶け合う、引き立てあう、って感じじゃないかも。違う要素をぶち込むっていうのは面白いと思うけど。

雑誌掲載ページ数でいうと、80〜101ページぐらいの、中盤がいちばん面白かった。
人魚姫みたいな何も喋らないお母さんと、「2本の脚」がわりになって生活していた少女時代。
お父さんと借金の取り立てに行ったときに、花畑の真ん中で花まみれで横たわって、カモフラージュしていた変なお客さん。
こういうファンタジックで、童話っぽいかわいい要素は好きだった。そのあまーい感じと、『インド』『泥』ってモチーフ、あるいはちょっと粗暴な感じの語り口が、うまく横並びになってなくて、どちらかが逸脱している感じがした。

「長くのびるものを、わたしは好まない」って文章がある。それで、「けだし、この世でいちばん長くのびるものは子宮である」って文章がある。んん、これはけっこう惹かれた。ただ、巧く活きてる、活用されてるなって感じなくて、勿体無かった。自分の母娘関係とか、インドにおける親子観とか、そういうものから派生して書かれた文章かもしれないけど、もっとつながる、訴えかけるモノがあってもよかったのかな。
あと、アナザーの世界というか、自分が選択しなかった行動や、場所や、時間の過ごし方、体験というものについて、気になってしまう、っていうのも、感受性としては魅惑的。

結構落語調というか、受け狙いというか、オチをつけるような語り口なんだけど、過去の思い出とかを話すときには、ふわっと変わって、ややもすれば美文調みたいな文体になったりする。印象的ではあるし、美文調は綺麗で好きだけど、乗ってる電車ががたぴしがたぴし揺れて落ち着かないような感じを受けてしまった。

タミル語が洪水が起きた朝に全部理解できるようになっている、インド人は交通混雑の回避のために翼をつけて飛ぶようになっている、大阪府との親交策によって、仏像と招き猫をトレードしている、日本語学校の美男子の生徒に見つめられて髪が焦げる。


「不可解」なこと、さして意味もないように見える奇跡がとかくたくさん、説明もなく起きる。そこに馴染めるか?面白がれるか?というのが、この小説を楽しめるかの分かれ目かも。